大切にされた値段
翌朝、レクの工房へ来た男は、彼を医師と呼んだ。
手には革の筒を持ち、靴には港の泥がついていなかった。
内陸の通りを選んで来たのだろう。
戸口から工房を見回す目に、ここで働く者への軽蔑と、ここで働かなければならなくなった者への憐れみが半分ずつあった。
「また、そういうものを」
男が錠前を見て言った。
「食べるためのものです」
レクは作業を止めた。
俺たちは前日借りた包み布を返しに来ただけだった。
部外者がいるのを見た男は言葉を選び直したが、帰ろうとはしなかった。
男の名はヴェス。
レクを育てた家の会計を扱い、今はその家を代表して来たという。
「書類が回りました。今期中の清算が必要です」
「同じ申立てを出してる」
「その申立てでは元の契約を変えられません」
筒から出された紙は長かった。
保全、容器の点検、幼年期の診察、教材、師の謝礼、住まい。
項目の隣に数字があり、その上へ古い受理番号が書かれていた。
レクという名は、後から括弧で添えられている。
俺は途中まで読んでから、嫌なものを感じた。
その表には、食べさせてもらったことさえ借りとして数えられていた。
「保全庫の費用を、この人が?」
俺が聞くと、ヴェスは初めてこちらをきちんと見た。
「後に医療の仕事を継ぐことを条件に、当家が引き受けました。役立つ経験だと判定されたので」
「本人が決めたんですか」
「出生の前に、本人へ聞けますか」
答えは正しかった。
だからこそ、俺は言葉に詰まった。
聞けないなら、勝手に決めてよいのか。
そう返せばよかったのだろう。
だが、その場で気の利いた反論を思いつける人間なら、俺の人生の失敗はもう少し少なかった。
レクは紙を受け取らなかった。
「工房の借入れは払ってる。去年の道具代も。そこに混ぜないでくれ」
「あなたが現在のお仕事で全て返せるのであれば、方法は問いません」
ヴェスの視線が狭い工房を一巡した。
問いませんという言葉が、無理でしょう、の形をしていた。
*
男が帰った後、レクは卓の端を布で拭き始めた。
何もこぼれていなかった。
拭かずにいれば、何かを壊してしまいそうなのだろう。
俺はそう思ったが、指摘するほど親しいわけではなかった。
「悪い家だったの?」
俺が聞くと、レクの手が止まった。
「そうだったら、楽だった」
彼は布を畳み、もう一度開いた。
「熱が出たとき、夜中に起きてくれた。履物も買ってくれた。覚えたことを話すと喜んだ。俺は、喜ばれるのが好きだった」
その言葉は、知り合って二日しか経たない相手のものなのに、古くから自分の中にあった場所へ入ってきた。
「最初に骨の名前を言えたとき、菓子をもらった。分からなくなったときは、よく考えなさいって言われた。次には、忘れないでって。その次には、誰のおかげでここにいると思ってるって」
工房の奥で、炭が崩れた。
「今の身体で人を診たことはなかった。血を見るのが怖かった。前の俺は平気だったのかもしれない。でも、俺には無理だった」
「手のことは?」
エルナが静かに聞いた。
レクは左手を見た。
「仕事を覚える途中で挟んだ。こっちは、こっちの失敗」
彼は少し笑った。
「この指で金具を扱えるようにしたのは、前の医者じゃない」
俺は彼の手を見た。
曲がり切らない指を、作業台の縁へ添えている。
その置き方を何度も変えて、ようやく得た場所なのだろう。
工房を出ると、昼の市場は人で詰まっていた。
魚の籠を避け、濡れた布をくぐり、俺たちは黙って歩いた。
「僕も、似たことを考えてた」
言うと、エルナは顔を向けた。
「生まれたとき、三十一年分あれば人より上手くやれるって。前に持ってたものを使わないのは損だって」
「自分で使いたいのと、使えと言われるのは違う」
「でも僕は、彼にもっと難しい錠前を作れって言った」
彼女は否定しなかった。
俺は、いい言葉で自分を許す出口がないまま歩いた。
そういう散歩にも、終わりはある。
宿へ着けば腹は減っていたし、靴の泥も落とさなければならなかった。
部屋へ戻る前、俺は宿の小さな仕事札を読んだ。
荷の検品。
濡れた札の写し。
壊れた戸の修理。
この街で使える現在の自分を、一つずつ数える必要があった。




