舟の上では役に立たない
春の気配は、風の温かさより先に道の悪さで来た。
霜が緩んだ坂に荷車の轍が深く残り、足を抜くたびに靴底の泥が増えた。海へ行くために船を用意しようと思うほど、陸を歩くのが嫌になるのは不思議だった。
俺は元々、近所の店へ出ることにも理由を必要とした男である。移動手段への不満だけは二つの人生を通じて一貫していた。
その日、灯台から舟が見えた。
最初に見えたのは灰色の帆だった。沖の白い影とは違い、水面の揺れに合わせて傾く。
岬の先から岸に沿って回ってくると、帆の下に二人の人影が分かれた。
俺は灯室から鐘を鳴らした。
下りる途中で一段踏み外しかけ、手摺へ肩をぶつけた。知らないものが来るたびに階段で死にかけていては、灯台守としての寿命が短すぎる。
石段へ着く頃には、村の人が何人も集まっていた。
舟はその手前で帆を畳み、小さく向きを変えた。先端にいた男が長い竿で水深を測っている。
舵を持つ女は岸を見ていたが、手を振る人へ振り返そうとはしなかった。
「そこの縄、投げるな」
女が言った。
父が隣の男の腕を止めた。女は竿を持つ相棒へ何か短く言い、舟を少し戻した。
それからようやく石段へ寄せた。
木の縁が擦れる音がした。女が差し出した縄を俺は受け取り、近くの杭へ回した。
「そこ、上へ抜けるよ」
「え?」
「波で持ち上がったら、輪が抜ける」
見れば、杭の頭は滑らかに削れていた。俺が結び直そうとすると、父が指を一本差し込み、輪の下を押さえた。
女はその間に岸へ上がった。
濡れた上着の裾が重そうだった。袖を捲った腕に古い縄の擦り傷があり、腰の刃物の柄だけ、他の道具より滑らかに光っている。
年は母より少し若いのかもしれないが、風に晒された顔からはよく分からなかった。
「灯台をつけてるのは?」
「僕です」
「夜、同じ間で回せる?」
初対面の挨拶は、その確認から始まった。
*
女はサーヴァと名乗った。
舟の名はミソサザイ、相棒はユスト。どちらも一度で覚えられる名だったが、俺は念のため帳面へ書いた。
サーヴァはそれを見て、自分の名の綴りを一つ直した。
「こっちの字を使う。舟の契約と合わせて」
「商人ですか」
「運ぶ仕事。自分の荷もある。あんたは?」
「灯台の保守を」
「なら、話が早い」
英雄とか海を戻した者とか、そのあたりの話は出なかった。少し拍子抜けした。
俺は自分から言わなかった。その点は評価してもよいと思う。
誰に申請すればよいのか分からないが。
サーヴァたちは、海の残っていた沿岸を辿って来たという。古い海図にない入り江の光が見え、何度か別の小岬を確かめ、天気を待った。
俺たちが向こうの塔だと思ったものについて尋ねると、彼女は首を振った。
「ここからの見え方は知らない。地図の通りに岸があるかも、まだ見てない」
「エシュルという港を知ってますか」
それは、二度目の受信に添えられていた地名だった。字の読み方もまだ確かでない。
俺が紙を見せると、サーヴァは目を細めた。
「港は知ってる。ここからそのまま向けるかは別」
「行けるんですね」
「あんた、先に欲しい返事を選ぶね」
俺は紙を畳んだ。
ユストが舟から樽を一本降ろしていた。新しい港を訪れた船員にしては、表情が明るくない。
理由を聞くと、今朝から片方の靴が濡れたままなのだと言った。
世界が広がる朝にも、足元にはそういう不満がある。
*
サーヴァに湾を見てもらうことになった。
俺は知っている地形を説明するために乗り、父は岸へ残った。
乗る直前に食事を多く取るなと言われたが、ちょうどパンを食べ終わったところだったので、注意は人生に間に合わなかった。
ミソサザイは、村の川舟より深く水へ入っていた。足を置いた場所が思ったより沈み、俺は横木を掴んだ。
自分の体重だけで乗り物が傾く経験は、地面の上で育てた自尊心に悪い。
「真ん中へ。荷物も」
サーヴァの指示に従って座った。
岸が離れた。
石段が少しずつ横へ流れ、村の家の重なりが変わった。いつも灯台から見ていた湾が、目の高さまで上がってくる。
水は遠くから見ると平たいのに、近くには幾つもの小さな斜面があり、それぞれ別の速さで舟の下へ滑り込んだ。
海の匂いは知っているつもりだった。
しかし、濡れた舟板と樽と、底に溜まった水の匂いは知らなかった。俺の知識には、乗る場所の都合が入っていない。
「あそこに旧東道がありました」
俺は指した。
サーヴァは聞き、ユストへ竿を入れさせた。俺が先を説明しているうちに、彼女の視線は別のところへ移っていた。
「もう少し近づけば、石積みが――」
「今、風が変わる」
そう言われても、俺にはまだ同じ風に思えた。
帆が小さく音を立てた。サーヴァが綱を動かし、舟が先に向きを変える。
そのあとで、俺の頬へ当たる風の位置が変わった。
彼女は、見えないものを知っていた。
魔法の感知だろうかと思いかけ、やめた。そこへ何でも押し込むと、俺にできない技術を全部別枠へ片づけられてしまう。
「どこを見たんですか」
「水の色と、岬の草。あと、帆」
「三つも?」
「耳も使う」
俺はその四つを同時に見ようとして、気持ち悪くなった。
舟の向こうへ吐いたとき、ユストが何も言わず背中を押さえてくれた。サーヴァも笑わなかった。
笑われたほうが、まだ何か返せた。
仕事の手間を一つ増やした人として扱われることが、思ったより堪えた。
*
岸へ戻ると、トマがいた。
「白いな」
「海の男の顔だよ」
「粉を浴びたときもそうなる」
俺は反論する力を失っていた。
トマと一緒に来た船大工のエドが、サーヴァと川舟の前へしゃがんだ。エドは川の渡しに使う舟を何艘も直してきた男だった。
太い指で板を叩き、釘の頭を見て、海舟の底とこちらの底を行き来した。
サーヴァが何か言うと、最初は不機嫌そうな顔をした。それから、同じ箇所を別の角度で叩いた。
「深くすりゃいいってことじゃないな」
「深くして、どこへ重さを置くか。あと、戻る波をどこへ逃がすか」
「材が要る」
「要るね」
会話は、そこでいったん終わった。
俺はもっと華やかなものを想像していた。海を渡るための船を作ろう、という宣言から人々が集まり、それぞれの特技を出して、景気よく始まるような。
現実には、材が要る。
乾いた材は高い。
削ったものを返して安くしてもらうこともできない。
「湾の向こうの荷を運ぶだけなら?」
俺が聞くと、エドが顔を上げた。
「それでも人が乗る」
「うん」
「荷を減らして、岸を見て回る。天気を選ぶ。そのための舟からなら、直して試せる」
サーヴァは頷いた。
「向こうの港へ行く話とは分けな。これで湾を渡れても、沖へ出られるって意味じゃない」
俺は二艘の川舟を見た。
一艘の縁には父の補修した跡があり、もう一艘には雨を避ける板が被せてあった。どちらもすでに人の仕事をしてきた舟だ。
新しい夢のために、今の使い道を空にしてよいものではない。
「一艘は残して、もう一艘を直す」
俺は言った。
「それで、荷を運べるようにする。僕が向こうへ行ったあとも」
言ってから、そのあとを初めて具体的に想像した。
俺のいない灯台。
俺を乗せずに荷を運ぶ舟。
旅に出たいくせに、そこには少し面白くないものがあった。
「手間賃の話をしよう」
サーヴァが言った。
「私の舟、ここにいるあいだは他の荷を運べない。ユストの飯も要る」
俺は頷いた。自分の給金を交渉したときには当然だった金の話が、相手の口から出ると急に大きく聞こえる。
財布というものは、自分側からしか見えない窓が付いているらしかった。
エドが板の長さを測り始めた。トマは糸を押さえ、サーヴァは岸の水位の跡を見に行く。
俺は何をすればよいか尋ねる前に、転がりそうな道具箱を足で止めた。
まずそこから、船造りが始まった。




