誰の名前で旅に出る
ハルの住む家は、雨の日に窓を閉めると昼でも暗かった。
高台の小屋を継ぎ足して作った住まいで、戸を開けたところに濡れた靴が並び、その先に卓、奥に布で仕切った寝床がある。
乾かしている子供の上着から水が落ち、床に置いた欠けた皿が受けていた。
俺はその皿を避けて入った。すぐに背中が戸口の板へ当たった。
家に対して、自分の身体の置き場をまだ覚えていない。
「帳面なら、今はないぞ」
ハルは最初に言った。
「エルナのところへ、直すところを出してる」
「帳面を取りに来たんじゃない」
「そうか」
それで会話が終わりかけた。
俺は出直す理由を探した。忙しそうだ。
子供もいる。こちらがいたら食事の邪魔かもしれない。
そのくらいの気遣いなら幾らでも思いつく。相手に気を遣うのは、嫌な話から帰れる場合に限って得意だった。
リトが仕切りの向こうから顔を出した。
「海の向こうへ行くの?」
「まだ決まってない」
「皆、決まってないって言うね」
「本当に決まってないから」
「決まる前なら、乗りたいって言える?」
俺はそこで少し笑った。
リトの後ろには妹がいて、兄の服の裾を持っていた。二人の靴下は片方ずつ色が違う。
向こうで持っていた服、帰ってから貰った服、今の寸法に合わせて直した服が、一人の身体の上に混じっている。
「言うのはいい。でも、まず安全な船を用意しないと」
「じゃあ、用意したら教えて」
リトは満足したように頷き、すぐに別の質問を始めた。向こうのパンはどんな形か。
魚は骨ばかりなのか。もし日付が違ったら、誕生日をもう一つ増やせるのか。
俺はほとんど分からないと答えた。
異世界について知っている者として二度目の人生を始めたはずが、この頃は子供の質問にも耐えられない。能力の査定方法を間違えた気がする。
ハルが小鍋を卓に置いた。麦を柔らかく煮たものへ刻んだ根菜が混じっている。
俺の分の器も出しかけたので、持ってきたパンを包みから出した。
「食べ物で頼みに来たみたいになるけど」
「頼みに来たんじゃないのか」
「そうなんだけど」
ハルは鼻から短く息を出した。笑ったのかもしれない。
パンを四つに分け、一番大きいものを子供たちのあいだへ置いた。
「昨日は、聞く前に使おうとした。悪かった」
俺は言った。
ハルは麦を匙ですくい、熱くていったん戻した。返事を急がない仕草だった。
俺はその間に、分かってもらうための補足を三つ思いつき、どれも言わずに飲み込んだ。
「向こうには、俺たちを探してる人がいるかもしれない」
ハルが言った。
「それは、俺だって知りたい」
俺は顔を上げた。
「じゃあ――」
「知りたいってだけで、全部渡すのか?」
早かった。
許してもらえる兆しを見つけると、すぐ元の位置へ戻ろうとする。俺の反省は、足元の土がまだ固まっていなかった。
ハルは自分の名だけなら、と言った。
今使っている綴りと、向こうにいたときに呼ばれていた綴り。その二つを照らして、呼ぶ人がいるかを聞く。
子供たちのこと、死んだ人のこと、持っていた物の細かな値は送らない。
「生きてこっちにいるって、誰かへ知らせるためならいい。俺の知らないところで家族がいたことにされるのは嫌だ」
「家族が?」
「向こうの紙がそう言ったら、お前は信じるだろ」
俺は即座に否定できなかった。
古い金属帯に出てきた文章を、俺はまだほとんど疑っていない。それを書いた相手の顔も、昼飯の好みも、嘘をつくときの癖も知らないのに。
リトが妹の器へパンを落とした。わざとではなかったらしく、二人とも一瞬固まった。
麦の中から引き上げたパンは柔らかくなり、妹は怒るべきか食べるべきか考えていた。
俺は笑いを堪え損ねた。
「帰ってきたって、こういうことだよ」
ハルが言った。
「腹が減って、洗い物があって、靴が小さくなる。お前の帳面の次の頁へ進むために、ここにいるわけじゃない」
それは胸に来たが、立派な言葉として書き留めたいとは思わなかった。その直後、ハルは麦のついた卓を拭くようリトへ言い、布の汚れを見てやり直させた。
俺は帰る前に、外の薪を運んだ。
手伝った分だけ話を聞いてもらったことにすると、また何かの貸し借りを作ってしまう。
そんな計算が浮かんだ自分にも気づき、薪を一本余計に抱えて、指を挟んだ。
*
その週、俺とエルナは帰還者の話を聞いて回った。
全員が対岸の名簿に関心を持っていると思っていたのは、俺の勘違いだった。
今の家の屋根のほうが大切な人、昔の名で探されたくない人、ただ会って話したい人がいた。
自分の生まれた土地が今どうなっているか知りたいという老人もいたが、どの地名を送るかで長く迷った。役所で呼ばれていた名と、母親が呼んだ名が違う。
その二つを一つに直してから出せば早い、と俺は思った。
エルナはどちらも紙へ置いた。
そのうえで、どちらなら知らない相手へ知らせてもよいか聞いた。
返事の出ない日もあった。俺は椅子に座り直し、窓の外を見た。
隣ではエルナが急がず紙の端を揃えている。彼女の仕事のどこが好きなのか分かっているつもりだったが、好きなものを目の前で待つのは別の能力を要した。
帰り道、俺は言った。
「少しずつでも、一度に済ませたほうが負担は少ないんじゃないかな」
「誰の?」
彼女は荷物を持ち替えた。
「私も、今日中に済ませたかったよ。明日はロスカへ戻るから」
怒っていると思っていたら、疲れている顔だった。
「今、答えたくないならまた聞くしかない。でも、毎日誰にでも同じだけ待てるわけじゃない。だから、出したい人の分からにしたい」
俺は彼女の鞄へ手を伸ばした。
エルナは半分だけ預けてきた。紙の入っていない、道具のほうだった。
「重いな」
「だから渡した」
その返事が少し嬉しく、嬉しがっている場合でもなく、俺たちは坂を上った。
*
セラの保守記録を見せてもらったのは、雨が横に降る夜だった。
家の窓が鳴り、母が隙間へ布を押し込んでいた。低い椅子にはセラが座り、片脚を前へ伸ばしている。
卓の上へ載せた古い紙は、何度も折り畳んだ部分だけ白く毛羽立っていた。
「ここは、私が直した」
セラは線の一本を指した。
「そのときは、この先がどこへ行くか、図面と合ってると思ってた。合ってなかった」
俺は指先を近づけたが、紙には触れなかった。
「返事の文字を出すところは?」
「こっち。読む帯へ入る線とは別。灯りに返事をするだけなら、触らなくていい」
彼女は迷わず言えるところと、言えないところを分けた。
言えないところのほうが、俺には重要に思えた。なぜ俺に届いたのか。
なぜ受理の日が合わないのか。俺の前世の終りと、ここでの始まりのどちらへ手を伸ばせばよいのか。
「向こうなら分かるかな」
「分かるところは、あるかもしれない」
「もう少し、はっきり――」
言ってから、自分の声の苛立ちに気づいた。
セラは椅子の上で身体を動かした。膝の横に挟んでいた布が落ち、母が拾った。
「私が全部知ってるなら、十七年もあそこにいなかったわ」
声に怒りはあった。
母の手が一瞬止まった。俺は謝った。
セラはすぐには顔を戻さず、伸ばした脚の向きを変えた。
「あなたが知りたいのは分かる。私も、何をしたのか知りたい。でも、早く安心させるための説明はできない」
俺は頷いた。
その頷きだけで済まないように、紙に二つの印を付けてよいか聞いた。セラが自分で確認した線と、図面からそう思っていた線。
彼女は考え、印の形を変えてくれと言った。
窓を直し終えた母が、椅子を少し竈へ寄せた。
「その位置だと脚が冷える」
「近すぎると暑い」
「今、寒いって言ったじゃない」
「窓が寒かったの」
二人の言い争いのあいだで、俺は紙の隅へ新しい印を書いた。昔の家族の時間を思い出せない人たちが、今の座り場所では遠慮なく揉めている。
その声を聞きながら線を引くのは、妙に落ち着いた。
記録を借りるとき、セラは自分の名の照会も入れてよいと言った。
「ただし、私のしていた仕事の番号から。家族の欄は送らないで」
俺は読み上げ、確かめた。
対岸へ送る紙は、思ったより薄い束になった。
薄いことを残念に思ったあとで、俺は初めて、紙が増えないまま進んだ話もあるのだと気づいた。




