書かれなかった日
九歳の冬、父が帰り道を間違えた。
間違えたと言ったのは父自身だった。
北の境標を見に行って夕刻を過ぎ、暗くなってから粉屋の裏へ現れた。
そこは家と反対側だった。
トマの父が送ってきたとき、上着の袖が裂け、右の手袋だけがなかった。
母は事情を聞く前に湯を沸かした。
ミアに布を持たせ、俺には濡れた外套を炉から離して掛けるよう言った。
父の腕には細い傷がいくつもあり、肘の近くで皮膚が黒ずんでいた。
「枝を踏み抜いた。谷で足を取られたんだ」
父は説明した。
魔獣の話は、俺が寝たと思ってから始まった。
寝ていなかった。
階段の上から台所の灯りが見えた。
母は父の腕へ薬を塗り、父は見えないところを見ていた。
「道を押し戻した。少しだけのつもりだった」
「どこを失ったの」
「北道。途中までは分かる。水場を過ぎると、知らない場所になる」
「ほかは」
長い沈黙のあと、父は笑った。
「お前と初めて話したところ。あそこ、北の水場だったか?」
母の手が止まった。
やがて彼女は薬の蓋を閉め、乾いた布を伸ばした。
「違うわよ。南の収穫市。あなた、蜂蜜酒を零したの」
「そうだったな」
「そうだった、って言わなくていい」
父は口を閉じた。
母は怒っていなかった。
ただ、包帯の端をいつまでも探していた。
すぐそばにある端を見つけられないほど、別のことを考えていたのだろう。
「話してくれるか」
父が言った。
母は椅子を寄せた。
いつも父を笑いものにする話だったはずなのに、その夜は途中で何度も言葉が止まった。
俺は階段に座り、足の裏が冷えきるまで聞いていた。
次の日から父は、北道の見回りへ別の猟師を連れて行った。
取り分は減った。
ミアが新しい靴を春まで待つことになり、俺に買うはずだった紙も見送られた。
魔法の代償は、一人の頭の中だけでは終わらなかった。
雪が消えた頃、村に記録師が来た。
名をオルネといい、片目の上に古い傷があった。
大きな鞄を驢馬に載せ、自分は杖をついて歩いていた。
魔術師なら空を飛べばいいと思ったが、彼は俺の質問に、歩ける距離を飛ぶ金持ちは知らない、と答えた。
同行していた少女は俺より一つ年上だった。
エルナ・ヴェル。
髪を短く切り、左の耳の上でだけ少し跳ねている。
人を初めて見るとき、顔の次に手を見た。
彼女の指は、爪の脇まで黒いインクに染まっていた。
母は二人を台所へ通した。
座る場所が一つ足りず、俺が窓際の椅子を動かそうとすると、父の手が先に伸びた。
何も言わず、外の作業用の腰掛けを持ち込んだ。
エルナはその動きを見ていたが、理由を聞かなかった。
俺は気づいているぞという顔をしたかったのに、彼女がこちらを見なかったのでできなかった。
オルネは境標の帳面を開いた。
「ここ三年、徴用の回数が増えている。修繕した量に比べて、保持が短い」
父は頷いた。
村の境には魔獣を遠ざける石があり、猟師が交代で記憶を注いでいた。
俺はそれを普通の仕事だと思っていたが、オルネの顔には普通でないものが浮かんでいた。
「古い流路が、どこかで食っている」
「灯台か」
父が聞くと、老人は少しだけ目を細めた。
「そう考えた人は、君が初めてではない」
その返事に、俺はひそかに落胆した。
世界の異常を発見したのは自分だけではなかったらしい。
翌朝、灯台の下へついて行った。
エルナは長い紙を石壁に当て、炭を薄く擦って刻線を写していた。
俺が意味を知っているふりで覗き込むと、彼女は紙の端を持たせた。
「ここ、押さえて。風でずれる」
「魔法で止めれば」
「手がある」
簡潔な答えだった。
俺は言われた通りにした。
オルネは俺が魔法を使うと聞くと、二つの浅い皿を置いた。
一方に水を入れ、もう一方へ移してみろと言う。
俺は得意になり、前世の雨道を思い出した。
濡れた靴下の不快さが浮かび、水が皿から細く立ち上がった。
半分ほどを移したところで老人が止めた。
「そのまま、誰かに迎えに来てもらったときのことを思ってみろ」
俺は口を開きかけた。
母が駅まで傘を持ってきたことがあった。
会社を辞めた日の、もっと前。
雨の中で見つけた車の灯り。
差し出す直前、手が震えた。
「それは駄目だ」
「よろしい」
老人は皿を片づけた。
「強い術は使えるか、ではない。何を使わずに済ませられるかだ」
講義が始まった。
記憶には体験としての厚みがあり、言葉にした知識とは違う。
火は熱さや怒りに、流れは安心や喪失に、移動は道筋に馴染みやすい。
ただし系統を決める神がいるわけではなく、何を何と結びつけて覚えてきたかによる。
川で溺れた者にとって水は恐怖であり、渇いた土地の者には帰還の喜びかもしれない。
「同じ話を百遍聞けば、百回使える?」
「その百遍を、別々の人生として生きられるならな」
老人は杖で土を突いた。
「繰り返しは重なる。毎日新しいものを見れば幾らか蓄えられるが、驚くために生きるのは案外疲れる。まして、昨日のパンを百人分の橋にはできん」
俺の産業革命はまた遠のいた。
エルナは隣で写しを畳んでいた。
ふと彼女が、父がよく言っていた、と呟いた。
「何を?」
「記録と記憶は違うって。書いたものを読んでも、同じ燃料には戻らない」
「お父さんも記録師?」
彼女は紙の角を揃えた。
揃っていたのに、もう一度。
「そう」
そこで話が終わった。
俺は聞いてはいけないことを聞いたらしいと察したが、黙るより気の利いたことを言いたかった。
「僕なら、忘れないようにできると思う」
エルナは俺を見た。
笑いも怒りもなかった。
「何を?」
アニにも同じことを聞かれた、と俺は思った。
この世界の女たちは、俺の曖昧な長所を具体化させたがる。
答えられないでいるうちに、彼女は紙を鞄へしまった。
オルネは三日後に村を出た。
灯台の根元の調査には許可が必要だという。
古い公共建築は、用途が分からなくても公共のものらしい。
老人は父に当面の境標の修繕を教え、俺には薄い練習帳を一冊くれた。
「術を使った日は、使う前に何を考えたか書け。使ったあとは分からなくなる」
見返しには、止め目の図が三つ描かれていた。
その下に別の筆跡で小さく、紙をけちって小さく書くと後で読めない、とあった。
エルナは別れ際にも愛想よく笑わなかった。
俺は礼を言う代わりに、次に来たときはもっと上手くなっている、と宣言した。
「字が?」
彼女はそう聞いた。
俺は腹を立てながら、練習帳を雨から守るため上着の中へしまった。
その冬、ミアが家を出たいと言った。
正確には、南の町の薬室へ三か月だけ学びに行きたいという話だった。
俺は最初、それを重大な出来事とは思わなかった。
姉がいるのは家の性質の一つで、炉があり、階段があり、俺に小言を言うミアがいる。
そのうち一つが自分の希望でどこかへ行くとは、あまり考えていなかった。
夕食が終わり、父が弓の弦に油を塗っていたときだった。
ミアは皿を洗い終えてから、濡れた手を前掛けで拭いた。
いつもは適当に済ませるのに、その日は指の間まで念入りだった。
「春から、薬室の手伝いを募集してるんだって」
母は干し葉を選っていた手を止めた。
「誰に聞いたの」
「市の日に来た、薬売りの人。寝る場所はあるって。働いた分で教えてもらえる」
父は弦を張ったまま黙っていた。
俺は食卓の下で靴紐を弄び、町へ行くなら紙を買ってきてほしいと思った。
姉の人生に対する最初の関心が買い物だったのは、あとから少し恥ずかしくなった。
「ここで教えることと、何が違うの」と母が聞いた。
その声音が少し硬かった。ミアは気づいて、言葉を選び直した。
「骨のことを習える。獣と人の違いも。あと、針を使う手当をもっと」
「針なら私も使うわ」
「知ってるよ」
ミアの顔が赤くなった。
言い争いたいわけではなかったのだろう。
母も、引き止めたいだけではなかったと思う。
自分が教えてきたことでは足りないと言われたように聞こえたのかもしれない。
俺は間を埋めるつもりで言った。
「姉ちゃんが行かなくても、僕が魔法で治せるようになればいいんじゃない」
台所が静かになった。
ミアは俺を見た。それから、俺より先に母を見た。
「私が習いたいんだけど」
その一言で、俺の提案の穴がようやく分かった。
俺は必要な仕事を誰かができればよいと思っていた。
姉がその仕事をしたいことを、計算に入れていなかった。
父が弦を緩めた。
「金は、どれくらい要る」
「行きの荷車代と、道具を少し」
「紙に書いてあるか」
ミアは畳んだ案内を出した。
前から何度も読んだらしく、折り目が白くなっていた。
俺の知らないところで、彼女は考え、尋ね、紙を手に入れていた。
母はその紙を読んだ。最後まで読んでから、薬室の名前に指を置いた。
「ここなら、昔一度お世話になった。先生は厳しいよ」
「いい」
「朝が早い」
「起きる」
「洗濯も自分でするのよ」
「してるでしょ、今も」
ミアの口調がいつものものへ戻った。母は笑いかけ、少し遅れて笑った。
「そうね。してたね」
行くことは、その晩には決まらなかった。
父が町へ確認の手紙を出し、母が知人へ話を聞いた。
俺はその手続きを過保護だと思ったが、寝床と食事の用意を他人に任せることには、それだけの準備が要った。
ミアが出かけたあと、家は静かになった。
静かな家は快適だろうと思っていた俺は、一週間で考えを改めた。
夕食の席で冗談を言っても、父は狩りで疲れていて聞き流し、母は仕事の帳面を考えていた。
ミアなら、つまらない、と返してくれた。その返事が会話を続けていたことに、不在になって初めて気づいた。
仕事も増えた。
俺は水を汲み、器を洗い、母の薬包を数えた。
今までそれらを誰がしていたか尋ねたら、自分がどれほど見ていなかったか知れるだけだった。
母はときどき、二階へ向かってミア、と呼びかけた。そのあとで笑って言い直した。
「ノア。手を貸して」
最初はついでに頼まれるのが不満だった。
二度目には、俺が手を貸せることを忘れられないように先に近づいた。
それが褒められたいからだったのか、母の疲れた背を見たからだったのか、自分でも区別がつかなかった。
姉から手紙が来たのは、出立から二十日ほど経った頃だった。
薬室の寝台が硬いこと、同室の女が鼾をかくこと、間違えた薬の名を十回書かされたこと。
文句ばかりのあとに、小さく、針の持ち方を褒められた、とあった。
父はその部分を二度読んだ。
母は、あの子は手が器用だから、と言った。
俺は俺で、字が少し読みやすくなっている、と偉そうな感想を述べた。
その夜、俺は返事を書いた。
水汲みが大変だから早く帰れ、という文章を最初に書き、消した。
いや、消した跡がひどかったので、紙を裏返した。
『母さんが、ときどき名前を間違える。父さんは手紙を何度も読んだ。僕は皿を一枚割った。帰ったら針の使い方を見せて』
自分の字を眺めていると、前世の母にこういう返事ができていればと思った。
何か立派な成果が出るまで連絡できないと考え、その成果が出ないことを連絡しない理由にしていた。
皿を割ったという程度の話で、人に手紙を書いてよかったのだ。
春になる直前、父が罠の見回りへ俺を連れていった。
ミアがいないぶん家の働き手が足りず、俺を鍛える必要を感じたらしい。
十歳になった俺は子供の歩幅で雪解けの森を歩き、父の背が遠ざかるたび腹を立てた。
身体が小さいのは俺の責任ではない。
父は倒木の横で立ち止まり、地面を指した。
鹿に似た足跡があった。前へ進んでいるはずなのに、後ろ向きの跡がところどころ混じっている。
「戻り角だ」
父が言った。
角を持つ獣の一種で、森に暮らす普通の鹿より小さい。
追われると、ごく短い距離感を乱す。そのせいで追跡者は、同じ木の前を何度も通ることがあるという。
「人の記憶を食べるの?」
「そう言う者もいる。俺は見たことがない。足元がおかしくなるのは確かだ」
父は、知らないことを知らないまま話した。
俺は以前なら物足りなく思っただろうが、その日は少し安心した。
罠の一つに、戻り角が掛かっていた。
細い後脚が輪に締められ、腹が雪に濡れていた。
近づくと黒い目を向け、鼻を鳴らした。父が止まれと言ったので、俺も止まった。
次の瞬間、足元の倒木が遠くなった気がした。身体は動いていないのに、目から受け取る距離がずれた。
父は俺へ目を閉じさせ、肩を掴んで場所を移した。
距離を見ないで歩けば影響は弱い。
獣の術は何でもできるわけではなく、見えるものの遠近を短く曲げるだけだった。
「魔法で押さえれば」と俺は言った。
「押さえるだけなら縄でいい」
父は長い棒と縄を使い、獣が暴れない角度で脚を解いた。
逃がすのかと思ったが、傷を確かめて首を振った。骨が折れていた。
治すには形を知り、痛みの記憶を大きく差し出す必要がある。野へ返しても生きられないという。
俺は見たくなかった。
父が止めを刺すあいだ木の向こうへ行っていいと言ったので、行った。
偉そうに魔法を提案した人間が、最後に役立ったのは何も見ない能力だった。
だが、木の向こうで待っていると、父一人に任せたことが気になった。
戻ったとき、獣はもう動かなかった。父は俺を責めず、血を拭く布を取ってくれと言った。
俺は渡した。
前脚を持ち、縄を結ぶのを手伝った。
獣は温かかった。
生きていたものが、死んでもすぐに冷たくならないことを知った。
帰り道、父は俺に小さな角を一本持たせた。
立派な戦利品のつもりではなく、荷が多かったからだった。
「怖かったか」
「あんまり」
見栄を張った。
父は頷いたが、信じた顔ではなかった。
「俺は最初、吐いた」
「父さんも?」
「そのあと、腹が減った。それが一番嫌だった」
俺はその言葉を、家へ帰ってから何度も思い出した。
夜の鍋には戻り角の肉が入った。俺は最初の一口をためらい、それからおかわりをした。
母は何も言わなかった。
父も。家で食べる肉の向こうに何があるか知っても、腹は減った。
俺が何者かを、一つの綺麗な気持ちだけで決められないことは、獣の肉より呑み込みにくかった。
ミアが戻った日、俺は彼女の荷を半分持った。
彼女は驚き、それから疑った。
「何か壊した?」
「皿は手紙に書いた」
「ほかに?」
「ない」
嘘ではなかった。その期間に限れば。
ミアの鞄には新しい針入れがあった。
父が森で作った小さな角の留め具を渡すと、彼女は声を上げて喜んだ。
俺も持って帰った、と主張しそうになり、やめた。持っただけだ。
それでも、留め具のついた針入れを見るたび、あの森の寒さが少し戻った。
その夜、五つ目の椅子にはミアの荷物が載った。
食事の前に母がどけ、いつもの場所へ戻した。俺は空いた座面を見た。
誰がいたのか知らないまま、一人が帰ることと、もう一人を待ち続けることが、同じ部屋で起きていた。




