↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
船を出すまでの春
PR
39/196

小麦の一往復

舟の名を決める日は、誰も集まらなかった。


正確には、皆はいた。エドは最後の板を確かめ、トマは積荷の置き場を測り、ユストは縄を干していた。


俺が名前の相談を始めようとするたび、誰かの手が別の仕事で塞がっていた。


「まだ決めないの?」


アニが言った。


彼女は塗り直した木札と筆を持ってきていた。待っている間に自分の用を一つ済ませるつもりだったらしい。


俺たちが船名という歴史的問題を抱えていることには、あまり敬意を払ってくれなかった。


「いくつか候補はある」


「長いの?」


「長さだけで決めることじゃ」


「この札に入るならいいよ」


俺は木札を見た。


夢の規模に対して、板の幅は慎ましかった。


「最初の荷は、小麦だろ」


トマが言った。


「小麦でいいんじゃないか」


エドが頷いた。


ユストも、呼びやすいと言った。


俺は、自分が用意していた二つの名を頭の中でもう一度唱えた。どちらも、海を越える者の勇気や新しい時代の光について何か主張していた。


目の前の舟には、その主張を運ぶ前に小麦を運んでもらわなければならない。


「じゃあ、小麦」


俺が言うと、アニはもう書き始めていた。


「僕が賛成しなくても書くつもりだった?」


「聞いてたよ」


否定ではなかった。


筆を持つ彼女の掌に、薄い傷の線が見えた。俺の昔の見栄で出来たものだ。


今はそれが、舟の名を書く手の皺に混じっている。


アニは字の端を少し直し、札を離して眺めた。


「乾くまで触らないで」


最初に出た船名にまつわる注意は、それだった。




*




正式な最初の便は、よく晴れた朝に出た。


その前にも、修理を確かめる短い試験を二度行っていた。一度目は軽い荷、二度目は砂袋。


いずれも標識を見てから出発し、決めたところで戻った。俺は記録の欄を埋め、頼まれていない舵の助言をしなかった。


黙っていることを覚えるには、思ったより練習が要った。


今日は荷が本物だった。


補償として割り当てられ、川沿いの倉から村側へ届いた小麦の一部を、湾の南側の荷受け場へ運ぶ。帰りに空樽と修繕道具を載せる。


道を回っていた荷車の仕事も残しながら、重い分だけ水の上へ移す試みだった。


小麦の袋は砂より柔らかく、持ち上げると穀物の音がした。


濡らしてよい試験の重さではない。


俺たちは濡れを避ける板を敷き、荷を固定した。トマは膝の具合を確かめながら、重い袋を他人へ頼んだ。


アニは手を出さず、本人が頼み終えるまで待っていた。


サーヴァが水面を見た。


ユストは先に小舟で標識を確かめて戻り、浮きの位置と縄の張りを伝えた。俺はその報告を記録し、読んで聞かせた。


「合ってる」


彼が言った。


それだけの返事をもらうことが、今日は大切に思えた。


灯台の窓で、父が手を上げた。


俺は上げ返した。灯器は昼の仕事をしていないが、塔には人がいる。


俺が乗る舟を見守るためだけでなく、別の船が来たときのために。


小麦は岸を離れた。


削った縁に手を置くと、乾いた木が少し温かかった。水が底を叩くたび俺は音を聞いたが、すべてを不具合の兆しとして数えないようにした。


サーヴァは波の間を見て、時々、綱を指一本分だけ動かした。


前に擦った石のあたりを通るとき、俺の手が固くなった。


トマが見た。


彼は何も言わなかった。俺も、平気なふりをするための冗談を言わなかった。


舟は決めた外側を回った。


岸の石積みがゆっくり横へ動き、やがて後ろになった。




*




荷受け場で待っていたベルは、舟を見てもすぐには喜ばなかった。


袋の印を読み、数え、湿っていないか確かめる。最後の一つを降ろし終えると、ようやく息をついた。


「本当に来た」


俺は頷いた。


「来ました」


「朝、粉を少しだけ買っちゃったよ」


「今日は来るって言ったのに」


言ってから、俺は口を閉じた。


ベルは俺を見た。


「来なかった日も、来るって言われたからね」


俺は袋を持ち直した。


今朝の一便が、これまでの待ち時間を消せるわけではない。だが今ここへ届いた穀物は、ちゃんと使える。


大きな帳尻を合わせられないからといって、抱えた一袋を下ろさずにいる理由はなかった。


ベルの家まで荷を運ぶと、竈の煙が甘く匂った。


残った林檎の干したものを煮ているのだという。庭の奥には枯れた木があり、その横に切った枝が積まれていた。


別の場所へ植えるための若木も、湿らせた布に根を包まれている。


「全部、植え直すんですか」


「全部は無理。今度の土で、どこまで育つか見ないと」


ベルは根元の布を直した。


自分が生きているあいだに、同じくらい採れるようになるかは分からないと、彼女は言った。そのあとすぐ、運んだ人へ食べ物を出すから器を取ってと言った。


俺は頼まれた棚を開けた。


甘酸っぱい煮た果実をパンへ載せて食べると、舌の端がきゅっと縮んだ。トマがもう一つ食べたそうにして、帰りの荷を思い出してやめた。


サーヴァは食べ終えるとすぐに外へ出て、風を見た。


ベルが、今度の便に空樽を載せたいと言った。


俺は今日の積み場所を見てから答えることにした。


「確認します」


そう言った途端、最初に枝を渡された朝を思い出した。


俺は付け足した。


「出る前に、ここへ返事をしに来ます」


ベルは小さく頷いた。




*




帰りの舟では、旗を出す練習をした。


岸の近くで荷の縄を直す必要があり、こちらへ小舟を出しかけた父たちへ、待ってほしいと知らせるためだった。


俺は畳んでいた布を開いた。


淡い面が風を受け、濃い継ぎ布の端が一拍遅れて伸びた。切らずに残した縫い代が小さく震える。


岸のユストがこちらを見て、決めた通り、頭より上へ片腕を上げて止めた。


見た、という返事。


俺は返事を確かめてから旗を下ろした。掲げただけで伝わったと思うことと、向こうが見たと知ることの間には、人の一呼吸ぶんの仕事がある。


その仕事を済ませ、荷の縄を結び直した。


小麦は、出た石段へ戻った。


濡れた靴底で踏む石が、まだ少し揺れているように感じた。俺は岸に立ったまま待ち、その揺れが自分の中に残っているのだと分かるまで息をした。


荷を下ろし、受取の印をもらい、空樽の数を合わせる。誰も万歳はしなかった。


それでも、トマが俺の肩を軽く叩いたとき、俺はすぐに何か言えなかった。


最初の一往復だった。


海を戻したときよりずっと狭い範囲を、ただ人と荷が動いた。


そのために、こんなに沢山の朝が要った。




*




収入から費用を引くと、残った金は驚くほど少なかった。


俺は数字をもう一度見た。見る回数で増えれば、もっと長く見るところだった。


「これは最初の便だから」


言いかけた俺に、エドが次に要る補修の分を指した。


「これを残せるかどうかだ」


船は一度動けば出来上がり、というものではないらしい。家も身体も人間関係も、だいたいそうである。


購入時に全部説明してほしかった。


俺たちは少しずつ金を分けた。


働いた人へ払う分。次の油と補修。


借りた道具。そして残れば取り分。


小麦の共同の控えに、俺の名が一つあった。俺より多く払われる人も、今日は受け取らず次の作業へ回す人もいる。


真ん中へ自分の名を書かずに済んだことを、俺は誰かに褒めてもらいたくなった。


言わなかったので、その願いの行き先はなかった。


エルナが小屋へ来たのは、最後の片づけのときだった。


「返事が来た」


俺は立ち上がり、足元の桶へ脛をぶつけた。


トマが笑った。俺は痛む脚を押さえながら、紙を受け取った。


向こうは、限定した照会を受け付けたという。


全部を求めたのに全部は返ってこない、その返事をどう読むかについて、短いやり取りが必要だったらしい。


エルナは、送っていない欄を欠損や死亡として補わないよう、最初の文に明記しておいたと説明した。


エシュルの入港先。


船を待たせる場所。


本人と記録の照合に必要なもの。


文の端に、古い書式をそのままなぞったらしい受理欄が二つあった。片方には見慣れない細い印が並び、もう片方は空いている。


「これが、僕の?」


「その紙だけでは、まだ分からない」


エルナは答えた。


「向こうの窓口の書式かもしれない。写し間違いがないかも、そこで確かめたい」


俺は頷いた。


分からない、の中身が、以前より少し小さくなっていた。


地図のどこにあるかも曖昧な相手が、今は会う場所と、必要な荷と、断った欄を受け付ける返事を持っている。


信じ切るには足りないが、準備して訪ねるための形にはなっていた。


サーヴァが肩越しに紙を見た。


「じゃあ、天気を待とうか」


その一言で、俺は初めて本当に海を渡るのだと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。