削りくずの降る日
最初に任されたのは、釘を拾う仕事だった。
船を造る、と言えば、俺にもそれなりの想像があった。広げた図面を囲み、誰かの思いつきに皆が顔を上げる。
そこで俺がもう一歩先のことを言い、なるほど、と頷かれる。
少なくとも、濡れた土へ膝をついて、木屑と見分けのつかない曲がった釘を探すところからは始まらない。
「頭のあるのと、ないのとで分けてくれ」
エドは舟の内側から言った。彼の顔は外した板の向こうに隠れていて、声だけが腹へ響くように聞こえた。
「曲がってるものも使うんですか」
「使えるのはな。足の裏へ使う前に拾え」
すぐ横で、トマが鼻を鳴らした。笑ったらしい。
俺は顔を上げず、土に半分埋まった釘を抜いた。先が二度曲がっていて、何かに腹を立てながら打ったような形をしていた。
作業場に借りたのは、粉屋の水車から少し下ったところにある板小屋だった。川舟を引き上げるための斜面があり、屋根は舟の半分ほどを覆っている。
残りの半分は、雲の機嫌に従って働くしかない。
古い板を一枚剥がすと、湿った木と、日に当たらない川底に似た匂いが出た。舟の腹には枯れた葉の欠片や、平たくなった種が入り込んでいた。
水の上を移動する道具のくせに、ずいぶん土を抱えている。
エドは削った木の端を親指で撫で、刃を少し出し直した。引くたび、薄い削り屑が袖へ積もる。
屑はまだ形を覚えているように丸まり、それからゆっくり開いた。
「そこ、押さえて」
トマに言われ、俺は板の端へ手を置いた。彼が鉋を引くと、指の下からかすかな震えが伝わった。
見ているより重い仕事だった。途中で力が抜けると、刃が止まり、トマが俺の手を見た。
「押さえるって、触ってることじゃないぞ」
「押さえてた」
「じゃあ、もう少し困らせてくれ。板を」
俺は体重を掛けた。トマは何も言わず続きを削った。
その背中には、汗が細い三角になって滲んでいた。
俺にも出来る仕事がある。それは結構なことだった。
ただ、俺が出来る仕事は、大抵、誰かがもう少し上手に出来た。
昼近く、サーヴァとユストが来た。二人はミソサザイで運んできた縄と道具を下ろすと、まず屋根の外に置かれた材を見た。
「これ、いつ切った」
「この山は使わない。あっちだ」
エドが顎で奥を示すと、サーヴァは板の間を覗き、ユストに何かを言った。彼は材を二枚持ち上げ、その下を見た。
俺の図は、作業台の上で石を重しにされていた。
「僕の考えた、横を高くするところなんですけど」
話の隙間を見つけて言うと、サーヴァはようやくこちらへ来た。紙へ屈むと、髪から乾いた塩の匂いがした。
「荷が濡れにくくはなるね」
俺は頷いた。まさに、そこだ。
知識は経験に負けることもあるが、たまには互角くらいに持ち込んでほしい。
「その板を載せた状態で、先に浮かべよう」
彼女は言って、紙の隅をめくった。裏まで何か書いてあると思ったのかもしれない。
そこには昼飯の注文しかなかった。
*
舟を試したのは、風の弱い午後だった。
河口から少し内へ入った、両側を岸に挟まれた水面を使った。葦の古い茎が茶色く立ち、水には雲が薄く映っている。
村から見れば湾の一部だが、サーヴァに言わせると、試すならまだこの辺りだという場所だった。
舟には誰も乗せなかった。取り外せる仮の板を舷へ載せ、荷の代わりに重さを確かめた袋を置く。
岸にいる者が縄を持ち、ユストは水際で長い竿を使った。俺は濡れていない帳面を抱え、記録係の顔をしていた。
真っ直ぐ浮いている間は、よく出来ているように見えた。高くした側板も悪くない。
灰色の舟腹に新しい木の色が足されると、それだけで今から何かを始める舟らしくなった。
俺はその姿を、対岸の波止場へ着くところまで想像した。
「目を離すなよ」
サーヴァの声がした。
岸から舟の向きを変える。少し離れたところで小舟が動き、そのあとに来た波が、改造中の川舟の横腹へ当たった。
軽く持ち上がり、下がる。それだけに見えた次の瞬間、舟が思った以上に傾いた。
仮の板の下端へ水が触れた。
「もう戻して」
サーヴァが言い、トマが縄を引いた。袋の一つが滑り、船底で鈍い音を立てた。
俺の胸がその音に合わせて縮んだ。
舟は岸へ寄せられた。誰も叫ばなかったし、誰も落ちなかった。
ユストが竿で支える間に袋を下ろすと、水面にさっきと同じ雲が戻った。
だが、俺は帳面へ何も書けなかった。
「袋が動いたからでしょう」
先に出たのは、その言葉だった。
「動いたね」
サーヴァは舟から目を離さなかった。
「荷を縛れば、もっと」
「縛った場合も試す。その前に、動いたと書いて」
俺は帳面を見た。書けない字ではなかった。
たった数文字なのに、紙へ置いたら俺の図面まで沈むような気がした。
エドが仮の板へ手を掛けた。
「高くした分が、働きすぎたな」
「あなたは分かってたんですか」
「疑ってた。だから釘を最後まで打たなかった」
抜きかけの釘が、板の縁に並んでいた。朝、俺はそれを仕事の途中だからだと思って見ていた。
そのあと、板を外した舟でも同じことをした。荷の置き方を変え、向きも変えた。
俺の番になると、縄の濡れた部分が掌で滑った。紙の上で増やした高さが、ここでは風を受け、重さになり、水際を狭くしていた。
終わる頃、靴下まで冷えていた。俺の図には、濡れた親指の跡が残った。
*
小屋へ戻ると、アニが戸口に腰掛けていた。
膝には布で包んだ籠があり、蓋の間から焼いた粉の甘い匂いがした。俺は食べ物を見たことで、自分がどれほど落胆していたかに気づいた。
世の中にまだ食べるという仕事があってよかった。
「遅かったね」
アニはトマへ言った。
「浮かべ直したから」
「今日は昼までだって聞いた」
トマが俺を見た。そこで初めて、俺は朝の話を思い出した。
エドがこの日しか長くいられず、サーヴァも都合がついたから、トマへもう少し頼むと言ったのだった。
そのとき、トマは返事をしなかった。俺は返事のないまま次の仕事を話した。
「ごめん。船を浮かべるのに、人手が要ったから」
俺が言うと、アニは籠を作業台へ置いた。
「こっちも、戸を外すのに二人要ったよ」
二人が使う家では、物置を部屋に直しているところだった。婚礼の日はまだ決まっていない。
それで俺は、いつ手伝っても同じようなものだと思っていた。
ところが、窓の小さなその部屋は、午後になると暗い。建具を直しに来る人の都合もあり、今日はトマが戸を運ぶことになっていた。
「待ってた人は?」
「帰った。また来てもらう」
アニは布を開いた。中には蜂蜜を薄く塗った固焼きがあった。
縁の欠けたものも、綺麗なものも同じ籠に入っている。
俺は、それが差し入れなのか、今日は誰も食べてはいけないものなのか判断できなかった。
「食べていいよ。持って帰ると割れるから」
許可が出ても、すぐ手は出なかった。トマが一枚取ったので、俺も取った。
固く、少し焦げ臭く、噛むと奥から蜜の甘さがした。
「舟が出来たら、物を運べるし。家の材も安く」
言いかけて、アニの顔を見た。
彼女は俺を睨んではいなかった。籠の布についた小さな欠片を指で集めていた。
その掌に、昔、俺が負わせた白い線が見えた。
俺の説明を聞くために、一日がもう一日延びるのを待っている顔だった。
「……明日、戸を運ぶのを手伝う。来直す分の手間賃も、僕が払う」
「明日は人が来ない」
「いつなら来る?」
アニはようやくこちらを見た。トマが口を開きかけ、彼女が先に答えた。
「聞いてから知らせる。勝手に空けて、私がまた変えたみたいにしないでね」
その言い方に、俺は少し腹が立った。こっちだって舟を遊びで作っているわけではない。
そう思ったところで、トマが窓の外を見た。もう夕方だった。
俺が取り返したいのは、自分が悪い奴ではないという立場だった。あの部屋へ今日入るはずだった日差しは、立場を説明しても戻らない。
トマは固焼きをもう一枚取り、アニへ渡した。彼女は受け取って、今度は自分も食べた。
*
組み直した予定表では、トマの欄に空白が増えた。
その空白を埋めるのは俺だった。二人分の働きが一人で済むはずもなく、舟の出来上がる日が後ろへ動いた。
エドは困ったと言ったが、今のうちなら自分の他の仕事と入れ替えられる、と算盤の代わりに指を曲げた。
俺は工期というものを、自分が我慢すれば縮まるものだと思っていたらしい。
実際には、俺が我慢しても、エドの膝や、トマの家の戸口まで早くは動かなかった。
数日後、俺はトマと二人で戸を運んだ。
使う家は粉屋から離れすぎない場所にあった。壁の下の方に冬の湿気が残り、床へ乾いた草が広げられている。
アニは窓のそばへ立ち、戸を斜めにするよう指示した。
「そっちを上げて。ノア、そっちってあんたの方」
「僕の方は、もう上がってる」
「口より先に」
戸の角が壁へ当たりそうになり、俺は必死に向きを変えた。腕の中で木が軋み、トマが笑う気配がした。
「笑うと落とすよ」
「だから笑ってない」
その返事がもう笑っていた。俺たちは戸を置き、しばらく同じ格好で肩を回した。
部屋の奥には、アニが布へ包んだ蜜の甕が並んでいた。
新しい窓を欲しがる理由は明るい家にしたいからだけではなく、冬にも選別の仕事をしやすくしたいからだという。
「ここに棚を作るんだ」とトマが言った。
「上の段、そんなに高くしないでね」
「分かってる」
俺がよくする返事をトマもしたので、思わず顔を見た。アニは聞き流さず、壁に手を当てて自分の届く高さを示した。
トマはそこへ炭で印をつけた。
俺には、その手つきが羨ましかった。二人が上手くやっていること以上に、同じ壁へ何を置くか話していることが羨ましかった。
エルナと、俺はまだこういう話をしていない。彼女が何を望むか聞く前から、俺の暮らしへ来る場面ばかり想像してしまう。
机の場所なら空けられる、と考える自分がいた。彼女が欲しいのは机一つなのかも知らないくせに。
アニは戸の開き具合を確かめ、満足そうに頷いた。
「お湯、飲む?」
茶葉を入れる前に聞いたところが、いかにも今の二人の台所だった。俺は飲むと答えた。
安い葉を薄く煮出した湯には、甕の蓋から掬った蜜が少し入った。
*
改造する舟には、高い囲いを載せないことになった。
低い荷を中心にし、濡れて困る物の覆いを別に用意する。傷んだところは替えるが、今ある舟へ欲しいものを際限なく足すのをやめた。
乾いた材は必要な分だけ買い、受け取った日に一本ずつ確かめた。
材代を見て、俺は買う前の方が木を愛していたと思った。
エドは金額の書かれた紙を返し、削る場所へ印をつけた。
「これでも、沖へは出さないんですね」
「ああ。この舟は、まずここで稼ぐ」
サーヴァは小屋の外の水を指した。指の先には対岸の謎も、俺の出生記録もなかった。
薪を積んだ荷車が泥へ車輪を取られ、男が一人で押していた。
「一つ湾を回るだけでも、あれが減る」
俺は荷車を見た。男は押すのをやめ、車輪の前を足で探っていた。
トマが道具を置いて出ていったので、俺も追った。
戻ると、作業台に新しい図があった。俺の描いたものより線が少なく、修繕する箇所の横へ小さな数字が入っている。
数字は値段と、使う材の印だった。
その図で仕事を始めると、毎日少しずつ舟の形が変わった。
俺の役も、釘拾いばかりではなくなった。板を押さえ、道具を渡し、採寸を読み上げる。
間違えた数字をトマに確かめられると不機嫌になったが、後になって切り損ねた材の値段を想像してから礼を言った。
晴れた日の午後、小屋の屋根に鳥が来た。鉋の音が止まるたび、小さい爪で板を掻く音がした。
エドが手を止め、上を見た。
「住む気かね」
「ここ、春はよく来るよ」とトマが言った。
「家賃を払うならいい」
鳥は払う気がなさそうだった。俺も出来るならその身分になりたかったが、鳥になったら削り屑を持ち去る仕事くらいは頼まれそうだった。
夕方、床を掃くと、長い木屑が箒へ絡んだ。小屋の外から風が入り、集めた山の上だけをさらっていく。
俺は戸を半分閉め、もう一度掃いた。
起こした舟の腹を、低い光が滑った。まだ継ぎ目に手を入れる必要があり、塗るものも、揃わない金具もあった。
それでも、朝より確かに先へ進んでいた。
俺は箒を持ったまま、しばらく眺めた。誰かに見られていたら、さも自分が造ったような顔をしていたかもしれない。
そのときは一人だったので、ただ、綺麗だと思った。




