言わなかったほうの人生
前世のことをエルナへ話したのは、灯台の試験運転の前夜だった。
彼女は灯室で記録を整理していた。
夕陽が紙を斜めに照らし、薄い字を読みにくくしていた。
俺が入ると、机の上に一人分の空き場所を作った。
「少し、話していい?」
「うん」
俺は日本のことを話した。
水の向こうにも国があり、道に硬い黒いものを敷き、夜は人の記憶を使わずに灯りがつく。
遠くの相手へ声を送る道具があり、俺はその道具を持ちながら母の声を聞かなかった。
エルナは途中で質問した。
何を食べたのか。
両親はどんな人だったのか。
何の仕事をしたのか。
魔法のない世界の偉大さより、俺がそこでどう暮らしたのかを知りたがった。
俺はうまく答えられなかった。
失った記憶が多いからだけではない。
人に話せるような人生ではなかったと思っていたからだ。
「僕は、役に立つ知識を持ってきたと思った。この世界なら、上手くやれるって」
「そう思ってたんだろうね」
彼女は驚かなかった。
「ここで生まれた人より、最初から偉い気がしてた?」
「たぶん」
俺は認めた。
言葉にすると、ずいぶん嫌な人間だった。
「でも、あっちで何もできなかったことは、言いたくなかった」
エルナは筆を置いた。
「前のノアには、聞いたことがなかった。知識の話はしたけど、お母さんに返事をしなかった話はしなかった」
俺は彼女を見た。
以前の俺を知る人が、今の俺にも知らないことを教えていた。
「私に嫌われたくなかったんだと思う」
「今もそうだよ」
「うん。でも話した」
その評価を褒美のように受け取るのは違う気がした。
俺は自分の手を見た。
「もし、ここに来たのが僕自身じゃなくて、僕の記憶だけだったら」
「分からない」
エルナはすぐ答えた。
「でも、私のお父さんを雨の中から連れて帰ったのは、ここのあなた。それをした人まで、あっちに置いていかなくていい」
俺は目を閉じた。
覚えている出来事だった。
ロイを抱え、濡れた外套を干した。
そこにいたエルナの顔はない。
だが、彼女の語るその夜と俺の知るその夜は、別の方向から同じ場所へ届いていた。
俺は前世の両親へ、手紙を書いた。
届ける道はない。
だから書く意味がないと長く思っていた。
意味がなければしなくていい、という考え方で、俺は多くのことをしないまま生きてきた。
紙の最初に父さん、母さん、と書き、しばらく止まった。
日本語の字がいくつも思い出せなかった。
読めるはずの漢字が形にならず、俺は平仮名を混ぜた。
三十一歳だったことを書いた。
電話に出なかったこと、別にと返したこと、海で助けてくれた若い二人のこと。
別の世界で家族に助けられていることは、言い訳になりそうだった。
それでも書いた。
今の家族がいるから前の家族を失ってもよかった、とは書かなかった。
そんな交換は、誰も承諾していない。
何度か涙が落ち、紙の繊維が膨らんだ。
エルナは読めない字の手紙を見ようとせず、灯りの位置だけを直した。
書き終えると、俺は折って封筒へ入れた。
帳面に挟み、持ち歩くことにした。
燃やせば届くという話を、この世界では信じたくなかった。
灯室を出る前に、エルナが言った。
「あなたが私を忘れると決めたこと、まだ怒ってる」
俺は頷いた。
「助かったのは嬉しい。生きていたかった。だから、してほしくなかったって簡単には言えない。それでも、私が戻ったら二人で何とかできるかもって、少しだけ思ってた」
彼女は窓の黒い縁に触れた。
「私は、あなたに覚えていてほしかった」
返せる言葉はなかった。
ありがとうと言えば違う。
ごめんと言えば、また過去の自分の代理になる気がした。
「今の僕が聞いても、変えられないね」
「変えられない。でも聞いてほしかった」
俺はそこにいた。
彼女が話し終えるまで。
話し終えたあとも、少し。
階段を下りるとき、彼女が先に手を出した。
俺は取った。
以前と同じ繋ぎ方かどうかは、知らなかった。




