継ぎ布を残す
古い帆布は、濡らすと別の重さになった。
乾いている間は一抱えだったものが、桶から持ち上げると腕へずしりと食い込む。水が肘まで伝い、袖の中を抜けた。
俺は思わず声を出し、向かいで布を持つユストを見た。
「先に言ってくれてもよかったのに」
「濡れるって?」
「こんなに来るって」
ユストは頷き、布の端を少し持ち上げた。残っていた水が俺の靴へ注がれた。
「まだ来るよ」
親切の時機というものについて、この人とはいずれ話し合う必要があった。
借りた庭先には、縄が二本渡してあった。そこへ洗った帆布を掛けると、風が腹へ入って、小さな舟ほどにも膨らんだ。
汚れの落ちた部分と落ちなかった部分が、曇った光の中でまだらに透ける。
ユストは裾を引き、穴へ指を通した。
「ここは使わない」
「縫えば?」
「周りも薄い。袋ならいい」
彼はその場で印をつけた。帆に残す部分、荷を覆う部分、小物を包む部分。
布は少しずつ、俺が予想しなかった用途へ分かれていった。
縫える人に全てを頼むと費用が掛かった。そこで俺も針を持ったが、しばらくして、金を払うという仕組みの良さを理解した。
針は布へ入るのに、出てこない。押し出そうとすると指が痛み、力を抜くと、布がこちらの決意まで押し戻してくる。
サーヴァは革の当てを渡した。そういう物があるなら最初から出してほしかった。
「使ったことないの」
「あります。もっと薄い布なら」
嘘ではなかった。俺は自分の袖を繕ったことがある。
仕上がりを見た母に、袖を縮めたかったのかと聞かれたが、それも経験には違いない。
サーヴァは俺の縫い目を見て、何も言わなかった。言わないまま隣を縫い直し始めたので、俺は言われるより傷ついた。
昼にはエルナが来た。依頼先へ届ける控えを布で包んで、脇へ挟んでいた。
俺の膝の上を覗き、口元だけを動かした。
「何か言いたい?」
「難しそうだと思って」
「難しいよ」
「うん。よく伝わる」
彼女は仕事帰りに手伝うと言った。俺は嬉しかったが、それを聞いてから急に残りの長さが短く思えたことは、顔へ出さないようにした。
エルナは帳面を置く場所を探し、乾いた木箱の上へ布を敷いた。それから針を取った。
最初の何針かは遅く、指の腹で裏側を確かめていた。
「普段の紙より厚いね」
「本を綴じる方が簡単?」
「慣れてる方が」
そう答えた彼女の糸も、一度絡まった。爪先で解こうとして、ますます締まる。
エルナは黙り、顔の横の髪が風に持ち上がっても払わなかった。
俺は手伝うと言いかけたが、その結び目について俺が出来ることは、力を込めて悪化させるくらいだった。
「お茶を入れるよ」
「お願い」
すぐ返事があった。糸の方を見たままだったが、声は少し柔らかくなった。
*
旗にする一枚には、片端に濃い継ぎ布が残った。
元の帆布を洗って淡い色に染め直しても、その部分だけは色が沈んだままだった。しかも、継ぎ目の縫い代が端へ少し出ている。
俺はそれを広げて眺め、余った方を内へ折った。
「ここ、切ってもいいですか。形が揃います」
サーヴァは針から目を上げた。
「どこから見るつもりだい」
「舟から」
「じゃあ、持って向こうへ行って」
俺は布を持ち、庭の端へ歩いた。彼女はもっと、と手を振った。
道を渡って土手へ行くと、サーヴァは目を細めた。
風が布を巻き込み、手の中でばたついた。開こうとして持ち直すたび、俺の腕も上がったり下がったりした。
庭の方で、ユストが何か言っている。声は聞こえたが、言葉までは分からなかった。
「戻っておいで」
結局、呼ぶために彼が道の途中まで来た。
サーヴァは戻った布の端へ指を置いた。
「色が飛んでも、ここは残る。端が厚いから、広がり方も少し違う」
「揃ってない方がいいんですか」
「この一枚を覚えるならね。綺麗な旗は他にもある」
俺は継ぎ布を撫でた。濡れていたときの皺が乾き、波のように固まっていた。
指に当たる縫い目は、見栄えほど悪い仕事ではなかった。
継ぎ布は残した。
合図の意味を決める段になると、俺は帳面を開いた。待つ、寄る、離れる、怪我人がいる、食べ物が足りない。
書き始めるといくらでも出てきた。
サーヴァが、俺の書く手を見ていた。
「全部、同じ布でやるの?」
「上げ方を変えれば」
「さっきのあんた、三つくらい別の話をしてたことになるよ」
庭の向こうで、ユストが笑った。俺は彼にも十分、風が吹いてほしいと思った。
結局、その旗には一つだけを任せた。こちらは無事だ。
近づかずに待ってほしい。相手が見たかどうか確かめる方法や、旗が出せない場合は、舟ごとの手順と一緒に決める。
俺は帳面に書き、エルナへ渡した。彼女は文を読み、言い方を短くした。
それからユストへ読んでもらった。三人が同じつもりでいるかを確かめるのに、糸を通すより時間が掛かった。
「近づかなくていい、だと、来てもいいみたいに聞こえる」と彼は言った。
「じゃあ、近づくな」
「それなら嫌でも分かる」
旗一枚の話が終わった頃には、陽が傾いていた。俺の帳面には取り消した言葉がいくつも残り、エルナの指には針を押した跡がついていた。
彼女が布を畳むのを手伝った。二人の持つ端を合わせると、濃い継ぎ布が表へ出た。
俺は今度は、その場所を内側へ隠さなかった。
*
舟の金具を揃える日は、小屋に焼いた油の匂いが籠もった。
使い古しを洗って確かめ、割れのある物を外す。新しく買った物でも、そのまま合うとは限らなかった。
エドは舟の板へ当て、削る側と触らない側をいちいち分けた。
俺が預かったのは、帆を畳む縄に使う小さな滑車の枠だった。片側が歪み、軸の周りへ赤黒い錆が噛んでいた。
無理に叩けば動きそうだったが、先に枠の方が傷むとエドは言った。
しばらく油を染ませていたものの、まだ動かなかった。別の物を取り寄せれば待つし、余分に買えば払う。
俺は二度ほど小槌を持ち上げ、置いた。
「少し、緩められると思います」
エドは仕事を止めた。
「どれくらい」
「固着してるところだけ。軸が抜ければ、枠を直せるでしょう」
「抜けたら見てみる。割れてたら、結局替えだ」
それでもよかった。自分にしか出来ない仕事が、ようやく回ってきた気がしたのだ。
俺は帳面を出し、使う体験を書いた。昨冬、灯台の階段についた泥を落とした夕べ。
海が戻ってから、靴の裏へついてくるものが変わり、乾くと砂だけが石の目へ残った。雑巾を絞り、何度も桶の水を換えた。
その日のことを、俺はまだ内側から思い浮かべられた。手首のだるさ、濁った水が桶の縁を越える音。
掃いても出てきた細かい砂に腹を立て、階段の途中で腰を下ろしたときの冷たさ。
あれなら構わない、と最初に思った。
それだけで決めるのをやめ、どこまで続く記憶だったか辿った。夜の灯りを確かめてから帰り、父と一緒だったことも書き足した。
小さな欄では足りず、行を一つ増やした。
俺の字を、エドが覗き込んだ。
「やめとくか」
「いえ。使います」
口にすると、少し身が固くなった。いったん任された仕事を戻すのが嫌だった。
取り寄せを待つ間、また釘を拾っていればいいだけなのに、その時間を自分の値段のように考えていた。
枠を台へ固定し、軸の周りの動きを逃がす細い道と、先を閉じる止め目を確かめた。指先を置き、雑巾から水が離れた感触を呼んだ。
濁った水が流れた。
その夕べの俺の手にあった重さが、細くほどけるように遠ざかった。目の前では、金具に溜まっていた油がわずかに震え、錆の縁に暗い線が走った。
俺はそこで止めた。指を離してから、しばらく台を見ていた。
術を使ったあとは、何かの続きを待つような間が出来ることがある。今も、雑巾をどこへ置いたのか思い出そうとして、何も現れなかった。
エドが軸を動かした。最初は渋く、次に、小さく鳴って抜けた。
「使えるかもしれん」
彼は光へ透かして見た。その評価は控えめで、俺が密かに待っていた感嘆とは違った。
それでも、作業台に置かれた二つの部品を見ていると嬉しかった。
枠はあとで直され、軸も磨き直された。組み合わせた滑車を手で回し、荷を掛けずに何度も確かめる。
術で外せたことは、使える保証の一部分にしかならなかった。
俺は帳面に結果を足した。夕べの掃除は、何をしたかという言葉として残っていた。
桶の水の冷たさを呼ぼうとすると、今、小屋の隅にある水桶が浮かんだ。似ているからといって、同じものだと扱う気にはなれなかった。
*
数日後、父が小屋へ干した果実を持ってきた。
布の中で、茶色い薄片が重なっていた。冬を越した分で、縁に白い粉がついている。
父は一つ口へ放り込み、残りを俺の方へ押した。
「母さんが、硬くなる前に食えと」
俺も一つ取った。噛むと歯へ貼りつき、奥から酸味が出た。
甘いというより、甘さを長く残す食べ物だった。
「これ、前にも持ってきた?」
自分からそう聞いて、少し驚いた。初めて食べた気はしない。
果実の名前も、家で干すことも知っている。けれど、何かが引っ掛かっていた。
「灯台を洗った日にな」
父は布の端についた粉を指で掬った。
「階段が乾かんから、お前は上までまた拭きに行った。帰りに、道で食べたろう」
俺は口の中のものを、ゆっくり噛んだ。
その日は帳面に書いた。父と帰ったとも書いた。
それなのに、使う前にはひと続きだったはずの道の暗さが、今は見えなかった。
果実を渡された手元も、そのとき甘いと思ったのか、硬いと文句を言ったのかも分からない。
これまで何度か味わった、知っているのに行けない場所だった。
「あの日の掃除、金具を直すのに使ったんだ」
父はしばらく俺を見ていた。口の中に果実が残っているらしく、先に飲み込んだ。
「そうか」
「帰りも、少し曖昧になった」
父は布を畳みかけ、俺がもう一つ取れるよう、開いたままにした。
「お前、酸っぱいと言ってたな」
「そうなんだ」
「俺の分まで食ったが」
俺は笑った。笑えたことに少しほっとして、それから、ほっとして済ませたくなっている自分が嫌になった。
父は枠へ取り付けられた滑車を眺めた。どれに使ったのかは、まだ言っていなかった。
「それか」
「うん」
彼は縄を少し動かし、滑車が回るのを見た。褒めもせず、取り外せとも言わなかった。
俺は父に何か言ってほしかったが、何を言われても違うと思う用意をしていた。
だから、残った果実を一つ取った。
父が食べ終えるのを待ってから、灯台へ一緒に向かった。その日の味は、よく噛んだ。
よく噛めば前の味まで戻るわけではないことくらい、分かっていた。
夜、帳面へ父の話を足した。『帰りに干し果実。
父の分も食べた、と父が言った』。聞いたことだと分かる書き方にした。
金具の注文を待てば、残った夕べだった。
その一行を、すぐには書けなかった。紙の隅に点が出来るまで筆を置き、ようやく書いた。
書き終えると、今度から全部を使わずに済ませるような立派な決意をしたくなった。
代わりに、道具箱へ予備の金具を一つ加える費用を調べる、と書いた。明日やることなら、逃げたときにも分かる。
*
舟は、見物する人が名前を聞くくらいの形になった。
まだ名前はなかった。候補を口にする者はいたが、サーヴァは先に水へ浮かべて働き具合を見たいと言った。
トマは、自分が乗るたび照れるような名前でなければいいと答えた。
俺は立派な候補を二つほど飲み込んだ。
帆を合わせる日には、エルナが少しだけ見に来た。布を手で引き、縫ったところを確かめる。
俺がやった不揃いな縫い目は、見える場所に残っていた。
「そこ、見なくていいよ」
「私のは、この辺り」
彼女が指したところにも、一箇所だけ糸の間隔が狭い部分があった。絡まったあと、縫い直したところだ。
「言わなければ分からなかった」
「じゃあ、言わなければよかった」
口ではそう言ったが、悔しそうではなかった。風が吹き、帆が二人の間へ出てきたので、俺たちは同時に手を当てた。
向こう側に彼女の指の形が透けた。
風が緩むと、白い布の向こうから顔が現れた。俺は何か言おうとして、ただ笑った。
彼女も少し笑い、先に手を離した。
そのあと、昼の旗をもう一度広げた。
継ぎ布のある端が風を受け、少し遅れて開いた。岸から見たユストが、見えたと腕を上げる。
俺は布を持つ手を替え、足を置き直した。初めてのときより、余計な動きが減っていた。
帰り支度の頃、荷を運んできた男が、小屋の戸口でエドを呼んだ。
声が低かったので、最初は代金の相談だと思った。エドは鉋を布で包む手を止め、もう一度聞き返した。
「レムが?」
サーヴァが顔を上げた。
俺は畳みかけた旗を膝へ置いた。布の中に、さっきまでの風が少しだけ残っているようだった。
「船が来なかったんだと。向こうで、死んだ扱いの知らせを出したらしい」
男は濡れた帽子を手の中で回した。
「布と日用品の仲買だろ。あの、レムだよ」
ユストは小屋の奥を見た。そこには、まだほどいていない荷紐が掛かっていた。
誰の品がどこから届く予定だったか、俺より彼の方が知っていた。
サーヴァが、知らせを誰から聞いたのか尋ねた。男は道筋を説明し始めたが、途中で一人の名を思い出せず、帽子の縁を折った。
俺は膝の旗をゆっくり畳んだ。こちらは無事だ、と知らせるための布だった。
今、話されている海のどこかで、その一言が届かなかったらしい。
外では、誰も触れていない舟の脇で、水だけが岸を叩いていた。




