春の風を待てない
返信を送った朝、俺はいつもより早く起きた。
早く起きたからといって、準備が早く終わるわけではなかった。
紙を一枚忘れ、家へ戻り、母から朝食を持たされ、灯台へ着いたときにはエルナが先に机を片づけていた。
「寝てない顔」
「寝たよ」
「長さは?」
「その質問は公平じゃない」
エルナは俺の持ってきた包みを見て、先に食べて、と言った。俺は従った。
最近、重大な出来事の前には、食べるか寝るかを他人から確認される。大人としての信用は、思ったより細かなところで失われるものらしかった。
送る文は、最初に書いたものの半分以下になっていた。
アルヴェインの岸にいること。帰還者全員の帳面は送らないこと。
今回は本人が認めたセラとハルの名、セラの保守員としての番号だけを照会すること。
そして、外部受理について自分の分を調べたいという、ノア・アルヴェインの申出。
エルナは、自分の工房から別の問い合わせを添えた。独立した紙の控えを持って訪ねる場合、誰に会えばよいか。
入港の手続と、書類を預けず閲覧する方法があるか。
最後に船と帰期について聞く。
俺の出生が謎だという長い説明は、ほとんど削った。重要なことを短くすると、重要でない人間になったような気がして落ち着かなかった。
セラが古い保守図と、現物の線を指で照らしていた。
父は扉のそばに立ち、エルナは使用前の記録を取る。誰かが俺を監視するためだけに集まったのではない。
それぞれが、自分の確認する箇所を持っていた。
新しく書いた三つの日付欄が、紙の上に並んでいる。
案件を受け付けた日。信号が実際に着いた日。
文字を紙へ移した日。
レムの荷物を止めた俺には、それが格好のよい整理術に見えなくなっていた。
別々の日を一つに押し込めたところで、人が待っている時間まで短くなるわけではない。
「ここまでなら、出生の線へは触れない」
セラが言った。
「向こうが送り始めても、この止め目は閉じたまま。返事が来ないからって、足さないで」
「分かってる」
「もう一度、口で言って」
俺は少し恥ずかしくなったが、操作の順を読み上げた。
封片の小箱を開いた。
雨を待った職人の時間は、見た目には静かな石の中にあった。俺は内容を味わわず、検査された外側の刻みを送信部へ合わせる。
流れが繋がると、石にあった淡い筋がわずかに明るくなった。
帯へ刻んだ短い字の並びが、順に黒ずんだ。
一つ目の行が出るまでが長かった。待つ時間を誰かから買って、今度は自分が待っている。
俺はその皮肉を面白がる余裕を失い、父の指が止め具に添えられているのを見ていた。
二行目。
セラが頷いた。
最後の字のあと、俺は流れを止めた。封片の中の乳白色の筋が消え、向こうの台が透けて見えた。
石の形は残っていたが、もう同じ時間はない。
成功した、と誰かが言う前に、エルナが終えた時刻を書いた。
俺は自分の頭の中を確かめるようなことをしなかった。減ったのは、俺が失わずに済んだ記憶とは別の場所にあった人生の一部だ。
自分に痛みがなかったから、何も払っていないことにはならない。
「終わり」
セラが言った。
肩の力が抜けた途端、朝食の最後の一口を飲み込んでいなかったことを思い出した。
大事な旅の始まりにしては、口の中が乾いていた。
*
ジナが灯台へ来たのは、その翌日だった。
村の屋根や戸を直す仕事をしている女で、夜の当番なら家の用と分けられるという理由で手を挙げた。目の前で光る古い環には、それほど興味がないらしい。
「触らなければいいんだね」
「こっちは。灯器のほうは、油を見て――」
「油は分かる。どこから先を触らないのか、線を付けて」
俺は説明を止めた。
自分が覚えるときは分かったつもりになっていた区別が、誰かへ渡すと急に曖昧になる。古いものと新しいもの、今動かすものと、動かさず様子を見るもの。
それを俺の勘で分けたまま、人に留守番を頼もうとしていた。
俺たちは色の違う紐を使い、触る場所を分けた。
記憶を使う調査は、俺が戻るまで予定しない。文字が届いたらそのまま写し、読み方が分からなければ形を写す。
灯器の故障で油が漏れたら、合図より先に火を扱う。
「私が読めない字が来ても、手当は同じ?」
「同じです」
「ならいい」
ジナは頷き、用意した控えへ自分の名を書いた。
俺は自分の役目が簡単な仕事に見えないよう、難しい箇所をもう一つ説明しかけた。ジナはその前に窓の掛金を指した。
「こっち、遊びが大きいよ」
毎日触っているのに、俺は気づいていなかった。
*
試験の日は、朝のうちは穏やかだった。
改造した舟へ砂袋を積み、実際の荷に近い重さを置いた。サーヴァが舵を持ち、トマと俺が乗る。
ユストはミソサザイで少し離れてついてくる。岸にはエドと父、エルナがいた。
昨日確かめた浅瀬の標識が、今日も同じ場所に浮いていた。
そのように見えた。
「砂袋を動かすとき、勝手に立つな」
サーヴァが言った。
「知ってます」
「知ってても言う。私にも言え」
俺は頷いた。
新しい舟の板は、足の下で乾いた音を立てた。削った木の匂いと、継ぎ目へ入れたものの匂いがまだ強い。
俺が拾った釘がどこへ使われたのかは分からない。それでも乗った瞬間、自分のした小さな作業が全部、底のどこかに集まっている気がした。
岸を離れた。
最初の曲がりはうまくいった。
トマが俺を見て笑った。俺も笑い返した。
二人で何かに乗って運ぶというだけのことが、子供の頃の成功に似た味を持っている。そのときの記憶は残っているものもあり、もう戻らないものもあった。
俺は今日は今日だと思い、すぐに今日は成功するとも思った。
その二つは、別のことだった。
岬を回る手前で風が増えた。
水面に細い皺が広がり、岸の草が一斉に同じ側を向いた。サーヴァは帆を減らすよう言い、俺とトマは練習した通りに手を動かした。
ここまでは間違えなかった。
標識が、舟の正面から少し右へ流れた。
「あれ、動いてる」
トマが言った。
俺は標識の向こうに見える石の並びを確かめた。旧道の石積みだ。
岸から何度も見た。近くに浅いところがあるのも知っている。
「内側なら戻れる。あの石の――」
「そのまま、待て」
サーヴァの声と重なった。
俺はトマへ櫂を入れる位置を指した。説明を続けたほうが役に立つと思った。
地形については俺のほうが知っている。彼女が見ていない部分を伝えれば、今よりよい道を選べる。
トマがどちらを見るか迷った。
櫂の先が水へ入り、舟が少し横を向いた。横から来た波が底を叩き、足元の砂袋が一つずれた。
「櫂を上げろ!」
サーヴァが叫んだ。
今度は俺も黙った。
舟が水の斜面を下りた。腹の底が浮き、次の瞬間、硬いものを擦る長い音がした。
木の音なのに歯の根へ響いた。
トマが膝をついた。
俺は腕を伸ばし、彼の袖を掴んだ。立ち上がるな、と頭のどこかで言われていたので、尻を板へ押しつけたまま引いた。
濡れた袖が指から滑りかけ、皮膚へ爪が当たった。
舟の右側で、縁の板が割れた。
水が入った。
「桶!」
サーヴァが言った。
トマが桶を取った。俺は砂袋を戻そうとして、サーヴァに止められた。
「今は動かすな。水を出せ。そっちの小さいの」
小桶を取る手が震えた。底を擦った木片が浮き、桶の縁へ当たった。
俺は水を掬い、外へ捨てた。思ったより少ししか減らない。
岸は近かった。
近いことが、何の助けにもならなかった。
サーヴァが帆を落とし、舟をこれ以上横へ向けないよう舵を押さえた。向こうでミソサザイが回り、ユストがこちらの様子を見ている。
旗を出せる状態ではなかった。無事で待てという合図を掲げる場面でもない。
サーヴァが腕で決めていた合図を送り、ユストは近づく側を変えた。すぐに縄が飛んできたわけではなかった。
彼も水と、こちらの傾きと、足元に見えない石を見る時間が要った。
その時間が長かった。
俺の頭に、帰路を支える刻線が浮かんだ。
何かを使えば、舟を少しだけ持たせられるかもしれない。あの石までの距離。
灯台へ帰った道。エルナと歩いた、まだ失っていない夕方。
方法の前に、差し出すものを数えていた。
またそれで、今ここから一人だけ立派に抜け出せるつもりか。
トマの桶が俺の膝に当たった。
「こっち、溜まってる」
俺は水を掬った。
サーヴァが縄を受けた。ユストの舟がゆっくり張りを作る。
引かれた瞬間にすべてが解決するのではなく、こちらの底が石へ噛んだまま別の場所を壊さないよう、二人が何度も声を掛け合った。
俺の仕事は水を出すことだった。
あまり役に立っていない気がするくらい、同じ動作を続けた。
舟がわずかに動いた。
長い擦れる音が、今度は短く切れた。底が離れ、舟が水へ戻る。
その動きで俺は倒れかけ、トマが肩を支えた。
片方の櫂は、少し遠くを流れていった。
誰も追わなかった。
*
岸へ上がると、靴の中の水が急に冷たくなった。
ミアがトマの膝を見た。擦り傷と打ち身があり、歩けるが腫れるだろうと言った。
俺の手の甲も切れていたが、見せる順を後にした。そうすることで何か返せると思ったのかもしれない。
「手も」
姉は見抜いたように言った。
父とエドが舟を引き上げていた。水を抜くたび、底の中に残った砂が広がった。
役に立たなかった砂袋を見て、俺は腹が立ちかけた。役割を果たしていたのは袋のほうだった。
サーヴァが俺の前へ来た。
「次、同じことをしたら降ろす」
「ごめん」
「謝ったから乗れるとは言ってない」
俺は口を閉じた。
彼女の頬にも細い傷があった。さっき縄を受けたときだろうか。
どの瞬間か、俺は見ていない。
「地形を知ってるなら、出る前に言う。走りながら直す必要が出たら、私へ言う。二人へ別々に指図するな」
「分かった」
「何が?」
俺は答えた。言葉にしようとすると、ひどく単純なことだった。
サーヴァは最後まで聞き、踵を返した。慰める言葉はなかった。
エルナが近づいてきた。
俺は、彼女の前ではもう少しよい顔でいたかった。手の傷より、そのことのほうが強く痛んだ。
「無事?」
「うん」
彼女は俺の袖に触れた。まだ水が落ちていた。
「帰ってきてよかった」
俺はその言葉を、今日の判断が許されたことに使いたくなった。
エルナは俺の手がひどく冷たいことに気づき、乾いた布を取ってきた。俺の何が悪かったかを、そこで彼女が代わりに説明することはなかった。




