小麦の一往復
舟の名を決める日は、誰も集まらなかった。
正確には、皆はいた。エドは最後の板を確かめ、トマは積荷の置き場を測り、ユストは縄を干していた。
俺が名前の相談を始めようとするたび、誰かの手が別の仕事で塞がっていた。
「まだ決めないの?」
アニが言った。
彼女は塗り直した木札と筆を持ってきていた。待っている間に自分の用を一つ済ませるつもりだったらしい。
俺たちが船名という歴史的問題を抱えていることには、あまり敬意を払ってくれなかった。
「いくつか候補はある」
「長いの?」
「長さだけで決めることじゃ」
「この札に入るならいいよ」
俺は木札を見た。
夢の規模に対して、板の幅は慎ましかった。
「最初の荷は、小麦だろ」
トマが言った。
「小麦でいいんじゃないか」
エドが頷いた。
ユストも、呼びやすいと言った。
俺は、自分が用意していた二つの名を頭の中でもう一度唱えた。どちらも、海を越える者の勇気や新しい時代の光について何か主張していた。
目の前の舟には、その主張を運ぶ前に小麦を運んでもらわなければならない。
「じゃあ、小麦」
俺が言うと、アニはもう書き始めていた。
「僕が賛成しなくても書くつもりだった?」
「聞いてたよ」
否定ではなかった。
筆を持つ彼女の掌に、薄い傷の線が見えた。俺の昔の見栄で出来たものだ。
今はそれが、舟の名を書く手の皺に混じっている。
アニは字の端を少し直し、札を離して眺めた。
「乾くまで触らないで」
最初に出た船名にまつわる注意は、それだった。
*
正式な最初の便は、よく晴れた朝に出た。
その前にも、修理を確かめる短い試験を二度行っていた。一度目は軽い荷、二度目は砂袋。
いずれも標識を見てから出発し、決めたところで戻った。俺は記録の欄を埋め、頼まれていない舵の助言をしなかった。
黙っていることを覚えるには、思ったより練習が要った。
今日は荷が本物だった。
補償として割り当てられ、川沿いの倉から村側へ届いた小麦の一部を、湾の南側の荷受け場へ運ぶ。帰りに空樽と修繕道具を載せる。
道を回っていた荷車の仕事も残しながら、重い分だけ水の上へ移す試みだった。
小麦の袋は砂より柔らかく、持ち上げると穀物の音がした。
濡らしてよい試験の重さではない。
俺たちは濡れを避ける板を敷き、荷を固定した。トマは膝の具合を確かめながら、重い袋を他人へ頼んだ。
アニは手を出さず、本人が頼み終えるまで待っていた。
サーヴァが水面を見た。
ユストは先に小舟で標識を確かめて戻り、浮きの位置と縄の張りを伝えた。俺はその報告を記録し、読んで聞かせた。
「合ってる」
彼が言った。
それだけの返事をもらうことが、今日は大切に思えた。
灯台の窓で、父が手を上げた。
俺は上げ返した。灯器は昼の仕事をしていないが、塔には人がいる。
俺が乗る舟を見守るためだけでなく、別の船が来たときのために。
小麦は岸を離れた。
削った縁に手を置くと、乾いた木が少し温かかった。水が底を叩くたび俺は音を聞いたが、すべてを不具合の兆しとして数えないようにした。
サーヴァは波の間を見て、時々、綱を指一本分だけ動かした。
前に擦った石のあたりを通るとき、俺の手が固くなった。
トマが見た。
彼は何も言わなかった。俺も、平気なふりをするための冗談を言わなかった。
舟は決めた外側を回った。
岸の石積みがゆっくり横へ動き、やがて後ろになった。
*
荷受け場で待っていたベルは、舟を見てもすぐには喜ばなかった。
袋の印を読み、数え、湿っていないか確かめる。最後の一つを降ろし終えると、ようやく息をついた。
「本当に来た」
俺は頷いた。
「来ました」
「朝、粉を少しだけ買っちゃったよ」
「今日は来るって言ったのに」
言ってから、俺は口を閉じた。
ベルは俺を見た。
「来なかった日も、来るって言われたからね」
俺は袋を持ち直した。
今朝の一便が、これまでの待ち時間を消せるわけではない。だが今ここへ届いた穀物は、ちゃんと使える。
大きな帳尻を合わせられないからといって、抱えた一袋を下ろさずにいる理由はなかった。
ベルの家まで荷を運ぶと、竈の煙が甘く匂った。
残った林檎の干したものを煮ているのだという。庭の奥には枯れた木があり、その横に切った枝が積まれていた。
別の場所へ植えるための若木も、湿らせた布に根を包まれている。
「全部、植え直すんですか」
「全部は無理。今度の土で、どこまで育つか見ないと」
ベルは根元の布を直した。
自分が生きているあいだに、同じくらい採れるようになるかは分からないと、彼女は言った。そのあとすぐ、運んだ人へ食べ物を出すから器を取ってと言った。
俺は頼まれた棚を開けた。
甘酸っぱい煮た果実をパンへ載せて食べると、舌の端がきゅっと縮んだ。トマがもう一つ食べたそうにして、帰りの荷を思い出してやめた。
サーヴァは食べ終えるとすぐに外へ出て、風を見た。
ベルが、今度の便に空樽を載せたいと言った。
俺は今日の積み場所を見てから答えることにした。
「確認します」
そう言った途端、最初に枝を渡された朝を思い出した。
俺は付け足した。
「出る前に、ここへ返事をしに来ます」
ベルは小さく頷いた。
*
帰りの舟では、旗を出す練習をした。
岸の近くで荷の縄を直す必要があり、こちらへ小舟を出しかけた父たちへ、待ってほしいと知らせるためだった。
俺は畳んでいた布を開いた。
淡い面が風を受け、濃い継ぎ布の端が一拍遅れて伸びた。切らずに残した縫い代が小さく震える。
岸のユストがこちらを見て、決めた通り、頭より上へ片腕を上げて止めた。
見た、という返事。
俺は返事を確かめてから旗を下ろした。掲げただけで伝わったと思うことと、向こうが見たと知ることの間には、人の一呼吸ぶんの仕事がある。
その仕事を済ませ、荷の縄を結び直した。
小麦は、出た石段へ戻った。
濡れた靴底で踏む石が、まだ少し揺れているように感じた。俺は岸に立ったまま待ち、その揺れが自分の中に残っているのだと分かるまで息をした。
荷を下ろし、受取の印をもらい、空樽の数を合わせる。誰も万歳はしなかった。
それでも、トマが俺の肩を軽く叩いたとき、俺はすぐに何か言えなかった。
最初の一往復だった。
海を戻したときよりずっと狭い範囲を、ただ人と荷が動いた。
そのために、こんなに沢山の朝が要った。
*
収入から費用を引くと、残った金は驚くほど少なかった。
俺は数字をもう一度見た。見る回数で増えれば、もっと長く見るところだった。
「これは最初の便だから」
言いかけた俺に、エドが次に要る補修の分を指した。
「これを残せるかどうかだ」
船は一度動けば出来上がり、というものではないらしい。家も身体も人間関係も、だいたいそうである。
購入時に全部説明してほしかった。
俺たちは少しずつ金を分けた。
働いた人へ払う分。次の油と補修。
借りた道具。そして残れば取り分。
小麦の共同の控えに、俺の名が一つあった。俺より多く払われる人も、今日は受け取らず次の作業へ回す人もいる。
真ん中へ自分の名を書かずに済んだことを、俺は誰かに褒めてもらいたくなった。
言わなかったので、その願いの行き先はなかった。
エルナが小屋へ来たのは、最後の片づけのときだった。
「返事が来た」
俺は立ち上がり、足元の桶へ脛をぶつけた。
トマが笑った。俺は痛む脚を押さえながら、紙を受け取った。
向こうは、限定した照会を受け付けたという。
全部を求めたのに全部は返ってこない、その返事をどう読むかについて、短いやり取りが必要だったらしい。
エルナは、送っていない欄を欠損や死亡として補わないよう、最初の文に明記しておいたと説明した。
エシュルの入港先。
船を待たせる場所。
本人と記録の照合に必要なもの。
文の端に、古い書式をそのままなぞったらしい受理欄が二つあった。片方には見慣れない細い印が並び、もう片方は空いている。
「これが、僕の?」
「その紙だけでは、まだ分からない」
エルナは答えた。
「向こうの窓口の書式かもしれない。写し間違いがないかも、そこで確かめたい」
俺は頷いた。
分からない、の中身が、以前より少し小さくなっていた。
地図のどこにあるかも曖昧な相手が、今は会う場所と、必要な荷と、断った欄を受け付ける返事を持っている。
信じ切るには足りないが、準備して訪ねるための形にはなっていた。
サーヴァが肩越しに紙を見た。
「じゃあ、天気を待とうか」
その一言で、俺は初めて本当に海を渡るのだと思った。




