↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
明日へ返す灯
PR
21/196

海の下に家がある

灯台の階段は、下へ向かっても螺旋だった。


子供の頃に何度も上った建物の地下へ、初めて足を入れた。


壁は乾き、足元の石だけが濡れていた。


風は下から吹いた。


森の湿気とは違う、金属に似た生臭い匂いがした。


俺、エルナ、父、ダナの四人で降りた。


オルネは村に残り、地上の変化を記録した。


父が先を歩き、継ぎ目を棒で叩いた。


昔は俺が勝手に走って、父が後ろから呼んでいた。


今回は、父の足跡を踏むようにした。


下りきった先に、狭い室があった。


壁に六つの輪があり、うち五つには縄の切れ端が下がっていた。


正面の扉には、内側から叩いたような跡があった。


扉自体は開いていた。


その向こうは、夕暮れだった。


地上ではまだ午前だった。


俺たちは足を止めた。


時間まで違うのかと思ったが、ダナが先に顔を出し、上を指した。


「天井がある。空じゃない」


薄暗い光を放つ膜が遠くの上方を覆っていた。


夕焼けに似た色は、その膜を通った日光だった。


広い窪地に、水と建物があった。


家々は石の段に沿って並び、その間を人が歩いている。


小さな畑、洗濯物、竈から出る煙。


海から切り離された岸の一部が、そこに生き残っていた。


俺は走り出しそうになった。


父が肩を押さえた。


道は繋がって見えるだけかもしれない。


ダナが縄の端を持って進み、距離を確かめた。


一歩ずつ、こちらの縄が向こうへ続いていることを確認してから、俺たちは歩いた。


最初に会ったのは、桶を持った少年だった。


俺たちを見ると、驚いて桶を落とした。


次に怒った。


「昨日も来るって言ったのに!」


誰かと間違えていた。


少年は俺たちの顔を見直し、口を閉じた。


家の戸が開き、女が出てきた。


四十歳くらいに見えた。


髪を後ろで束ね、片足を少し引いている。


前掛けの裾に粉がついていた。


彼女は父を見るなり動きを止めた。


俺の顔を見て、次に俺の手を見た。


「カイル?」


父は返事が遅れた。


その名を呼ぶ声音を知らないためだった。


「セラさん、ですか」


女の唇が少し開いた。


長く待っていたことと、待っていなかった言い方が、同時にそこへ届いたようだった。


「さん、なんて」


女は笑った。


笑いきる前に息を吸い直した。


「いいの。無理しないで。そういう仕組みだものね」


俺は女を見つめていた。


髪の長さも、年齢も違った。


だが目の形と、笑い方の途中で泣きそうになる表情は知っていた。


灰色の海の上、白い塔の窓にいた女だった。


俺は彼女に聞いた。


「灯台で、誰かへ呼びかけたことがありますか」


セラは俺を見た。


「あるわ。何度も」


「今度は、忘れないでって」


彼女の手から布が落ちた。


家の中には、五人の暮らす気配があった。


少年と、その妹。


老人が一人。


セラと、奥で粉を練っていた若い男。


セラは、ほかの四人とは血が繋がっていないという。


事故で残った者と、その後ここで生まれた者が、食べ物と仕事を分けていた。


名簿の十九人から二人が亡くなり、三人が生まれた。


今は二十人。


彼らには十七年があった。


俺たちが謎として扱ってきた時間は、彼らには毎日の食事と喧嘩と病気と葬式だった。


少年は俺たちが話す横で、壊れた桶の取っ手に文句を言っていた。


帰還の劇的な場面にも、水汲みは必要だった。


「でも、名前まで忘れるのは変じゃないか」


俺はセラに聞いた。


「普通の魔法なら、何があったか知識は残る。母さんたちは、あなたがいたことも知らなかった」


彼女は頷き、卓上に落ちた粉を指で集めた。


「普通の術は、道を燃やしても行き先の札が残る。あの切断は、行き先をこちらの暮らしから外すものだった。私へ辿り着くための名前や役目まで、道として使ったの」


セラは粉に小さな輪を描き、二本の線で繋いだ。


片方だけを指で消した。


「姉さんに妹がいたことと、その妹が私であることを繋げられない。知っているつもりの家族の人数で、空いたところを埋める。全ての文字が消えたわけじゃないから、紙を見つければ知り直せる。でも、体験として帰れるわけじゃない」


俺は、何処に穴があるか分からないまま暮らしてきた両親を考えた。


俺の一歳までの記憶にも、彼女がいたはずだった。


そこが消えたことにすら気づかず、最初から四人だったと説明していた。


「海も、そうやって?」


「似た切り方だと思う。でも私は、海があった頃に生まれてない。分かるのは、ここに残った設備が同じ形だということだけ」


彼女は粉の輪を拭いた。


それから布を見て、食べ物で説明するのはよくないね、と小さく笑った。


ここで粉を無駄にしない暮らしを、長くしてきた笑い方だった。


セラは父を奥の椅子へ座らせた。


自分は低い腰掛けに座った。


傷めた左足が高い椅子ではつらいのだと、その動作だけで分かった。


「リナは」


「元気だ。お前に会いたがってる」


父は、今度はさんをつけなかった。


わざと親しげにしたのではない。


名前の呼び方を一つ選び直したようだった。


セラは頷いた。


泣かなかった。


母が生きていることを確かめるまで、泣く余裕がなかったのかもしれない。


「この人がノア?」


俺が頷くと、彼女は目を細めた。


「よく私の髪を握った。離そうとすると怒ってね」


「すみません」


「そこは謝らなくていいのよ」


エルナが隣で視線を下げた。


彼女の言ったことと同じだったらしい、と俺は日記の頁を思い出した。


日記から思い出すという妙な順番で、また俺の人生に薄い継ぎ目が増えた。


救難の記録は、奥の部屋にあった。


セラは錆びた箱を開け、短い金属帯を取り出した。


呼びかけを封じたものだという。


ここへ閉じ込められたあとも、灯台の外向きの回路だけは断続的に使えた。


最初の信号は戻るたび途中で擦り切れ、人の声が向こうへ残らなかった。


彼女は同じ言葉を繰り返し、次には残るよう祈った。


「今度は、っていうのは、その意味?」


「ええ。誰かが私たちを覚えてくれれば、居場所になると思った」


俺は椅子の背に手を置いた。


ずっと、自分にだけ向けられた言葉だと思っていた。


前の人生から約束していた相手か、俺を選んだ存在なのだと。


そういう物語なら、俺には最初から特別な価値があったことになる。


実際の彼女は、誰かに届いてほしくて呼び続けていた。


その誰かに、たまたま俺が含まれた。


だが、日付が合わなかった。


彼女がここへ残されたのは、俺がこの世界に生まれたあとだった。


セラは記録のもう一枚を見せた。


最初の応答は灯台の受信庫を経由し、出発時刻と到着時刻が一致していなかった。


こちらの暦を当てても合わない。


中には、彼女が呼びかけるより前の日付で受理された記録さえあった。


「私にも理由は分からない。古い設備は、場所の違いだけを渡っているんじゃないのかもしれない」


彼女は言った。


それは答えではなかった。


だが、分からないところに神の名前を置くよりは、俺にとって誠実だった。


受理番号の横に、波形に似た傷があった。


右から順に線が途切れ、三度目に全体が消えている。


セラは、それが受信者の身体との結びつきが弱まる記録だと説明した。


俺は右の小指を見た。


海へ行く前からの痺れに、似ていた。


けれど、似ていることと原因であることは違う。


医者にも見せなかった前の身体が、何で死んだかを今さら断定できるはずがなかった。


「あなたが、人を死なせたんですか」


聞いてから、声が怒っていることに気づいた。


セラは逃げなかった。


「助けるつもりで受け止めた信号が、相手を傷つけた可能性はある。そう書いた報告も残ってる。だから私は途中で、自動受信を止めた。あなたについて何が先だったかは、ここにある記録だけでは分からない」


俺は、彼女を恨めば前世の終わりを簡単に説明できると思った。


病院に行かなかったことも、母の電話に出なかったことも、灯台のせいにできる。


だがそれは、また同じ逃げ道だった。


「僕の記憶を作ったんですか」


「いいえ。少なくとも、この受信庫にその機能はない。届いた体験を保ち、繋がる先へ渡す。どんな人の何が届くかは、私には選べなかった」


帳面には、保全、出生点接続、という古い用語があった。


ノアの生まれた日の受理欄には、外部体験群を保持、と記されていた。


切り離された記憶を人へ預ける術の、はるかに大きなものに見えた。


俺の前世は、ここで作られた架空の物語だという証拠にはならなかった。


同時に、記憶が繋がったことだけで、以前の俺と今の俺が何処まで同じなのか説明できるわけでもなかった。


俺は自分の両手を見た。


今まで握ってきた手、壊したもの、運んだ荷。


それらは確かに、この身体でしてきたことだった。


「僕の母さんたちは、日本のほうの――あの人たちは」


言葉が続かなかった。


セラは首を振った。


「今も連絡ができる道は、ここにはない。戻せるとは言えない」


俺は頷いた。


泣くのはもっと劇的な答えを聞いたときだと思っていた。


だが、何も分からないまま両親に会えないという事実のほうが、胸に長く残った。


エルナが水を置いた。


手を握る代わりに、器の位置を俺の近くへ直した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。