波の届く場所
海は、歓声を待たずに戻ってきた。
最初に音があった。
低い水音が地面の下から上がり、次に風が変わった。
乾いた畑の匂いに、濡れた岩と塩の匂いが混じった。
遠くに押し込まれていた水面が横へ広がり、森の手前だったはずの場所に長い入り江が現れた。
波が水路へ入り、石を叩いた。
一番低い堤が崩れた。
泥水が旧東道を走り、空になった家の庭へ流れた。
父が鐘を鳴らした。
見物のために高台から下りかけていた者たちが、慌てて戻った。
俺は灯室の窓からそれを見た。
美しい、と最初に言える景色ではなかった。
代わりの堤で水が止まった。
流れは計画より広く、しかし人のいる場所までは届かなかった。
トマの水車小屋は無事だった。
アニの古い蜂場は沈んだ。
三軒のうち一軒の外壁が倒れ、白い石が波の中へ崩れた。
俺はその音を聞き、帳面へ書かなければと思った。
帰還の成功だけを書けば、別の誰かの損失がまた消えてしまう。
エルナが隣に立った。
「これが、海?」
俺は頷いた。
彼女は長く見ていた。
風に髪が揺れた。
記憶のない俺にも、それが今の彼女の初めてであることは分かった。
「大きいね」
「うん」
「これが全部、塩水なの」
「少なくとも、僕の知ってた海は」
彼女は俺を見た。
俺が少し前ならしなかった答えだという顔をした。
俺たちの前に戻ったのは、ひと続きの湾だった。
その外に何があるかは分からなかった。
水の向こうに霞があり、さらに先で光が動いていた。
世界全ての謎が解けたわけではない。
この岸から見えなくなっていたものが、ようやく一つ、見えるようになっただけだった。
塔を下りると、帰還者たちが小屋の前に集まっていた。
少女が空を見上げ、首が痛いと言っていた。
高いものを見続ける経験がなかったのだ。
老人は横になったまま、風が強すぎると文句を言った。
ハルは荷物を数え、二つ足りないと言った。
二十人全員がいた。
全員が、何かを失っていた。
持ってこられなかった鍋、育てた畑、死者を埋めた場所。
セラは小さな布包みを開き、向こう側の墓から持ってきた土を見せた。
「お墓ごとは無理だった」
母が隣に座った。
「こっちに、置く場所を作ろう」
妹は頷いた。
それから、少し一人にしてほしいと言った。
母は離れた。
持ってきた水の器だけを妹の手の届くところへ置き、呼ばれて振り返れるほどの距離に腰を下ろした。
夜、俺は家の食卓で眠りかけた。
父、母、ミア、俺、セラ。
五つの器が並んでいた。
エルナはミアから借りた小さな卓を継ぎ足し、その端に座った。
椅子が足りず、トマが運んできた腰掛けを使った。
母は盛りつけながら、誰にどれくらい必要かを聞いた。
セラは少なめに、と思ってから、多めに変えた。
久しぶりに十分な粉があるのだから、と笑った。
父は彼女の椅子へ目をやった。
低い座面に、きちんと身体が収まっていた。
「窓から寒くないか」
「少し。昔も寒かった」
父は立ち、窓の隙間へ布を詰めた。
昔もそうしたかどうかは、誰も確かめなかった。
俺は、全員を見ていた。
家族の欠けた記憶は戻っていない。
母は妹の好物を知らず、父は彼女が前にこの家で転んだ話を初めて聞いたように笑った。
セラはその笑い方を知っていたのだろう。
少し泣き、笑い続けた。
俺にも失ったものがあった。
父の肩から見た麦畑は、もう頭の中に立ち上がらなかった。
だが向かいに父がいて、背を丸めて硬いパンを割っていた。
その姿を、今日新しく見た。
ミアが俺の皿へ肉を置いた。
「寝る前に食べて」
「子供じゃない」
「じゃ、自分で食べて」
もっともだった。
俺は匙を持った。
*
戻った人たちの名前を、村の帳面へ移す日が来た。
広場の仮小屋に卓を置き、エルナが一人ずつ話を聞いた。
本人の言う名をそのまま書き、地上の綴りと違う場合は別の欄へ添えた。
言いにくいから短くしようとする役人に、ハルがむっとした顔をした。
「そっちが覚えればいい」
彼は言った。
エルナは頷き、名前をもう一度発音してもらった。
あの桶を落とした少年は、リトと名乗った。
向こうで生まれたため、地上の暦では誕生日が分からなかった。
セラたちは光の膜の周期と、地上から漏れてくる季節の気配で日を数えていたが、常に正確ではなかったらしい。
役人は年だけ決めればよいと言った。
少年は不満そうだった。
「誕生日はあるよ。知ってるよ」
「こちらの暦での日付が要るんだ」
「こっちに来たら、なくなるの?」
役人は言葉に詰まった。
エルナは二つ書いた。
向こうで祝っていた日と、こちらの暦に換算した推定日。
推定のほうには、確定していない、と添えた。
「どっちで祝う?」
リトに聞くと、彼は真剣に考えた。
「両方だと、食べ物が二回ある?」
俺はその発想を高く評価した。
エルナは親代わりのセラに聞いて、と答えた。
同じ午後、記憶を提供した農夫が、使った分の確認に来た。
彼は去年の収穫後に皆で酒を飲んだ一晩を出していた。
思い出しても後悔ばかりする喧嘩があったから、ちょうどよいと思ったという。
だが今になって、その晩に息子が家を継ぐと言ったことまで遠くなったと気づいた。
「別のところまで持っていかれたのか」
声には怒りがあった。
オルネが説明の控えを出そうとした。
俺は、それを先に出してしまえば会話が終わる気がして、椅子を引いた。
「どこが、思い出しにくいですか」
農夫は座った。
何があったかは言える。
息子も同じ話をしている。
それなのに、嬉しかったという感じが出てこない。
喧嘩だけを忘れるつもりだったのに、なぜそこまで、と彼は繰り返した。
俺たちは本人の言葉で損失を記録した。
術に入る前の見積りでは、同じ一晩に繋がる場面まで含むことを説明していた。
だが説明を受けた人が、実際に何を失うかを十分に想像できるとは限らない。
署名があるから痛みまで片づくわけではなかった。
「返せないのか」
農夫が聞いた。
「使った部分は、返せません」
俺は答えた。
答えるのは嫌だった。
男は長いあいだ卓を見つめ、それから息子へ自分から聞き直すと言った。
役所には、見積りより損失が広がったという申立てを残した。
補償の追加が認められるかは、別の立会人が判断する。
俺が自分の仕事を自分で無罪にしないように。
その日の最後、エルナは申込みの説明文を書き直した。
『嫌な出来事だけが独立して消えるとは限りません。同じ日にあった喜びも、一緒に遠くなる場合があります』
俺は横から読み、頷いた。
これで全部伝わるとは思わなかった。
それでも、昨日よりは一つ具体的だった。
トマは、俺が水車で話した記憶を失ったと知り、しばらく黙った。
「また同じことで妬むのかよ」
「可能性はある」
「正直すぎても困る」
二人で水車の音を聞いた。
海の影響で下流の水位が変わったため、新しい調整が必要だった。
トマは俺に材を渡し、ここを持って、と言った。
「あの日、何を言ったか教えてくれる?」
俺が聞くと、彼は首を振った。
「手紙には書ける。でも、今はこれを持ってて。ずれる」
俺は言われた通りにした。
彼の友人としてやるべきことは、必ずしも過去を聞き直すことではなかった。
材を押さえ、釘が入るのを待つ。
その間に、トマはアニに怒られた話をした。
結婚前に道具の置き場所を変えすぎたらしい。
俺は笑った。
彼も笑った。
その日の記憶は、新しくそこにできた。




