返事の値段
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完結までの構想はありますが、皆様のご意見を支えに作品を作り上げていく方針です。
海の向こうから届いた最初の手紙には、切手がなかった。
そのことに気づいたのは、俺が三度も同じ文章を読み返したあとだった。
夜の灯室には冷えた油と濡れた毛織物の匂いがこもり、窓の外を吹く風が、ときどき細い笛の音を立てた。
『こちらには、そちらでまだ生まれていない者の記録がある』
古い金属帯に浮いた字は、光の加減で深さを変えた。爪で触ればただの平たい面なのに、横から見ると小さな溝がある。
読み終えた文字を裏へ追いやるように、帯の端から徐々に色が薄くなっていた。
「もう一枚、写しておくね」
エルナは新しい紙を膝に載せた。
左耳の上の髪が跳ねている。さっき、窓枠へ頭をぶつけたときに乱れたらしかった。
本人は気づいていない。俺はその髪を直してやりたいと思い、今は指摘するだけのほうがよいだろうかと迷っているうちに、彼女が紙を押さえた。
「持ってて。風」
俺の手には、それより明確な仕事が与えられた。
机に戻した飲み物は、もう温かくなかった。俺たちが夕食を一緒に食べたことも、残った料理を明日の昼に回すと話したことも、ついさっきのはずなのに遠い。
窓の向こうで明滅した別の灯台が、その間へ一つの国を挟んでしまったようだった。
まだ生まれていない者。
俺は自分の名前を、その言葉の隣へ置いてみた。
日本で三十一年を生きて、この世界で十九年。足したところで立派な大人になれるわけではないことは、自分自身が身をもって証明している。
それでも、二つの人生のあいだに何があったのか知りたいと思うくらいの権利はあるはずだった。
権利、という便利な言葉が出てきた。
俺の中では大抵、欲しいものを買う理由より先に、買ってよい理由が育つ。
「明日の朝、皆に見せよう」
俺が言うと、エルナは字を写す手を止めずに頷いた。
「セラさんにも。向こうの人が使った言葉、同じ意味かどうか聞きたい」
「本人の記録があれば、もっと分かるかもしれない」
「誰の?」
「……僕とか」
エルナはそこで顔を上げた。
問い詰める目ではなかった。むしろ、その答えを待っていたように見えたので、俺は自分の浅いところへ明かりを差し込まれた気がした。
「知りたいんだね」
「うん」
「私も、あの番号は気になる」
彼女はそう言って、受け取った二行の下に、見えた時刻と天気を書いた。自分の知りたいことを、俺の欲と同じ机へ置いてくれた。
そのことが嬉しかった。
嬉しいついでに、二人で海を渡るところまで想像した。
知らない港。知らない言葉。
宿の小さな窓。向こうでは俺のことを誰も知らないから、多少は出来のよい男として振る舞えるかもしれない。
エルナが隣にいる以上、その試みは初日の夕食くらいで終わりそうだが。
受信環が、もう一度鳴った。
俺は止め目へ目をやった。閉じている。
湾を無理に保持していた古い流れも、出生点へ繋がっていた危うい道も開けていない。向こうが送りつける短い文字だけが、別の細い線を通って来ていた。
金属帯の空いた部分に、次の文が浮いた。
『照合のため、帰還者の氏名、旧居、留置時の番号を求む。外部受理に関する申告があれば併記されたし』
俺は息を止めた。
向こうには、調べる方法がある。
そのときの俺には、二十人分の名前が鍵束に見えた。
誰の家の鍵なのかは、まだ考えていなかった。




