↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
向こう岸の朝食
PR
57/196

祭の夜の契約書

エルナが三か月の仕事を引き受けると決めたのは、港の小さな祭の日だった。


祭のために決めたわけではない。


契約の返事の期限がその日で、俺たちの予定より先に街の暦があっただけだ。


昼の工房で、彼女は責任の範囲を二か所直し、最終の支払いの時期を確かめた。


俺は隣に座らなかった。


外の階段で、船へ積む小さな箱を膝に乗せて待った。


彼女が困れば呼べる場所にいることと、話の中心へ入り込むことは違う。


出てきた彼女は、肩の力を少し抜いていた。


「決まった」


「うん」


「顔が、変」


「応援してる顔の練習中」


エルナは笑った。


それから、俺の隣へ座った。


「無理に嬉しそうにしなくてもいい」


「嬉しいところもある」


「知ってる」


「面白くないところも」


「それも」


俺は少し救われた。


だが、分かってくれることと、こちらの気分に従って仕事を取りやめてくれることを、混ぜないようにしなければならなかった。


夕方になると、港の広場へ布が張られた。


魚を焼く匂いが風に乗り、いつもは荷車の通る場所へ長い卓が並ぶ。


子供たちは濡れた石へ滑りそうになりながら走り、叱られては方向だけ変えた。


大人の言うことを聞くという動作には、驚くほど多くの解釈がある。


俺たちは一枚の皿へ食べ物を取りすぎた。


焼いた魚、甘い根菜、細く切った海藻を粉でまとめたもの。


エルナは最後の品を二つ取った。


俺は香りが苦手だったが、彼女は気に入ったらしい。


「これ、家でも作れるかな」


「材料を持って帰れば」


「乾いたのを探してみる」


帰る話をする彼女を聞いて、俺はここで働くことと向こうへ帰ることが、彼女の中で同じ未来に入っているのだと少し理解した。


楽器が鳴り、人が輪を作り始めた。


エルナは行きたいと言った。


俺は踊りを知らないと言った。


知らないなら見て覚えれば、と返された。


俺の前世の知識は、こういう実用の場ではいつも品切れだった。


輪の中で足を踏まれ、俺も誰かの足を踏んだ。


最初の謝罪の後は、笑って場所を直すだけになった。


エルナは上手くなかったが、失敗するたびに肩を揺らして笑った。


仕事で紙を傷めたときの硬い顔とは違う。


彼女を一つの性格へ揃えようとしているのは、俺のほうなのだろう。


汗をかいて輪から出ると、レクが屋台の板へ肘をついていた。


片手で器を持ち、もう片方で焼き物の串を外している。


「医者なら、踊りも上手いと思われる?」


俺が聞くと、彼は変な顔をした。


「さあ。錠前屋は、踊りの下手さを仕事のせいにできる」


「何て言うの」


「膝が錆びてる」


エルナが声を出して笑った。


俺は、先に言えばよかった、と本気で思った。



*



祭の帰りに、今後の支払いを確かめた。


灯りの下で金銭の話をするのは、雰囲気を壊すどころか、これから彼女がここで暮らす時間を現実のものにした。


ロイの支援費、俺の送金、手紙を運んでもらう代金。


どちらかが働けなくなったときに連絡する相手。


エルナは宿を替える予定だった。


工房に近い家の二階へ部屋を借り、朝の通りを減らせる。


窓が東を向いていて、仕事前に明るいという。


「鍵は、誰が持つ?」


俺が聞くと、彼女は貸主と自分だと答えた。


俺の分は、と言いそうになった。


次に来る予定もないのに、持っていれば近くにいるような気がしたのだろう。


「住所を、二通書いてくれる?」


代わりに頼んだ。


「失くす?」


「一通は工房に。もう一通は自分で持つ」


彼女は頷いた。


部屋へ戻ると、買った小鉢が卓に置いてあった。


包むのはまだ先だった。


俺はそれを棚の端へ勝手に寄せず、明日の朝に使うのか聞いた。


「使う」


彼女は答えた。


だから、そのままにした。


別々の場所で暮らす準備は、大きな言葉だけでなく、今夜ここにある器へ手を伸ばさないことからも始まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。