留守番の灯
春の終り、家の食卓にはまた椅子が足りなくなった。
父と母とミア、俺、セラ。エルナが来て、あとからリトも来た。
ハルは用事の帰りに迎えに寄るという。食べる人数を最初から言えと母が怒り、セラはリトが一人で全部食べるわけではないと返した。
「一人分は食べるでしょう」
「それは食べる」
二人の言い方が似ていて、俺は笑った。どちらも俺を見たので、笑いを止めて小さな卓を運んだ。
五脚目の椅子は、セラが使っている。
俺は空いていた腰掛けをエルナへ渡し、自分は道具箱へ厚い布を敷いて座った。少し低い。
自分だけ皿へ近づくために背を伸ばしていると、リトが場所を代わろうかと言った。
「大丈夫」
「背が高いと、低いところでも困るんだね」
彼は面白そうに言った。俺は立派な十九歳として頷いておいた。
食卓には、舟で運んだ粉を使ったパンがあった。
母は最初、いつもの粉より水を吸うと言い、トマの挽き方なのか保管なのかと話していた。小麦が海を渡ったことには、あまり感動していないらしい。
俺には、それでよかった。
ちゃんと届いて、いつもの料理の文句になった。
出発の予定を話すと、父は自分の当番の日を確かめた。ジナと分けた表は、もう灯台の下に掛けてある。
俺が外にいる間は、専門の点検が必要な古い部分を不用意に開かない。
母は船酔いのことを聞いた。
ミアは、我慢できるからと食事も水も避けるなと言った。
セラは古い保守記録の控えを、どこまで見せるかもう一度確認した。本人の署名のある紙と、まだ確かでない箇所の印が入っている。
エルナは自分の帰りたい時期を話した。俺の調査が長引いても、先に戻る便を探すつもりだった。
彼女の工房にも、ロイにも、彼女自身の予定にも、海の向こうの謎とは違う時間が流れている。
俺はそれを聞いて、少し寂しくなった。
前より理解できるようになっても、寂しくなくなるわけではなかった。
「帰ったら、向こうのパンを作って」
リトが言った。
「食べただけじゃ作れないかもしれない」
「じゃあ、持ってきて」
「固くなるよ」
「そんなに遠いの?」
俺は少し考えた。
知っているつもりの海の上を、俺はまだ一度も渡っていない。
「どのくらいか、帰ってきたら話す」
リトは頷き、目の前のパンを取った。
*
食事のあと、エルナと工房まで歩いた。
道の端に白い花が咲いていた。名前を母から聞いたはずだが、思い出せなかった。
魔法で失ったのか、元々ちゃんと聞いていなかったのかも分からない。花の名を知らなくても、夜の匂いはした。
エルナは少し疲れていた。今日の記録を片づけ、留守にする間の依頼を分け、荷を何度も詰め直している。
「楽しみ?」
俺は聞いた。
「うん。怖いけど」
「僕も」
同じ答えを言っても、同じものを怖がっているとは限らない。
俺は対岸で自分が何者か分かることを期待していたし、分かってしまえば今の家で生きる理由まで変わるのではないかと恐れてもいた。
そのくせ、実際に家を離れるとき心配になるのは、返済の日と、父が窓の掛金を直し忘れないかということだった。
エルナのほうから、俺の手を取った。
「行く前に、もう一度言っておく」
声が真面目だったので、俺は背を伸ばした。
「私の荷物に、自分の帳面を増やさないで」
「あれは共同の資料で」
「自分の日記も二冊あった」
俺は弁解を諦めた。
彼女は少し笑い、そのあと黙った。繋いだ手をすぐ離さず、工房の戸の前まで歩いた。
そこに着くと、彼女は俺を見上げた。
何か言おうとして、俺は言葉を探すのをやめた。今の顔をよく見たかった。
風で耳の上の髪が動き、仕事で乾いた指が、俺の指を少し握った。
近づくと、彼女も距離を縮めた。
短い口づけだった。
自分が知っていたはずの何かが戻ることはなかった。昨日までの俺が知らなかった温かさを、今ここで知った。
離れたあと、エルナは少しだけ目を伏せた。
「明日、早いよ」
「うん」
「寝てね」
俺は笑って、今度こそそうすると答えた。
*
出発の朝、灯台には俺より先に明かりがあった。
夜の当番を終えたジナが、灯器を片づけている。窓を開ける手順は俺と少し違ったが、最後には同じ場所が拭かれていた。
俺は階段を上がらなかった。
下の壁に掛けた表を見て、自分の名前がない数日分を指で追った。穴は空いていない。
そこには父とジナの名前があり、油を運ぶ人、故障があれば呼ぶ人も書いてある。
俺が何とかしたという証拠には、自分の名前が少なかった。
港で、小麦が綱に繋がれていた。
トマとユストが荷を分けている。小麦に載せる分と、ミソサザイへ載せる分は別だった。
ここで働く舟は、俺を乗せて旅に出るわけではない。
サーヴァがミソサザイの縁から声を掛けた。
「乗るなら、荷物から」
俺は鞄を渡した。
エルナが自分の包みを渡し、続いて足を掛けた。ロイが結んだ紐は、紙を包む布にそのまま残っている。
俺はそれを見てから、自分の足元を見た。
遠い灯台が何を知っているのか、まだ分からない。
向こうで俺の人生の説明が待っているのか、それともまた、誰かが知らないところへ都合よく引いた線があるだけなのか。
知りたいという欲は、少しも小さくなっていなかった。
小さくなっていないまま、俺は留守中の支払いを済ませ、預かった名の範囲を確かめ、今朝の荷を決めた重さに収めた。
水面が舟をゆっくり持ち上げた。
俺は踏み出す足を一度待ち、舟の動きに合わせて乗った。
灯台の窓で、誰かが布を絞っていた。
俺がいなくても始まる一日の光を、海の手前から見上げた。




