↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
まだ生まれない名
PR
41/196

海の上の負け惜しみ

ご覧いただき誠にありがとうございます。

ぜひ感想をお聞かせください。

完結までの構想はありますが、皆様のご意見を支えに作品を作り上げていく方針です。


ブックマークいただけますと励みになります。

陸地というものは、離れてから価値が分かる。


足を置いても逃げない。


食事をしても横から傾かない。


吐くとき、自分の吐いたものへ戻っていこうとしない。


最後の点は特に重要だった。


俺はミソサザイ号の舷側へしがみつきながら、土地を所有する人間が税を払う理由を、これまでになく深く理解していた。


「顔を下へ向けるな。遠くを見ろ」


サーヴァの声が、帆を叩く風の向こうから来た。


「遠くに、何も」


「だから見ろと言ってる」


海は青かった。


岸から眺めたときの、景色としての青ではない。


濡れた板のすぐ外に巨大な厚みがあり、舟が下がるたび、その中へ身体ごと運ばれていく気がした。


波の頂は日の光を砕いて白くなり、下り坂へ入ると緑色に透けた。


俺の身体の中にも、それより小規模で、しかし本人には重大な波が立っていた。


エルナは船尾の陰で、荷の紐を確かめていた。


髪をいつもより強く結び、外套の裾を腰の帯へ挟んでいる。


余裕があるのかと思ったら、顔色は俺と大差なかった。


「大丈夫?」


聞かれて、大丈夫と答えかけた。


その言葉には魔法以上の浪費がある。


相手が用意するはずだった桶を失い、助けてもらえる時機を失い、最後には尊厳まで失う。


「大丈夫じゃない」


「うん。私も」


彼女は苦しそうに笑った。


俺は少し救われ、彼女まで苦しんでいることを喜んだ自分に気づいて、すぐに救われなくなった。


ユストが二人の前へ小さな桶を置いた。


中には湿った布が入っていた。


「口を拭くほう。こっちは飲む水。間違えるなよ」


「間違えないよ」


「揺れると、人は思ったより愉快になる」


彼はそう言って船首へ戻った。


靴底が板に吸いついているようだった。


俺はそれを才能と呼びたくなったが、彼の踵には擦れた布が巻かれていた。


楽に見える動作にも、支払ったものがある。


アルヴェインを出てから、まだ一日目だった。


湾の口を過ぎるまで父の灯台が見えていた。


白い壁は離れるにつれて細くなり、見送る人々はもっと先に見分けられなくなった。


父と代番のジナに鍵を渡し、修理の途中だった窓枠の寸法も残してきた。


仕事は俺がいなくても進む。


その安心と寂しさを、俺は同じように大切なものだとはまだ思えなかった。


船倉には布、乾かした薬草、それから対岸に持ち込む記録の写しがあった。


帰還者全員の名簿ではない。


本人と相談し、今回確かめたい事柄だけを出した数人分だ。


ハルの名前を見たとき、俺はあの人の尖った声より先に、荷物の縫い目を指で確かめる仕草を思い出した。


自分のものが勝手に運ばれていくことを、彼はもう十分経験していた。


俺の記録は、一番下に入っている。


出生の日、外部体験群を保持、と記された欄。


女の救難信号。


順番の合わない二つの日付。


こちらには、そちらでまだ生まれていない者の記録がある、という言葉。


海が静かになると、それらが頭の中で一斉に口を開いた。


揺れが大きくなると、全ての謎は桶の位置へ集約された。


探究心には、驚くほど低い耐波性能しかなかった。



*



夕方、小さな岩島の陰へ入った。


上陸はしなかった。


サーヴァは水面の色と岸の崩れ方を見て場所を選び、ユストが重りを下ろした。


休める水も誰かの庭かもしれない、と言われた。


島の奥には煙が一本上がっていたが、人の姿は見えなかった。


干した魚を戻した汁と、硬いパンが夕食だった。


魚の名を聞くと、こちらの言葉で教えられた。


俺が知っている魚のどれに似ているか説明しようとして、やめた。


似ていれば食べられるという保証にはならないし、今はサーヴァのほうがこの汁に詳しい。


パンを汁へ落とすと、ようやく腹が温かくなった。


足元の揺れも、食べ物を呑み込める程度には小さくなっていた。


「向こうへ着いたら、一番に何をする?」


エルナが聞いた。


「地面に礼を言う」


「その次」


「宿。荷物を置いて、記録所の場所を聞く」


彼女は頷き、器を両手で包んだ。


「私は紙屋へ行きたい。水に当たった紙を、どう乾かしてるのか見たい」


「記録所より先?」


「同じ日に両方へ行けると思う」


俺は黙って汁を飲んだ。


彼女の関心が自分の出生へ一番に向かないことを、当然だと知っているだけでは足りなかった。


大切にされたいという気持ちは、油断すると予定表の所有権を要求する。


サーヴァが空の器を重ねた。


「三日後の朝には、次の入り江へ着ける。風が変われば一日余分。エシュルで私の荷を降ろしたら、船底を見せる。そっちは二十日だ」


「二十日、待ってくれる?」


「待つんじゃない。こっちの仕事が二十日ある」


俺は頷いた。


サーヴァは重ねた器をユストへ渡し、明日の風向きについて話し始めた。


俺の調査を切り出す隙は、もうなかった。


夜番に起こされ、俺は濡れた外套へ腕を通した。


見張るものをもう一度確かめる。


帆の陰、岸の灯り、縄が擦れる音。


知らない変化があれば勝手に処置せず呼ぶ。


簡単な仕事だと言われたわけではなかったが、俺は簡単であってほしいと思っていた。


遠くの煙は、闇の中へ消えていた。


俺の知らない家で、誰かが食器を洗っているのかもしれない。


海を生まれてからずっと見ている子供が、眠るのを嫌がっているのかもしれない。


その当たり前の想像が、新しい世界へ来たことより、今さら俺を遠くへ連れていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。