その人の好きな朝食
ご覧いただき誠にありがとうございます。
ぜひ感想をお聞かせください。
完結までの構想はありますが、皆様のご意見を支えに作品を作り上げていく方針です。
エルナは、パンの焦げたところを好んで食べる人だった。
少なくとも、俺の日記にはそう書いてあった。
だから朝、少し焦がしたパンを彼女の皿へ置いた。
昨日までなら、何も考えずにそうしていたのだろう。
俺は以前の自分の真似をすることが、今の彼女への思いやりになると思っていた。
エルナはパンを見た。
俺の皿には、綺麗に焼けた一枚があった。
「焦げてるね」
「好きだって、書いてあったから」
彼女はしばらく黙り、それからパンの裏を見た。
「私、焦げたのが好きなんじゃないよ。捨てるのが嫌だっただけ」
俺は帳面を開きそうになった。
彼女より日記を確かめたくなった自分に気づき、手を止めた。
「ごめん」
「今のは、覚えておいて」
彼女は怒らなかった。
だがその朝、パンを半分残した。
焦げた部分は俺が食べた。
苦かった。
文字に書かれた好みも、元は他人の見間違いかもしれない。
当たり前のことを、俺は高い代価で学び直していた。
失ったものは、綺麗な形の穴ではなかった。
工房への道は知っている。
糊の煮方も、文字の癖の見分け方も覚えている。
旅をしたことも分かる。
ダナの冗談は思い出せるのに、その場にもう一人いたことを思い出せない。
夕食を二人分用意する手が動き、皿を置く相手が分からず立ち尽くすことがあった。
エルナが父の部屋へ入ると、俺は仕事の邪魔をされたように感じた。
長いあいだ一緒に働いてきた相手が、そこにいるはずだという感覚だけは残っているのに、その相手を彼女へ繋げられないらしかった。
オルネは、感情や習慣が残ることはあるが、それを同じ愛と呼べるかは本人にも分からない、と言った。
「いつか戻る?」
俺が聞くと、老人は眼鏡を外した。
「今の体験が増えることはある。燃やしたものが元へ戻る証拠はない」
俺は落胆した。
聞く前から知っていたのに、誰かが都合のよい例外を教えてくれると期待していた。
オルネは俺の帳面を指した。
「彼女に質問する前に読め。だが、読んだことを彼女より正しいと思うな」
面倒な条件だった。
人間関係には説明書がないと思っていたが、説明書があってもこうなるらしい。
エルナは部屋を別にした。
元々の自室へ戻り、俺の屋根裏に置いてあった物を運んだ。
小さな櫛、替えの上着、書きかけの帳面。
物は少なかった。
その少なさが、かえって以前の二人の距離を感じさせた。
大きな荷物を運ばなくても、行き来することが普通だったのだろう。
「嫌いになったわけじゃない」
彼女は言った。
「分かってる」
「分かってなくても、そう答える癖は残ってるね」
俺は黙った。
彼女は櫛を布で包み、鞄へ入れた。
「私も、あなたが以前のノアみたいに返事すると、その続きを期待する。期待してから違うって分かるのが、今はつらい」
「僕がもっと読めば」
「試験にしないで」
彼女の声は、疲れていた。
「私が何を好きだったか、何を言ったか。正解を出してもらいたいんじゃない。今日は、少し一人で眠りたい」
俺は戸を押さえた。
彼女が荷物を持って通るあいだ、それだけをした。
部屋へ戻ると、机の隅に下手な俺の似顔絵があった。
目が細く、口が曲がっていた。
裏の字は彼女のものだった。
『気に入らない仕事を頼まれたノア』。
俺は少し笑った。
それから、誰と笑えばよかったのか分からなくなった。
数日後、立会所の使いが来た。
記憶を失った後の債務確認だった。
俺がエルナに負う賠償も、村への返済も残っていた。
契約の内容を理解できるか、今後の支払いをどうするか確認する。
俺は書類を読み、署名した。
「自分でしたことを覚えてないのに、払うんですね」
若い書記が、確認のつもりで聞いた。
「覚えてないのは、僕の都合だから」
口にしてから、立派すぎる答えだったと思った。
本当は払いたくなかった。
今の俺には、見知らぬ誰かがした間違いの請求が来たように感じられた。
それでも書類を読み、経緯を確かめれば、相手に損失が残っていることは分かる。
「腹は立ちますよ」
俺は付け足した。
書記は驚いた顔をした。
エルナは隣で帳面を閉じた。
笑いはしなかったが、俺を見る目が少し変わった。
借金を返すことと、恋人を続けることは別々の書類だった。
後者には、署名する紙さえなかった。




