先に帰る人
出帆の二日前、俺はエルナの借りる部屋を見に行った。
工房へ近く、窓は東向きだった。
壁に残った釘の穴を彼女が指でなぞり、ここへ道具袋を掛けると言った。
俺は寝台が狭いと思ったが、二人で使う部屋として見ているのが間違いだった。
窓の縁に、釉薬の流れた小鉢が置いてあった。
「持ってきたんだ」
「ここで使うから」
彼女は答え、底の水を拭いた。
俺は、村へ帰ってから使う物だと勝手に考えていた。
彼女の今の生活は、帰るまで待機している時間ではない。
ここで朝食を食べ、仕事をし、器を洗う。
そのための小鉢だった。
部屋を出るとき、エルナは鍵を二度確かめた。
「閉まった?」
俺が聞いた。
「閉まった。でも、もう一回」
彼女は少し笑い、もう一度押した。
用心深さを、仕事の能力と同じようにいつも整った形で持っているわけではない。
慣れない部屋で一人になる前には、戸の手触りを確かめたくなる。
それを俺のための弱さとして受け取らないようにした。
*
港ではミソサザイへの積載が進んでいた。
乾いた布、金属の小部品、封片を保管するための新しい包材。
俺が運ぶ部材の控えは、防水の袋へ入れた。
サーヴァは荷の置き方を見て、一つを奥へ移すよう言った。
「一番先に使いたいものを、底へ入れるな」
「向こうで使う順番に」
「揺れてる途中で出すかもしれない道具は?」
俺はやり直した。
旅に慣れたつもりになる周期だけは、いつも短い。
ユストはエルナの帰りの便を説明した。
三か月の仕事が予定通り終われば、季節の終わりの商船へ乗れる。
風と積荷によって日付は前後する。
乗船が確定したら、港の窓口から紙を出す。
出発を待たずに、予定と変更を別々に知らせる。
俺は同じことを二度聞いた。
「書いたんだろ」
サーヴァが言った。
「書いた」
「じゃあ、紙を信じるか、人にもう一度説明させるか、どっちか一つにしてくれ」
「紙も、人も間違うでしょう」
「だから、両方へ同じ質問をする以外の確かめ方を覚えろ」
俺は返事に詰まった。
エルナが笑い、私も変更があれば知らせる、と言った。
その声へ、俺はまだ安心の保証を欲しがっていた。
何も起こらないと約束してほしかった。
しかし、その約束を俺自身も渡せない。
*
最後の夜、俺たちは高い店へは行かなかった。
共同台所でいつもの汁を食べ、仕事の話をしないようにした結果、何を話すか少し困った。
俺がそのことを言うと、エルナは、仕事の話をしてもいいんじゃない、と笑った。
「禁止すると、余計に気になる」
「じゃあ、一つだけ」
「その言い方は、だいたい一つじゃない」
俺は、村の灯台の窓がまた塩で曇るだろうと話した。
彼女は、ロスカの工房へ送る紙の扱いを説明した。
そこから、父の上着に糊をつけて母が怒ったこと、レクの店の戸が以前より静かになったこと、ミラの学校で布を染める授業があることへ話が移った。
彼女はミラと工房で会ったのだという。
「僕の手紙、読んだって?」
「その話はしなかった」
「そっか」
俺は頷いた。
謝った結果を、自分へ報告してもらう権利まであるわけではない。
食後、少しだけ外を歩いた。
港の水は黒く、灯りの下だけ金色に揺れていた。
船の側面に当たる音が、岸の石段とは違った響きを持つ。
エルナは腕を組み、風を避けるように俺の隣へ寄った。
「寂しくなると思う」
彼女が言った。
「僕も」
「だから帰る、とは言わないよ」
「うん」
俺は彼女の手へ触れた。
「でも、帰ってくるのは楽しみにしてる」
「それは、私も」
口づけをすると、彼女の唇は風で少し冷えていた。
俺はこの感触を、何か大きな意味へ加工せずに持っていたかった。
忘れないという誓いはしなかった。
それでも、その晩の出来事が自分の中に残ることを、素直に願った。




