明日へ返す灯
冬の入り口に、灯台の灯器が新しくなった。
古い装置の全部を動かす必要はもうなかった。
湾に船が出る日は、油の灯りを硝子で集めて回す。
海を海として保つための強制的な保持は切られ、土地と水は、それぞれの重さでそこにある。
境の揺れを調べるときだけ、小さな記憶の封片を使った。
その代償を、仕事の記録から隠さないことにした。
海が戻っても、世界が優しくなったわけではなかった。
塩で駄目になった果樹があり、補償の穀物が届くのが遅れ、帰還者を余所者と呼ぶ声もあった。
市の記録院ではベレスの責任を調べる手続が続いていた。
彼が全ての悪事を背負って消えればよいという話にはならず、彼の上に署名した人間と、署名しないで利益を受けた者の記録も開かれた。
俺は時々、自分までまた呼ばれるのかと怖くなった。
呼ばれれば行く。
そう決めることと、怖くないことは別だった。
家ではセラが窓の隙間に文句を言い、母と洗濯のやり方で揉めた。
十七年ぶりの姉妹は、思ったより早く喧嘩を始めた。
母は喧嘩のあとで泣き、妹は泣かれると怒りにくいと言って困った。
二人の新しい関係は、美しいだけのものにはならなかった。
五脚目の椅子は、もう空いていなかった。
だが誰が座るか決まったことで、逆に自由になった。
セラが出かけているときは、荷物を置ける。
本人に聞けば、足台にもできる。
そこに座る人の意見を確かめられることが、こんなに普通で、こんなに大きな変化だとは思わなかった。
その夜、俺は灯室で当番に就いていた。
机には二冊の帳面があった。
一冊は今日の水位と風向き。
もう一冊は個人的な日記だった。
エルナとの夕食で、俺が料理の量を多く見積もりすぎたことを書いた。
彼女は残りを翌日の昼に食べようと言った。
何でも一夜で使い切る必要はない。
日記の最初のほうには、強い筆圧の一文が残っていた。
『この女を忘れるな。お前はこの人を愛している』
俺はその下に、新しい日付で書き足した。
『命令はできない。でも、今日も会いたかった』
過去の俺と今の俺が、それで和解したわけではない。
俺はいまだに、勝手なことをしやがって、と思う。
前の俺も、今の俺が何を失い何を選ぶか知れば、文句を言うだろう。
全員が同じ意見でなくても、一人分の人生は続いてしまう。
戸が開き、エルナが温かい飲み物を持って入ってきた。
今夜は仕事をしないつもりだったのに、古い番号が気になったという。
彼女らしいと思った。
その感想を、俺は自分で得た。
「お父さん、今日私の名前を呼んだ」
彼女は言った。
「思い出した?」
「分からない。机の札を読んだだけかもしれない」
彼女は器を置いた。
「でも、嬉しかった」
俺は頷いた。
どちらかを決めなければ喜んではいけない、ということはなかった。
海の向こうで、光が点いた。
最初は星が水面に映ったのだと思った。
だが雲は低く、光は同じ場所で三度続けて瞬いた。
消え、長く間を置き、二度点いた。
俺は器を置いた。
エルナも窓へ来た。
「あれ、船?」
「分からない」
俺たちは黙って数えた。
三度、間、二度。
繰り返された光の下に、細い影があった。
塔に見えた。
ここから見えるはずのない距離に、白いものが立っていた。
机の上で、古い受信環が小さく鳴った。
エルナが記録を取り、俺は父に教わった止め目が閉じていることを確認した。
勝手に触れなかった。
灯りだけを受けた。
金属帯に、知らない文字が少しずつ浮いた。
その脇に、かろうじて読める古い共通字があった。
『第七岸、復灯を確認。帰還者名簿を照会したい』
俺たちの湾を指す番号らしい。
第七、という数を、エルナが声に出した。
その下に、さらに一行があった。
『こちらには、そちらでまだ生まれていない者の記録がある』
俺は長いあいだ文字を見ていた。
海の向こうに世界があることは、想像していた。
別の灯台、別の人々、別の歴史。
だが彼らもまた、自分の地図の外にいる誰かを待っているのかもしれなかった。
エルナが新しい紙を出した。
「返事、どうする?」
俺は遠い光を見た。
すぐに行きたいという欲が湧いた。
知りたい。
自分の前世のことも、この世界のことも。
知らない人に少し賢く見られたい気持ちさえ、残っていた。
それから、下の家を見た。
父母と姉と叔母が眠り、明日の鍋が台所にある。
返す金と、修理する窓と、約束した食事がある。
「まず、名乗ろう。それから、勝手には迎えに来るなって」
エルナが笑った。
「こっちも勝手に行かない?」
「相談してから行く」
「今の、書くよ」
「書いてくれ」
俺は灯器の覆いを動かした。
決められた短い応答を、三度。
古い魔術を開かなくても、届く光はあった。
海の風が窓を鳴らした。
明日の天気は、まだ分からなかった。
俺は帳面の空いている頁を開いた。




