母はそんなことを言わなかった
村へ帰る荷を作ったのは、春の終わりだった。
都市の事故で境の一部が開き、アルヴェイン灯台にも変化が出ていた。
父から、地下の階段に風が通るようになったという手紙が来た。
セラの記録を携え、再び調査することになった。
エルナは同行すると言った。
俺は安心し、その安心を顔に出してよいか迷った。
「仕事だからね」
「分かってる」
また同じ返事をしてしまった。
彼女は今度は小さく息を吐いただけだった。
ロイはタヴィの家で日中を過ごすことになった。
ユルが朝夕に送迎し、夜はオルネが同じ建物にいた。
オルネが村へ来る日には、ユルが工房に泊まる段取りもつけた。
エルナは細かい手順を紙に書き、ロイが母の帰りを待つときに使う言葉も記した。
最後の一行を消して、もう一度書いた。
「任せるのが、一番苦手だね」とタヴィが言った。
「心配で」
「心配のある人が出かけられないなら、誰も遠くへ行けないよ」
エルナは返事をせず、父の袖口を直した。
ロイは彼女に、道中お気をつけて、と言った。
娘を見送る父の言い方ではなかった。
けれど、その言葉を彼女は受け取った。
村の匂いは変わっていなかった。
湿った土、薪の煙、家畜の藁。
俺はそれらを知っていることにほっとした。
いずれも失っているかもしれないと、道中ずっと怖かったのだ。
ミアが門の前まで迎えに来た。
二十二歳になった姉は、母の仕事を手伝いながら怪我人の縫合を覚えたという。
俺を見るなり抱きついたので、荷が肩へ食い込んだ。
「細くなった?」
「背が伸びたんだよ」
「顔はあんまり変わらないね」
手厳しさも変わっていなかった。
父は家の戸口に立っていた。
以前より髪に白いものが増えた。
抱き合うのは気恥ずかしく、俺たちは肩を掴んで済ませた。
母はその後ろから、二人とも入って、鍋が煮えすぎる、と言った。
出迎えの感動より昼食の具合が優先される家で、俺は育ったのだった。
食卓の五脚目には、エルナが座らなかった。
父が別の椅子を用意した。
窓際の一脚には、背の割れ目に新しい木片が入っていた。
直したところを隠さず、明るい色のまま残していた。
煮込みを食べると、懐かしい味がした。
俺が子供の頃に作ったものだ、と言うと、母は頷いた。
「最初はちゃんとできなかったけどね」
「そうだっけ。母さんがすごく褒めてくれたのは覚えてる」
ミアが顔を上げた。
「褒めたの、私よ」
「母さんも」
「お母さんは粉を炒め直してた。あんた、横で焦げて目が痛いって言ってた」
母が困ったように笑った。
「どっちでもいいわよ。おいしくなったんだから」
俺は匙を持ったまま考えた。
母に褒められた光景を、確かに思い浮かべられる気がした。
それは本当に記憶なのか。
家族の話から、自分に都合のよい場面を組み立てただけなのか。
エルナは何も言わずに食べていた。
俺はその横顔を見て、日記の中の彼女も同じように俺が作り直しているのではないかと思った。
母は鍋を持ち上げた。
五つの器へ順番に注ぎ、最後に空いている椅子へ目をやった。
今は客がいるので器は五つ。
それでも、席は一つ足りていないようだった。
午後、セラの書類を広げた。
母は最初に名前を読んだ。
それから年齢、職、居所。
どれも役所の字だった。
妹がどんな声で笑ったか、何に怒ったかは書いていなかった。
「生きているかもしれないのね」
「十九人が、向こうに残った記録がある」
「十八年も?」
「正確には、十七年。僕が一歳のときだから」
数を正してから、そんなことは今どうでもよかったと思った。
母は何度も紙の端を撫でた。
「会いたいと思う。でも、会ったら妹だって分かるのかしら」
父は腕を組んだまま椅子を見ていた。
「分からなくても、座る場所はある」
母は頷きかけ、首を振った。
「場所だけ用意すればいいわけでもないでしょう。あの子にも、私たちの知らない暮らしがあるんだから」
その言葉は、俺にも向けられているように聞こえた。
エルナを、以前の席へ戻せばいいと考えていた俺へ。
夕方、エルナは母と二人で薬草を選り分けた。
俺は手伝おうとして、ミアに薪を運ばされた。
女同士で何を話しているか気になったが、窓のそばを通る口実を三度作ったところで姉に睨まれた。
「あの人にも、あんたのいない場所が要るの」
「別に聞こうとしたわけじゃ」
「じゃ、薪」
薪は裏庭にもあった。
俺は降参して運んだ。
夜、帳面に今日のことを書いた。
『母は俺の煮込みを褒めた』という以前の記述の横に、『褒めたのはミアだったと本人が言う。
母は作り直した』と足した。
古い文字は消さなかった。
俺がどう間違えたかも、残しておく必要がある気がした。




