五人目の席
家族の人数を数えられるようになるより先に、俺はこの家の床の冷たさを知った。
冬の朝、這って台所へ行くと、板の継ぎ目から冷気が指の間へ入り込んだ。
炉の前だけが温かく、姉のミアはそこに腹ばいになって、俺の進路を塞いだ。
四つ年上の彼女には、年下の人間を構うことと支配することの区別がまだつかなかった。
あるいは区別したうえで後者を選んでいた。
「通りたいなら、お姉ちゃんって言って」
「みあ」
「お姉ちゃん」
「みあ」
俺が頑固なのではない。
長い音を正確に発するには、この身体の舌がまだ役に立たなかった。
三十年以上の人格を乳児の口に押し込むのは無理がある。
荷物が多いのに鞄だけ新しくしたようなものだ。
ミアは結局、俺を抱き上げて炉端へ運んだ。
抱え方が乱暴で肋骨に腕が食い込んだが、温かかったので我慢した。
彼女の袖はいつも少し酸っぱい匂いがした。
家畜の世話のあとで腕を洗うと、濡れた袖のまま遊びに戻るからだった。
父の名はカイル。
猟師で、村の境に置く魔獣除けの修繕も引き受けていた。
母のリナは薬草師で、台所の半分は乾かした根や葉のために占領されている。
俺の名前はノア・アルヴェイン。
村の名もアルヴェインだった。
名家なのかと思って喜んだが、この辺りには生まれた土地を名字にする家が多いらしい。
郵便が届きやすい以上の特権はなかった。
二階建ての家は、雨の日には膨らみ、晴天が続くと隙間を作った。
両親と姉と俺、四人が暮らすには少し狭く、父の長靴は出入り口で必ず誰かに踏まれた。
その家の食卓には、椅子が五脚あった。
余分な一脚は窓際に置かれていた。
背もたれの左上に細い割れがあり、座面だけがほかより色深く磨かれている。
母はそこへ洗濯物を積むことがあったが、食事の時間になると必ずどけた。
ミアが肘をぶつけて怒り、父が掃除のたびに邪魔そうに持ち上げる。
それでも、椅子はいつも同じ位置へ戻った。
二歳の秋、窓辺で干してある林檎が欲しくて、その椅子によじ登った。
身体の大きさが変わると、果物一つが遠征先になる。
座面に片膝を乗せたところで父の声がした。
「ノア、降りろ」
大きな声ではなかった。
その低さに、俺は動きを止めた。
薪を抱えた父が戸口に立っていた。
視線は俺より少し高い、空っぽの背もたれの上へ向けられている。
「そこは――」
言葉が続かなかった。
薪の一本が床に落ちた。
父は拾おうともせず眉を寄せ、何かの名を喉まで運んで、呑み直した。
「誰の椅子?」
俺が聞くと、父はやっとこちらを見た。
「分からん」
「分からないのに、だめ?」
「そうだな。おかしいな」
笑おうとして失敗した顔だった。
父は薪を置き、俺を椅子から下ろした。
抱かれたとき、上着から冷たい森と獣の脂の匂いがした。
「でも、ここは空けておきたいんだ。頼めるか」
二歳児への言い方としては、不思議なくらい対等だった。
俺は頷いた。
父の妙な沈黙より、すぐそばにある林檎のほうが気になっていた。
母は何も聞かなかった。
落ちた薪を拾って炉に入れ、それから椅子の下を布で拭いた。
座る者のいない席の下に、どうしてあれほど埃がたまるのか。
俺は長いあいだ、それだけを不思議に思っていた。
春には父に連れられて麦畑へ行った。
土はまだ水を含み、畦に靴を取られるたび父の手にぶら下がる形になった。
遠くで牛を呼ぶ声がし、白い花をつけた低い木から蜂が飛び立った。
山に囲まれた村だった。
北には雪の消えない尾根、西には暗い森、南の果樹園を抜ける細道が、町へ向かうただ一つの道だという。
東の麦畑の奥には、白い塔が立っていた。
黒い屋根と硝子の灯室を見上げた瞬間、鼻の奥に塩辛い匂いがよみがえった。
俺は父の指を強く握った。
死ぬ直前の光景を、ずっと高熱の夢だと思うことにしていた。
人生のやり直しに、不気味な但し書きはついていてほしくなかった。
「あれは?」
「灯台だ」
「海がないのに?」
父は足を止めた。
「うみ、って何だ」
説明しようとして困った。
塩水がいっぱいある、と言うと、父はそんなに塩を入れたら畑が駄目になると答えた。
とても広い水だと続ければ、北の湖より広いのかと尋ねられた。
水平線という言葉を探したが、まだこの国の言葉に置き換えられなかった。
「向こう岸が見えないくらい」
「それは怖いな」
父は真面目に言った。
知識のない人間の反応というより、暗い穴を覗く前の声だった。
それなら塔は何のためにあるのかと聞くと、父は硝子の窓を眺めた。
屋根の端で何か白いものが翻った。
人影にも見えたが、次の瞬間には陽の照り返しだけになっていた。
「昔からある。灯台ってのは、そういう名前の建物なんだ」
「どういう?」
「父さんを困らせる建物だな」
説明を打ち切るための抱っこは、かなり有効だった。
高い位置から見る麦は、風が通るたび同じ向きに伏せ、ゆっくり立ち直った。
俺はその揺れ方をどこかで見ていた。
名前を知っているはずの動きを、うまく掴めなかった。
その晩、母が炉に手を差し出した。
乾いた薪の先に指を寄せ、目を閉じる。
指先に小さな赤い点が生まれ、細く裂いた樹皮へ移った。
火は頼りない音を立てて育った。
俺が身を乗り出すと、母は額を軽く押して座り直させた。
「どうやったの」
「火をつけただけ」
「僕もできる?」
「まだ駄目」
その答えを、俺は幼児一般に向けられた不当な制限だと思った。
実際には三十四年分の人生経験がある。
経験の質については、今は問わないでもらいたかった。
「何を考えたらいいの」
母は薪を並べる手を止めた。
「ノア。お昼に何を食べた?」
「豆。白いやつ」
「どんな器で?」
「縁の欠けた、お花の」
「誰がおかわりをした?」
「父さん」
母は少し笑った。
「私は、その場面を今、火にあげたの。豆を食べたことは知ってる。でも、あなたがどんな顔をしていたか、もう思い出せない」
火の奥で枝がはぜた。
俺は母を見た。
冗談を言っている様子ではなかった。
「そんなことで、つくの?」
母の顔から笑みが消えた。
「そんなこと、って言わないの」
怒られた理由が分からず、俺は膝の上で手を握った。
母はしばらく炎を見ていた。
やがて鍋を掛ける鉤を引き、静かに言い直した。
「忘れても、したことはなくならないからね」
そのときの俺は、叱られたことだけを覚えた。
魔法は記憶を使う。
それなら俺には三十一年分の余剰在庫がある。
誰よりも早く、誰よりもたくさん使えるのではないか。
前の人生にも、使い道が見つかった。




