海を見た翌朝
夜明け前に灯器の覆いを閉じると、硝子に俺の顔が浮いた。
夢と希望に目を輝かせた青年、というよりは、眠気で顔の左右が微妙に揃っていない男だった。
海を隔てた新しい世界は、俺の夜勤を免除してくれなかったらしい。
灯室の下で雑巾を絞り、窓にこびりついた塩を拭いた。布が冷たい。
指の節にできた小さな割れ目へ水が入り、遅れて痛んだ。
油の残量を確かめ、水位の棒を読み、風向きを書く。その間ずっと、頭の片側では昨夜の文句を繰り返していた。
外部受理。
生まれていない者。
南の窓を拭き終えたところで、階段を上る足音がした。エルナかと思って、俺は反射的に髪を撫でた。
入ってきたのは父だった。
「そこは濡れた手で触ると寒いぞ」
「知ってる」
「知らん顔だった」
父は布包みを机に置いた。パンと、豆を固めて焼いたものが入っている。
まだ温かく、包みを開いた途端に湯気が薄くほどけた。
「母さんが、戻らないならここで食えと」
「もう終わるよ」
「それは昨夜も聞いた」
昨夜の俺は、まだ知らない世界の住人だった。今の俺に責任を問うのは少し酷ではないかと思ったが、その理屈は他のところでも使えそうなので黙っておいた。
父は灯器の足元にしゃがみ、緩んだ留め具を締めた。俺が後でやるつもりだった箇所だ。
後でやるつもりの仕事を他人が先に済ませると、感謝より先に、自分も気づいていたのにという不満が湧く。
湧くだけなら無料なので、俺の中ではよく起きる。
「向こうから、返事が来た」
俺は昨夜の紙を父へ見せた。
父はすぐには読まず、濡れた手を自分の服で拭いた。紙の端を持ち、窓の明るいほうへ向ける。
読み終わるまで、俺は食べかけのパンを持ったまま待った。
「行くのか」
「まだ何も決まってない」
「お前の顔は決まってるな」
俺はパンを噛んだ。
母の作った豆の焼き物には、昨日の煮込みに入っていた香草が混じっていた。夜の残りを別の形にしたのだろう。
温かいものを噛むと、急に腹の底から眠くなった。
「船が要る。向こうの岸がどこなのかも、まだ正確には分からない」
「じゃあ、まず寝ろ」
「大事な話なんだけど」
「寝ずにしていい話か」
父は紙を返した。
反対しているのだと思えば、俺は少し気持ちよく言い返せた。世界の謎を知りたい息子を、古い土地の常識で縛る父。
そういう話なら俺の側に分がある。
しかし、父はただ寝ろと言っている。これでは勇ましい反抗のしようがなかった。
*
家へ戻る途中、ベルに呼び止められた。
南の果樹園を持つ女で、母へ林檎を分けてくれたことが何度もある。今日は籠を背負わず、枝を一本だけ持っていた。
「起きてる?」
「見ての通りです」
「見た通りなら、話は昼にしたほうがよさそうだけど」
彼女は笑わなかった。
枝の切り口は黒く、その周りだけ薄く湿っていた。芽が幾つか付いている。
俺は春になれば緑になる種類のものとして見たが、ベルは爪で一つを割った。
中も黒かった。
「もう駄目だって。根も見た」
海が戻ってから、低い土地の水が変わった。堤は人の家を守ったが、土の中を動くものまでは境界の線通りにならない。
「調査の人は」
「来た。紙も置いてった。私が聞きたいのは、穀物が来る日」
俺の手には、対岸からの文章があった。
この紙を見せれば、大変なことが起きたのだと分かってもらえる気がした。今は果樹園だけの話をしている場合ではない。
別の岸から、生まれていない者の――。
俺は紙を折り、内ポケットへ入れた。
「村長のところで確認します」
「今まで二人にそう言われてる」
「……確認して、僕が返事を持っていきます。今日の夕方までに」
ベルは俺の顔を見た。疑っている顔だった。
俺にはそれを不当だと思える実績がなかった。
「日時が分からないなら、分からないって言いに来て。待ってると、買う分を減らしちゃうから」
彼女は黒い枝を俺へ差し出した。
「これ、役場の人に見せて」
俺は受け取った。紙よりかさばり、ポケットへは入らない。
手に持ったまま歩くことになった。
途中で、枝のどちらを上にして持てばよいのか分からなくなった。
*
村の寄合い小屋には、朝から人が来ていた。
壁の下に積んだ薪が少し湿っている。竈から出た煙が戸を開けるたびに逆へ押され、室内の誰もが薄く目を細めていた。
村長は去年より増えた帳面を前に、同じところを二度読んでいるようだった。
俺はまずベルの枝を卓へ置いた。
「置く場所を考えろ」
「すみません」
請求書へ黒い水が落ちた。俺は慌てて端切れを探した。
英雄的な用件は、今朝どうも順番が回ってこない。
穀物の割当ては取り消されていなかった。ただ、こちらの受取りを記す紙が都市で止まり、倉から出す順に入っていないという。
「川沿いまでなら運べる。そこからこっちへ回す荷車が足りん。東道を使えた頃の約束で書かれてる」
村長は道の略図を指でなぞった。
沈んだ旧道を避けると、坂を二つ回る。荷車が重くなるほど、海のない頃より遠い。
俺は窓の向こうの水面を見た。
目の前に広い道があるのに、誰もそれを道として使えていない。
「舟なら」
「それを動かせるか」
先に聞かれた。
「動かせるようにする」
「夜番は誰がする」
「それも考える」
「では、考えたら持ってこい」
村長は俺を追い返さなかった。席を一つ空け、紙を渡した。
具体的な答えを書くための場所まで用意されると、急に面倒になった。
俺は対岸の信号を出した。
村長の顔つきが変わった。隣にいた荷運びの男も覗き込み、読めない字のほうを珍しそうに撫でた。
「二十人の帳面を写せばいいのか」
その言葉に、俺は頷きかけた。
帰還のとき作った控えがある。本人の名、向こうでの居所、家族、それから地上へ移していく支払い。
エルナが苦労して揃えたものだ。あれを一つにすれば、向こうも調べやすい。
俺は、何と書けば返事が早いかをもう考えていた。
戸口で靴の泥を落としていたハルが、入ってきた。
「誰の帳面を?」
「帰還のときの。照会のために――」
「俺は、ここへ住むために言った」
声は大きくなかった。
ハルは肩から荷を下ろし、卓の手前へ置いた。補修用の針と糸を包んだ布が見えた。
彼はこのところ、帰還者の服の直しをまとめて町へ頼む仕事をしている。
「海の向こうへ、家族のことを送るためじゃない」
「向こうにしかない記録があるかもしれないんだ」
「俺のか?」
俺は答えられなかった。
自分のものかもしれない、と思っていた。
ハルは俺の沈黙を少し待ち、濡れた袖を握った。
「あんたが知りたいことのために、俺たちの家族の話を渡すのか」
リトの叔父である彼が、向こうに残してきた家族の話を詳しくしないことは知っていた。その沈黙まで、控えの中では空欄として持ち運べてしまう。
「勝手に渡すつもりじゃ……」
言いかけて、止めた。
つもりなら、さっき確かにあった。
窓の下で誰かが薪を崩した。乾いたものと湿ったものが一緒になり、音が二種類に分かれた。
俺はそのどうでもいい違いを聞いていた。ここで何かよい返事をすれば、自分の顔を少しは保てるのではないかと考えた。
「まだ送ってない」
結局、最初に出たのはそれだった。
「送る前に言ってくれ」
ハルは答えた。
俺が紙を引き寄せるまで、彼は自分の荷を持ち上げなかった。
*
夕方、ベルの家へ行った。
少し寝たあとだったので、朝より頭は働いた。その分だけ、自分が言いかけたことを鮮明に思い出せた。
忘れる魔法というものは、こういうときに限って気軽には使えない。
穀物の到着日はまだ決まっていない。受取りの紙を出し直すこと、坂道を使う便の順を確認すること、その二つだけを話した。
「そう」
ベルは竈のそばで豆を選っていた。虫に食われたものを小さな皿へ分け、次の一掴みを広げる。
帰ってよいのか分からず立っていると、彼女が皿を一つ押した。
「手が空いてるなら、悪いのをこっち」
俺は椅子に座った。
豆には、割らなければ分からない穴もあった。説明を聞き、最初の一掴みをやり直す。
ベルは横で、海が来る前の果樹園の収穫を話し始めた。
俺を責めるためなのかと思ったが、枝ごとの出来の違いになり、採る時期を誰と揉めたかという話になった。
あの木には、金額に直す前の時間があった。
俺は悪い豆を皿へ入れた。自分の皿だけ、少し選るのが遅かった。
遠い岸の記録は、その夜も気になっていた。
目の前の仕事をしているあいだに、その欲が消えたわけではなかった。




