閉じたまま守るもの
保全庫の屋根は、雨漏りしていた。
世界を越えた人生を収める場所にしては、ひどく身近な不具合だった。
入口の横へ桶が三つ並び、そのうち一つには、落ちてきた水がもう指二本分ほど溜まっている。
踏み台の上の職人が天井を叩くと、白い粉が舞った。
「こちらは通らないでください」
ディオルが言った。
俺は言われた通り、濡れた板を避けた。
初めて見る巨大な装置に胸を躍らせる準備をしていたのだが、最初に教えられたのは雨を踏まない歩き方だった。
庫への見学は、ノアの記録の閲覧とは別だと説明された。
制度を理解するための通路だけで、個々の体験を開くことはできない。
エルナはそれに頷き、誰がどの範囲を許可したかを書いた。
奥へ入ると、空気が冷たくなった。
棚には鉱石を挟んだ平たい容器があり、それぞれ布に包まれていた。
人が入れる大きさではない。
俺はそれを見て安堵し、何を想像していたのか自分でも分からなくなった。
眠った人間が並んでいるのでも、声がいつまでも聞こえているのでもない。
修繕係が一つの容器を台へ移した。
布の表に小さな染みがあり、その周りを指で押して湿りを確かめている。
「中の人は、ここが雨漏りしてることを知ってるんですか」
俺が聞くと、修繕係は顔を上げた。
ディオルが答えた。
「現在を見聞きする身体はありません。ここで時間を過ごして考えている、と確認されたものではないのです」
「眠ってるのとも、違う?」
「眠るのは、生きた人の状態でしょう。これは、その人が生きた体験を保全したものです」
理解したと思うたび、違いが一つ増えた。
修繕係は布を替えた。
容器を開かず、継ぎ目へ細い板を当て、縁の変化を記録する。
雨漏りを止める仕事と、原本の封止を調べる仕事は別々で、どちらかを怠ればもう一方だけでは守れないという。
「この中から、もう渡した人の人生も見られる?」
俺は聞いた。
自分の声に、期待が混じっていた。
日本の母の顔、父の声。
もう内側から帰れない家族旅行。
ここには、それらの予備があるのではないか。
ディオルは、別の棚を指した。
布を外された空の枠が並んでいた。
中央の鉱石は透明に近く、薄い筋の名残だけが端へ寄っている。
「払い出した後の容器です。内容はありません。残るのは番号と、封止を開いた痕です」
「一度だけ?」
「少なくとも、同じ原本をここから二度渡すことはできません」
俺は空の容器へ近づいた。
指で触れてよいか聞き、縁だけを持った。
冷たかった。
空になったという事実は、失ったものとよく似た手触りをしていた。
エルナが隣で、棚の湿りを見ていた。
「読まないものを守るにも、これだけ仕事がいるんだね」
俺は頷いた。
中身を明かさなければ価値がない、という考えを、いつの間にか持っていたのかもしれない。
屋根の職人は中身を知らなくても、雨漏りの場所を塞いでいた。
*
帰りに、別室へ通された。
机の上には俺の照会書があり、その横に一枚の申請用紙が置かれていた。
「現在の扱いでは、外国からの照会として順番を待っていただきます」
ディオルが言った。
「ただ、接続履歴の協力調査という形なら、分類の担当官へ直接提出できます。あなたは第七岸の現役の保守者ですから」
順番が早まる。
その魅力がどれほど大きいか、俺はすぐ理解した。
船の仕事が終わるまでに返事を得られるかもしれない。
借りた部屋の代金も減る。
俺の来た理由に、目に見える成果が出る。
「何をすれば」
「既知の体験の範囲を記した質問への回答と、今後の調査への協力です。公務の協力者として別扱いを認められます」
別扱い。
俺はそれを、この街がようやく俺を正しく評価した、と受け取りかけた。
「レクも、同じ申請を?」
聞くと、ディオルは少し眉を寄せた。
「あの方は、当市の割当契約の当事者です。別の手続になります」
「僕には、その契約がないから」
「現在確認できる範囲では」
俺は用紙へ視線を戻した。
問題のある条文が隠れているわけではなかった。
署名すれば他人の記憶が消えるとも書かれていない。
俺には合法的に早く調べてもらう道がある。
ただ、それを得るために、持っている体験を項目ごとに説明する必要があった。
どの家で育ったか。
身体の仕組みに関する知識。
使える技術。
特殊な装置の記憶。
母が靴下を送ったことは、そこには入らなかった。
俺が電話へ出なかったことも。
この紙へ書ける役立つものだけが、俺の人生の価値として積み上がる。
その方法を、俺はかつて自分で喜んで採用していた。
「今日は、持ち帰って考えます」
言うと、ディオルは用紙を渡した。
「構いません。無理に答える必要はありませんので」
善人も悪人も、机の向こうに分かりやすく座ってはいなかった。
宿へ戻り、俺は紙を広げたまま夕食を食べた。
エルナは隣で自分の仕事の支払いを数え、俺の紙を覗こうとしなかった。
「どう思う?」
「何について?」
「これに、答えること」
彼女は匙を置いた。
「答えたいところを答えるのなら、あなたのことだと思う。でも、私に決めてもらえば楽になるって顔はしてる」
俺は紙を裏返した。
彼女は食事へ戻った。
豆が冷めるからだ。
俺の人生の岐路のために、全ての豆が待ってくれるわけではなかった。




