帰ってからの仕事
その夜、眠るたび舟が傾いた。
目を開けると部屋は動いていない。窓の向こうにある木の枝も、棚の器も同じ場所にある。
それでも寝返りを打つたび、腹が一拍遅れて身体についてきた。
俺は起き、帳面を出した。
『標識の係留が外れ、突風を受けて――』
そこまで書くと、出来のよい事故報告に見えた。
不運な風。古い設備。
偶然が重なった試験。
俺がいなくても同じ事故が起きたように読める。
母に書き直された昔の紙を思い出した。その紙に何が書かれていたかは知っている。
どの場面の厚みがどこまで残っているか、夜中に全部を確かめることはできない。それでも、今書いた文から自分のしたことが抜けているのは分かった。
俺は次の行に書いた。
『船頭の指示中に、別の進路と櫂の操作をトマへ伝えた』
短い。
短いのに、この一行を含めた途端、報告書は俺に不利なものになった。
少し眠れたのは、夜がかなり薄くなってからだった。
*
翌朝の浜には、昨日流れていった櫂があった。
早く出たユストが見つけたのだという。先が割れていて、元の長さには直せない。
俺は受け取り、何と言えばよいか考えた。
「拾うのは、見つけたついで」
ユストが言った。
「でも、探すつもりで少し回った。その分は付けるよ」
「分かりました」
礼だけで済ませてくれないことが、少しありがたかった。その一方、請求されるたびに、そんなに取るのかと思う自分もいた。
昨日からずっと、俺の中の人間は意見が合っていない。
舟の修理には、外した縁の材、傷んだ留め具、もう一度入れる手間が要った。トマは膝が腫れ、しゃがむ作業を休む。
エドは予定していた別の川舟へ行かなければならず、こちらの修理はそのあとになる。
遅れる。
俺はその言葉へ反射的に焦った。
対岸から返事が来るかもしれない。天気のよい日が過ぎる。
サーヴァをここに留める費用が増える。
「夜に少しずつ進めるなら――」
「誰が?」
トマが言った。
膝の前へ椅子を置き、脚を載せていた。アニが持ってきた食べ物の包みが脇にある。
彼女は朝の世話をして、今は自分の蜂のところへ戻っていた。
「僕が」
「お前の出来る部分は頼む。でも、エドが見ないで閉じていい場所は少ないぞ」
俺は船底を見た。
長い板を打てば埋まる穴に見える。そう見えることが、俺に分からない部分だった。
「先に、直す順を聞く」
「うん」
トマは頷いた。
俺が持ってきた事故の紙を、彼は膝に置いた。書いた順番を指で追い、昨日の俺の言葉が一つ違うと言った。
「戻れる、じゃなくて、戻せるって言った」
俺はしばらく考えた。
覚えているつもりだった。自分が言ったのだから、覚えていて当然だとさえ思った。
しかしトマの訂正を聞くと、そちらだった気もした。
「僕は戻れるって覚えてた」
「俺は、俺にそうしろって言われたと思った」
俺はその二つを並べて書いた。
覚えている人同士でも、同じ事件が二つある。どちらかを消せば綺麗な文章にはなるが、次に同じことをしないための紙からは遠ざかる。
トマは読み終え、こちらを見た。
「怖かった」
俺は頷いた。
「僕も」
「お前が怖かったって話をしたいんじゃない」
顔が熱くなった。
トマは窓の外を見て、それから続けた。
「すぐ助ける側に戻られると、文句を言う場所がなくなる。俺、昨日はお前の声で手を動かしたんだよ」
俺は、今度は自分の怖さを話さなかった。
トマが言い終わるまで聞いた。長い説明ではなかった。
それでも、途中で何か差し込まないのには力が要った。
*
サーヴァとは、乾かした帆を畳みながら話した。
彼女は俺が自分の判断を紙にしたことを確かめたが、それで表情を緩めなかった。俺の報告を読む間も、布の端を合わせる手は動いていた。
「あんたがここを知ってるからって、私も聞き方を間違えた」
彼女が言った。
俺は顔を上げた。
「乗る前に、どこまで口を出すか決めとけばよかった。あと、標識。昨日見てあったからって、今日の出発前に離れた側を確かめなかった」
胸が少し軽くなった。
彼女にも悪いところがある。俺だけではない。
そこまで考えた顔を見られた気がして、俺は布へ目を落とした。
「あなたの分を聞いて安心しそうになりました」
「するだろうね」
「もう少し、しない人間になりたいんですけど」
「次の舟でやってくれればいい。今ここで、気持ちの出来を揃えなくていいよ」
サーヴァは帆を折り返した。
彼女の頬の傷には薄いかさぶたが出来ていた。近くで見ると、思ったより長い。
俺は誰かの失敗を許す側になったとき、この女と同じ程度に実務へ戻れるだろうかと考えた。
たぶん、もっと嫌味を言う。
その予想だけは妙に確かだった。
次の試験は、先に岸の標識を小舟で確かめる。船頭の声へ別の指示を重ねない。
地形の情報は船頭へ渡す。働ける範囲と、働けない範囲を名簿に書く。
俺の役目は記録と荷の確認になった。
欄が二つ減った。
誰かに評価を落とされると、たとえ妥当でも腹が立つ。俺はその腹立ちを抱えたまま、紙を受け取った。
*
修繕費の一部と、自分の判断で増やした作業の費用を、俺の取り分から払うことになった。
何でも全額背負うと言えば、その場では気が済んだだろう。しかし、俺には村への返済もロイに関する支払いもある。
気前よく新しい負債を作って、それまで待っている人の順をまた遅らせるわけにはいかなかった。
村長とエド、サーヴァ、俺で、壊れた物と原因を一つずつ分けた。
古い標識の係留の傷みは村の点検費から。俺の割り込んだ指示によって増えた作業は俺の報酬から。
まだ分けきれない船体の傷は、その場で俺に都合よく決めず、エドの確認を待つ。
誰も気持ちよくはならなかった。
それでも、明日誰がどこへ行くかは決まった。
夜、エルナへ食事の誘いを断るか迷った。
今の俺には楽しむ資格がない、と言えば少し立派に聞こえる。実際には、彼女の前でうまく笑えないのが嫌だった。
工房へ行くと、エルナは糊を入れた小皿を洗っていた。
「今日は、家で食べる?」
「僕、あまり面白い話はできない」
「夕食の約束に、面白い話は入ってた?」
俺は首を振った。
彼女は二つの器を出した。豆と根菜を温め直し、パンを切る。
窓の外では、春になってもまだ冷たい雨が降っていた。
俺はその日払うことになった費用と、トマに言われたことを話した。エルナは時々聞き返し、時々ただ食べた。
「怒ってる?」
とうとう俺は聞いた。
「昨日は、怖かった」
彼女は匙を置いた。
「帰ってきたあなたがすぐ立派な反省を話し始めたら、私、たぶん腹が立ったと思う」
俺は何も言えなかった。
「でも、今は食べたい。ずっと糊の匂いを嗅いでたから」
そう言って、彼女は残ったパンの大きいほうを取った。
俺は思わずそちらを見た。
エルナも俺を見た。
「欲しかった?」
「ちょっと」
「じゃあ、明日は自分で切って」
俺は笑った。
笑えたことを赦された証拠にはしないまま、向かいで彼女がパンを食べるのを見た。




