↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
まだ生まれない名
PR
45/196

閉じたまま守るもの

保全庫の屋根は、雨漏りしていた。


世界を越えた人生を収める場所にしては、ひどく身近な不具合だった。


入口の横へ桶が三つ並び、そのうち一つには、落ちてきた水がもう指二本分ほど溜まっている。


踏み台の上の職人が天井を叩くと、白い粉が舞った。


「こちらは通らないでください」


ディオルが言った。


俺は言われた通り、濡れた板を避けた。


初めて見る巨大な装置に胸を躍らせる準備をしていたのだが、最初に教えられたのは雨を踏まない歩き方だった。


庫への見学は、ノアの記録の閲覧とは別だと説明された。


制度を理解するための通路だけで、個々の体験を開くことはできない。


エルナはそれに頷き、誰がどの範囲を許可したかを書いた。


奥へ入ると、空気が冷たくなった。


棚には鉱石を挟んだ平たい容器があり、それぞれ布に包まれていた。


人が入れる大きさではない。


俺はそれを見て安堵し、何を想像していたのか自分でも分からなくなった。


眠った人間が並んでいるのでも、声がいつまでも聞こえているのでもない。


修繕係が一つの容器を台へ移した。


布の表に小さな染みがあり、その周りを指で押して湿りを確かめている。


「中の人は、ここが雨漏りしてることを知ってるんですか」


俺が聞くと、修繕係は顔を上げた。


ディオルが答えた。


「現在を見聞きする身体はありません。ここで時間を過ごして考えている、と確認されたものではないのです」


「眠ってるのとも、違う?」


「眠るのは、生きた人の状態でしょう。これは、その人が生きた体験を保全したものです」


理解したと思うたび、違いが一つ増えた。


修繕係は布を替えた。


容器を開かず、継ぎ目へ細い板を当て、縁の変化を記録する。


雨漏りを止める仕事と、原本の封止を調べる仕事は別々で、どちらかを怠ればもう一方だけでは守れないという。


「この中から、もう渡した人の人生も見られる?」


俺は聞いた。


自分の声に、期待が混じっていた。


日本の母の顔、父の声。


もう内側から帰れない家族旅行。


ここには、それらの予備があるのではないか。


ディオルは、別の棚を指した。


布を外された空の枠が並んでいた。


中央の鉱石は透明に近く、薄い筋の名残だけが端へ寄っている。


「払い出した後の容器です。内容はありません。残るのは番号と、封止を開いた痕です」


「一度だけ?」


「少なくとも、同じ原本をここから二度渡すことはできません」


俺は空の容器へ近づいた。


指で触れてよいか聞き、縁だけを持った。


冷たかった。


空になったという事実は、失ったものとよく似た手触りをしていた。


エルナが隣で、棚の湿りを見ていた。


「読まないものを守るにも、これだけ仕事がいるんだね」


俺は頷いた。


中身を明かさなければ価値がない、という考えを、いつの間にか持っていたのかもしれない。


屋根の職人は中身を知らなくても、雨漏りの場所を塞いでいた。



*



帰りに、別室へ通された。


机の上には俺の照会書があり、その横に一枚の申請用紙が置かれていた。


「現在の扱いでは、外国からの照会として順番を待っていただきます」


ディオルが言った。


「ただ、接続履歴の協力調査という形なら、分類の担当官へ直接提出できます。あなたは第七岸の現役の保守者ですから」


順番が早まる。


その魅力がどれほど大きいか、俺はすぐ理解した。


船の仕事が終わるまでに返事を得られるかもしれない。


借りた部屋の代金も減る。


俺の来た理由に、目に見える成果が出る。


「何をすれば」


「既知の体験の範囲を記した質問への回答と、今後の調査への協力です。公務の協力者として別扱いを認められます」


別扱い。


俺はそれを、この街がようやく俺を正しく評価した、と受け取りかけた。


「レクも、同じ申請を?」


聞くと、ディオルは少し眉を寄せた。


「あの方は、当市の割当契約の当事者です。別の手続になります」


「僕には、その契約がないから」


「現在確認できる範囲では」


俺は用紙へ視線を戻した。


問題のある条文が隠れているわけではなかった。


署名すれば他人の記憶が消えるとも書かれていない。


俺には合法的に早く調べてもらう道がある。


ただ、それを得るために、持っている体験を項目ごとに説明する必要があった。


どの家で育ったか。


身体の仕組みに関する知識。


使える技術。


特殊な装置の記憶。


母が靴下を送ったことは、そこには入らなかった。


俺が電話へ出なかったことも。


この紙へ書ける役立つものだけが、俺の人生の価値として積み上がる。


その方法を、俺はかつて自分で喜んで採用していた。


「今日は、持ち帰って考えます」


言うと、ディオルは用紙を渡した。


「構いません。無理に答える必要はありませんので」


善人も悪人も、机の向こうに分かりやすく座ってはいなかった。


宿へ戻り、俺は紙を広げたまま夕食を食べた。


エルナは隣で自分の仕事の支払いを数え、俺の紙を覗こうとしなかった。


「どう思う?」


「何について?」


「これに、答えること」


彼女は匙を置いた。


「答えたいところを答えるのなら、あなたのことだと思う。でも、私に決めてもらえば楽になるって顔はしてる」


俺は紙を裏返した。


彼女は食事へ戻った。


豆が冷めるからだ。


俺の人生の岐路のために、全ての豆が待ってくれるわけではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。