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忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
船を出すまでの春
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海を見た翌朝

夜明け前に灯器の覆いを閉じると、硝子に俺の顔が浮いた。


夢と希望に目を輝かせた青年、というよりは、眠気で顔の左右が微妙に揃っていない男だった。


海を隔てた新しい世界は、俺の夜勤を免除してくれなかったらしい。


灯室の下で雑巾を絞り、窓にこびりついた塩を拭いた。布が冷たい。


指の節にできた小さな割れ目へ水が入り、遅れて痛んだ。


油の残量を確かめ、水位の棒を読み、風向きを書く。その間ずっと、頭の片側では昨夜の文句を繰り返していた。


外部受理。


生まれていない者。


南の窓を拭き終えたところで、階段を上る足音がした。エルナかと思って、俺は反射的に髪を撫でた。


入ってきたのは父だった。


「そこは濡れた手で触ると寒いぞ」


「知ってる」


「知らん顔だった」


父は布包みを机に置いた。パンと、豆を固めて焼いたものが入っている。


まだ温かく、包みを開いた途端に湯気が薄くほどけた。


「母さんが、戻らないならここで食えと」


「もう終わるよ」


「それは昨夜も聞いた」


昨夜の俺は、まだ知らない世界の住人だった。今の俺に責任を問うのは少し酷ではないかと思ったが、その理屈は他のところでも使えそうなので黙っておいた。


父は灯器の足元にしゃがみ、緩んだ留め具を締めた。俺が後でやるつもりだった箇所だ。


後でやるつもりの仕事を他人が先に済ませると、感謝より先に、自分も気づいていたのにという不満が湧く。


湧くだけなら無料なので、俺の中ではよく起きる。


「向こうから、返事が来た」


俺は昨夜の紙を父へ見せた。


父はすぐには読まず、濡れた手を自分の服で拭いた。紙の端を持ち、窓の明るいほうへ向ける。


読み終わるまで、俺は食べかけのパンを持ったまま待った。


「行くのか」


「まだ何も決まってない」


「お前の顔は決まってるな」


俺はパンを噛んだ。


母の作った豆の焼き物には、昨日の煮込みに入っていた香草が混じっていた。夜の残りを別の形にしたのだろう。


温かいものを噛むと、急に腹の底から眠くなった。


「船が要る。向こうの岸がどこなのかも、まだ正確には分からない」


「じゃあ、まず寝ろ」


「大事な話なんだけど」


「寝ずにしていい話か」


父は紙を返した。


反対しているのだと思えば、俺は少し気持ちよく言い返せた。世界の謎を知りたい息子を、古い土地の常識で縛る父。


そういう話なら俺の側に分がある。


しかし、父はただ寝ろと言っている。これでは勇ましい反抗のしようがなかった。




*




家へ戻る途中、ベルに呼び止められた。


南の果樹園を持つ女で、母へ林檎を分けてくれたことが何度もある。今日は籠を背負わず、枝を一本だけ持っていた。


「起きてる?」


「見ての通りです」


「見た通りなら、話は昼にしたほうがよさそうだけど」


彼女は笑わなかった。


枝の切り口は黒く、その周りだけ薄く湿っていた。芽が幾つか付いている。


俺は春になれば緑になる種類のものとして見たが、ベルは爪で一つを割った。


中も黒かった。


「もう駄目だって。根も見た」


海が戻ってから、低い土地の水が変わった。堤は人の家を守ったが、土の中を動くものまでは境界の線通りにならない。


「調査の人は」


「来た。紙も置いてった。私が聞きたいのは、穀物が来る日」


俺の手には、対岸からの文章があった。


この紙を見せれば、大変なことが起きたのだと分かってもらえる気がした。今は果樹園だけの話をしている場合ではない。


別の岸から、生まれていない者の――。


俺は紙を折り、内ポケットへ入れた。


「村長のところで確認します」


「今まで二人にそう言われてる」


「……確認して、僕が返事を持っていきます。今日の夕方までに」


ベルは俺の顔を見た。疑っている顔だった。


俺にはそれを不当だと思える実績がなかった。


「日時が分からないなら、分からないって言いに来て。待ってると、買う分を減らしちゃうから」


彼女は黒い枝を俺へ差し出した。


「これ、役場の人に見せて」


俺は受け取った。紙よりかさばり、ポケットへは入らない。


手に持ったまま歩くことになった。


途中で、枝のどちらを上にして持てばよいのか分からなくなった。




*




村の寄合い小屋には、朝から人が来ていた。


壁の下に積んだ薪が少し湿っている。竈から出た煙が戸を開けるたびに逆へ押され、室内の誰もが薄く目を細めていた。


村長は去年より増えた帳面を前に、同じところを二度読んでいるようだった。


俺はまずベルの枝を卓へ置いた。


「置く場所を考えろ」


「すみません」


請求書へ黒い水が落ちた。俺は慌てて端切れを探した。


英雄的な用件は、今朝どうも順番が回ってこない。


穀物の割当ては取り消されていなかった。ただ、こちらの受取りを記す紙が都市で止まり、倉から出す順に入っていないという。


「川沿いまでなら運べる。そこからこっちへ回す荷車が足りん。東道を使えた頃の約束で書かれてる」


村長は道の略図を指でなぞった。


沈んだ旧道を避けると、坂を二つ回る。荷車が重くなるほど、海のない頃より遠い。


俺は窓の向こうの水面を見た。


目の前に広い道があるのに、誰もそれを道として使えていない。


「舟なら」


「それを動かせるか」


先に聞かれた。


「動かせるようにする」


「夜番は誰がする」


「それも考える」


「では、考えたら持ってこい」


村長は俺を追い返さなかった。席を一つ空け、紙を渡した。


具体的な答えを書くための場所まで用意されると、急に面倒になった。


俺は対岸の信号を出した。


村長の顔つきが変わった。隣にいた荷運びの男も覗き込み、読めない字のほうを珍しそうに撫でた。


「二十人の帳面を写せばいいのか」


その言葉に、俺は頷きかけた。


帰還のとき作った控えがある。本人の名、向こうでの居所、家族、それから地上へ移していく支払い。


エルナが苦労して揃えたものだ。あれを一つにすれば、向こうも調べやすい。


俺は、何と書けば返事が早いかをもう考えていた。


戸口で靴の泥を落としていたハルが、入ってきた。


「誰の帳面を?」


「帰還のときの。照会のために――」


「俺は、ここへ住むために言った」


声は大きくなかった。


ハルは肩から荷を下ろし、卓の手前へ置いた。補修用の針と糸を包んだ布が見えた。


彼はこのところ、帰還者の服の直しをまとめて町へ頼む仕事をしている。


「海の向こうへ、家族のことを送るためじゃない」


「向こうにしかない記録があるかもしれないんだ」


「俺のか?」


俺は答えられなかった。


自分のものかもしれない、と思っていた。


ハルは俺の沈黙を少し待ち、濡れた袖を握った。


「あんたが知りたいことのために、俺たちの家族の話を渡すのか」


リトの叔父である彼が、向こうに残してきた家族の話を詳しくしないことは知っていた。その沈黙まで、控えの中では空欄として持ち運べてしまう。


「勝手に渡すつもりじゃ……」


言いかけて、止めた。


つもりなら、さっき確かにあった。


窓の下で誰かが薪を崩した。乾いたものと湿ったものが一緒になり、音が二種類に分かれた。


俺はそのどうでもいい違いを聞いていた。ここで何かよい返事をすれば、自分の顔を少しは保てるのではないかと考えた。


「まだ送ってない」


結局、最初に出たのはそれだった。


「送る前に言ってくれ」


ハルは答えた。


俺が紙を引き寄せるまで、彼は自分の荷を持ち上げなかった。




*




夕方、ベルの家へ行った。


少し寝たあとだったので、朝より頭は働いた。その分だけ、自分が言いかけたことを鮮明に思い出せた。


忘れる魔法というものは、こういうときに限って気軽には使えない。


穀物の到着日はまだ決まっていない。受取りの紙を出し直すこと、坂道を使う便の順を確認すること、その二つだけを話した。


「そう」


ベルは竈のそばで豆を選っていた。虫に食われたものを小さな皿へ分け、次の一掴みを広げる。


帰ってよいのか分からず立っていると、彼女が皿を一つ押した。


「手が空いてるなら、悪いのをこっち」


俺は椅子に座った。


豆には、割らなければ分からない穴もあった。説明を聞き、最初の一掴みをやり直す。


ベルは横で、海が来る前の果樹園の収穫を話し始めた。


俺を責めるためなのかと思ったが、枝ごとの出来の違いになり、採る時期を誰と揉めたかという話になった。


あの木には、金額に直す前の時間があった。


俺は悪い豆を皿へ入れた。自分の皿だけ、少し選るのが遅かった。


遠い岸の記録は、その夜も気になっていた。


目の前の仕事をしているあいだに、その欲が消えたわけではなかった。

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