海の上の負け惜しみ
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陸地というものは、離れてから価値が分かる。
足を置いても逃げない。
食事をしても横から傾かない。
吐くとき、自分の吐いたものへ戻っていこうとしない。
最後の点は特に重要だった。
俺はミソサザイ号の舷側へしがみつきながら、土地を所有する人間が税を払う理由を、これまでになく深く理解していた。
「顔を下へ向けるな。遠くを見ろ」
サーヴァの声が、帆を叩く風の向こうから来た。
「遠くに、何も」
「だから見ろと言ってる」
海は青かった。
岸から眺めたときの、景色としての青ではない。
濡れた板のすぐ外に巨大な厚みがあり、舟が下がるたび、その中へ身体ごと運ばれていく気がした。
波の頂は日の光を砕いて白くなり、下り坂へ入ると緑色に透けた。
俺の身体の中にも、それより小規模で、しかし本人には重大な波が立っていた。
エルナは船尾の陰で、荷の紐を確かめていた。
髪をいつもより強く結び、外套の裾を腰の帯へ挟んでいる。
余裕があるのかと思ったら、顔色は俺と大差なかった。
「大丈夫?」
聞かれて、大丈夫と答えかけた。
その言葉には魔法以上の浪費がある。
相手が用意するはずだった桶を失い、助けてもらえる時機を失い、最後には尊厳まで失う。
「大丈夫じゃない」
「うん。私も」
彼女は苦しそうに笑った。
俺は少し救われ、彼女まで苦しんでいることを喜んだ自分に気づいて、すぐに救われなくなった。
ユストが二人の前へ小さな桶を置いた。
中には湿った布が入っていた。
「口を拭くほう。こっちは飲む水。間違えるなよ」
「間違えないよ」
「揺れると、人は思ったより愉快になる」
彼はそう言って船首へ戻った。
靴底が板に吸いついているようだった。
俺はそれを才能と呼びたくなったが、彼の踵には擦れた布が巻かれていた。
楽に見える動作にも、支払ったものがある。
アルヴェインを出てから、まだ一日目だった。
湾の口を過ぎるまで父の灯台が見えていた。
白い壁は離れるにつれて細くなり、見送る人々はもっと先に見分けられなくなった。
父と代番のジナに鍵を渡し、修理の途中だった窓枠の寸法も残してきた。
仕事は俺がいなくても進む。
その安心と寂しさを、俺は同じように大切なものだとはまだ思えなかった。
船倉には布、乾かした薬草、それから対岸に持ち込む記録の写しがあった。
帰還者全員の名簿ではない。
本人と相談し、今回確かめたい事柄だけを出した数人分だ。
ハルの名前を見たとき、俺はあの人の尖った声より先に、荷物の縫い目を指で確かめる仕草を思い出した。
自分のものが勝手に運ばれていくことを、彼はもう十分経験していた。
俺の記録は、一番下に入っている。
出生の日、外部体験群を保持、と記された欄。
女の救難信号。
順番の合わない二つの日付。
こちらには、そちらでまだ生まれていない者の記録がある、という言葉。
海が静かになると、それらが頭の中で一斉に口を開いた。
揺れが大きくなると、全ての謎は桶の位置へ集約された。
探究心には、驚くほど低い耐波性能しかなかった。
*
夕方、小さな岩島の陰へ入った。
上陸はしなかった。
サーヴァは水面の色と岸の崩れ方を見て場所を選び、ユストが重りを下ろした。
休める水も誰かの庭かもしれない、と言われた。
島の奥には煙が一本上がっていたが、人の姿は見えなかった。
干した魚を戻した汁と、硬いパンが夕食だった。
魚の名を聞くと、こちらの言葉で教えられた。
俺が知っている魚のどれに似ているか説明しようとして、やめた。
似ていれば食べられるという保証にはならないし、今はサーヴァのほうがこの汁に詳しい。
パンを汁へ落とすと、ようやく腹が温かくなった。
足元の揺れも、食べ物を呑み込める程度には小さくなっていた。
「向こうへ着いたら、一番に何をする?」
エルナが聞いた。
「地面に礼を言う」
「その次」
「宿。荷物を置いて、記録所の場所を聞く」
彼女は頷き、器を両手で包んだ。
「私は紙屋へ行きたい。水に当たった紙を、どう乾かしてるのか見たい」
「記録所より先?」
「同じ日に両方へ行けると思う」
俺は黙って汁を飲んだ。
彼女の関心が自分の出生へ一番に向かないことを、当然だと知っているだけでは足りなかった。
大切にされたいという気持ちは、油断すると予定表の所有権を要求する。
サーヴァが空の器を重ねた。
「三日後の朝には、次の入り江へ着ける。風が変われば一日余分。エシュルで私の荷を降ろしたら、船底を見せる。そっちは二十日だ」
「二十日、待ってくれる?」
「待つんじゃない。こっちの仕事が二十日ある」
俺は頷いた。
サーヴァは重ねた器をユストへ渡し、明日の風向きについて話し始めた。
俺の調査を切り出す隙は、もうなかった。
夜番に起こされ、俺は濡れた外套へ腕を通した。
見張るものをもう一度確かめる。
帆の陰、岸の灯り、縄が擦れる音。
知らない変化があれば勝手に処置せず呼ぶ。
簡単な仕事だと言われたわけではなかったが、俺は簡単であってほしいと思っていた。
遠くの煙は、闇の中へ消えていた。
俺の知らない家で、誰かが食器を洗っているのかもしれない。
海を生まれてからずっと見ている子供が、眠るのを嫌がっているのかもしれない。
その当たり前の想像が、新しい世界へ来たことより、今さら俺を遠くへ連れていった。




