正しい側へ立つ値段
宿へ戻ると、グレンは寝台の端へ腰を下ろした。
荷物はまだ解いていなかった。
帰れる家があると思って来た男の荷は、小さかった。
何日もこの部屋を使うつもりの備えがない。
「宿代、足りますか」
俺が聞くと、彼は財布を見た。
「しばらくは。帰ってから働こうと思ってた」
俺はすぐに、工房に手伝う仕事があるか聞く、と言った。
言った後で、誰の仕事を誰へ回そうとしているのか考えた。
俺自身も臨時の仕事で宿代を稼いでいるところだった。
エルナは請けている修復工房へ行き、俺はグレンと港の運送所を訪ねた。
荷札を読み、樽の数を確かめ、濡れた伝票を乾いたものへ写す。
給金は高くなかったが、翌日からの仕事が一つ見つかった。
彼は運送所の若い親方へ頭を下げ、説明を最後まで聞いた。
昔この港で働いていた、と自分からは言わなかった。
帰りに俺は、財産のことはきちんと確かめるべきだと言った。
「生きてるんだから、全部取られたままはおかしいですよ」
グレンは頷きかけ、止まった。
「取られた、のかな」
「そういう意味じゃ」
俺はすぐ否定したが、そういう意味もあった。
「亡くなった扱いにされたとき、家を維持するために分けたんでしょう。でも、今は生きてるから」
「うん」
「向こうだって、返せるものは」
「ノア。俺は、まだ何も聞いてない」
彼は立ち止まった。
「怒ることは、たぶんある。でも、俺が怒る前に怒られると、どうしたらいいか分からなくなる」
俺は黙った。
助ける立場は、被害の持ち主より先に怒れる。
しかも、その怒りによって自分を善い人間へ置ける。
俺はずいぶん便利な場所を見つけたものだ。
*
数日後、レダの家へ書類を取りに行った。
グレンは仕事のため、エルナは紙の乾燥の時刻を外せなかった。
俺一人で来たことに大した意味はないのだが、そのときは自分が話を進める役を任されたように感じていた。
コルが戸を開けた。
頼んでいた帳面は用意されていた。
長期不在の申立て、財産の整理、家の修繕に借りた金。
レダが帰るまで待つかと聞かれ、俺は玄関脇の椅子へ座った。
少女が廊下の先にいた。
この前より大きく見えた。
俺が挨拶すると、少し頭を下げたが近づかなかった。
名前はミラ、とコルが言った。
「紙のこと、終わった?」
彼が娘へ聞くと、少女は頷いた。
俺は、家が変わるかもしれないことを、この子はどう聞かされているのだろうと思った。
そして、聞くべきでない形で聞いてしまった。
「お母さんが昔一緒に暮らしていた人が、帰ってきたのは知ってる?」
少女の顔が固くなった。
「知ってる」
「その人にも、この家のことを話してもらわないと」
「ここを出るの?」
俺は驚いた。
「そんな話は」
「出るのは、私たち?」
コルが娘のほうへ一歩動いた。
俺は、違う、と言おうとした。
だが、俺自身がさっきまで、帰ってきた人の家を返すべきだと思っていたことを、子供へ見抜かれた気がした。
「まだ何も決まってない」
「じゃあ、決まってない話を、私にしないで」
少女は言った。
声は震えていたが、言い終わるまで俺を見ていた。
コルが、今日は書類だけで、と言った。
丁寧な声だった。
その丁寧さが、出ていってほしいという意味をはっきり持っていた。
俺は帳面を受け取り、礼と謝罪をした。
外の布はよく乾き、風で軽く音を立てていた。
誰かを正しい場所へ戻すという話には、既にそこに暮らす人がいる。
その当たり前を、俺は子供へ怖い思いをさせてから思い出した。




