↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
海のない村の灯り
PR
1/196

善人として死ぬ予定だった

ご覧いただき誠にありがとうございます。

ぜひ感想をお聞かせください。

完結までの構想はありますが、皆様のご意見を支えに作品を作り上げていく方針です。

俺は死ぬ三日前から、善人だった。



もっとも、三十一年も生きた人間が、三日ばかり善良に振る舞ったところで帳尻を合わせられるはずもない。


その程度のことは承知していたが、コンビニの募金箱に千円札を押し込むと、胸の奥がいくらか軽くなった。


硬貨の隙間に札が引っかかり、半分だけ外へ出ていたので、俺は指先で丁寧に押し込んだ。

店員がこちらを見るまで、ことさらに丁寧に。



「千円、入れるんですね」



「まあね」



何がまあねなのかは、俺にも分からなかった。

店員は俺の善性より詰まった投入口を心配していたのかもしれない。


自動ドアを出て十歩ほど歩くと、その千円があれば焼肉弁当に変えられたことに気がついた。


善行には即効性のある後悔が伴う。

誰も教えてくれなかったが、教わらなくても普通は知っているのだろう。



十月の雨上がりだった。

街灯の光が濡れた道路を細く這い、団地のベランダには取り込み損ねたタオルが垂れていた。


右手の袋に唐揚げ弁当と発泡酒、左手はポケットの中。


寒いからではない。

出していても、ほとんど感覚がなかった。



三日前には右の小指だけだった。

寝相のせいにしているうちに薬指も鈍り、腕を経て足へ広がった。


普通なら病院へ行く。

俺も普通という概念は知っていたので、携帯で症状を検索した。


画面に今すぐ受診するよう書かれているのを読んでから、ブラウザを閉じた。


病院へ行かなければ病人だと決まらない。

観測されるまでは健康である。


量子力学も、こういう使われ方をするために発達したわけではあるまい。



失業して二年になる。

履歴書には、面接官が少しずつ優しくなる種類の職歴が並んでいた。


その優しさが嫌で面接に行かなくなり、連絡が来ないことを世間の冷たさと呼ぶようになった。


家庭にも会社にも運にも不満があった。


自分の責任は、厳しく見積もって二割。

三割にすると寝つきが悪くなる。



その夜、弁当を食べたあとで遺書を書いた。

便箋を買ってきたのは、こういうことには形式が必要だと思ったからだ。


『最後まで見捨てないでくれて』と書いたところで破った。

三年間電話に出なかったのは俺だった。


二枚目には貯金を両親に残すと書いたが、四十八万六千円で遺産面をするのもどうかと思い、それも破いた。



結局、部屋を掃除した。

空き容器の底から古い汁が出て、片づける前より臭くなった。


押し入れの箱には母から送られてきた靴下が、まだ束ねる紙をつけたまま入っていた。


季節が変わるたびに届いた箱の、最後の一つだった。

俺が何も返さないうちに、荷物も届かなくなっていた。



靴下は捨てなかった。

かといって履きもしなかった。


箱の蓋をしてから、携帯の連絡先を開いた。



呼び出し音が三回鳴ったところで切った。

出なかったことに、心底ほっとした。


五分後の折り返しは見送った。


次の着信も見送り、届いた『どうしたの?』という文字には、三十分かけて『別に』と返した。


三十一歳の男が一晩を費やして完成させるには、あまりに貧しい文章だった。



翌朝、海へ行った。



人生の最後に海を見れば、何かが整う気がした。


電車を二度乗り換えるあいだ、隣の男の貧乏揺すりに腹を立て、高校生の笑い声をうるさいと思った。


死期が近づいても人格は改善しない。

千円では足りなかったのだろう。



海は灰色だった。

千切れた海藻が砂に絡み、発泡スチロールの欠片が寄せる水の端で何度もひっくり返っていた。


風が強く、潮の匂いは思ったより生臭かった。


少し離れて座っていた若い二人連れが笑うたび、俺は静かに終わりたい人間への配慮が足りないと思った。


もちろん、配慮を要求される筋合いなど向こうにはない。



尻が冷えて、帰ろうとした。

右膝に力が入らず、ついた左手も砂に沈んだ。


ここで初めて、本気で助けてほしいと思った。


喉から出たのは、咳に似た短い息だけだった。



二人連れの女が顔を上げた。

男が駆け寄りながら携帯を出すのが見えた。


俺が勝手に敵にしていた人間が、俺を助けようとしていた。


そのことを、ずいぶん長いあいだ考えた気がする。



母の顔を思い浮かべようとした。


短い髪、笑ったときの目尻。

部品はあるのに、一人の顔にならない。


代わりに、昔の車の座席が浮かんだ。

熱くなったビニール、父が窓を開ける音、母が膝の上で剝いていた蜜柑。

海へ行った夏だった。


俺は車酔いをしたふりをして、母の膝に寄りかかっていた。



そんなものが残っていたのか、と驚いた。



忘れたつもりで、捨てたつもりで、まだ持っていたものが。



遠くの水面に橙色の光が差した。


船かと思ったが、光の下には白い塔が立っていた。

黒い屋根、硝子に囲まれた灯室。


さっきまでそこには何もなかったはずなのに、ひどく昔から知っていたものを見る気がした。


遠近が定まらず、水平線の上にあるようにも、手を伸ばせば窓へ届くようにも見えた。



女がいた。

長い髪が風にほどけ、胸元で白い布が膨らんでいる。


こちらを見た女は、嬉しそうに、そして泣きそうに笑った。



『今度は、忘れないで』



声は届かなかった。


意味だけが、冷たい砂の感触と一緒に俺の中へ入ってきた。



何を、と聞く時間はなかった。


波の音が近づき、誰かの手が肩に触れた。


それが最後だった。






     *






次に世界を認めたとき、俺は乳を飲んでいた。



人間の理解には段階がある。


まず温かいと思い、次に空腹が鎮まることに安心し、それから自分の置かれた状況に抗議した。


もっとも、抗議は「あぅ」という一音にしかならず、若い女に頭を撫でられて終わった。



「どうしたの、ノア。もういらない?」



その言葉は日本語ではなかった。


意味が分かったというより、声音と動作が意味らしいものを先に作り、知らない音が後からそこへ収まった。


眠りに落ちる寸前、話の途中から始まる夢を見ているようだった。



女の髪は金色で、汗に濡れた細い毛がこめかみに貼りついていた。

棚には素焼きの壺が並び、梁から干した葉の束が吊られている。


電灯も、エアコンも、携帯の充電器もない。

文明の評価項目が随分と偏っているが、俺にとってはどれも重要だった。



天井近くには青い光の球が浮いていた。



支えるものはなかった。

赤茶色の髪をした男が指を近づけると、光はその指について降りてきた。


男の頬に無精髭の影があり、目の下には眠れていない人間の濃い隈があった。


俺を覗き込み、まるで金庫から財宝でも取り出したように笑う。



「指を握ったぞ、リナ」



「さっきも握ったわよ」



「さっきより強い」



母親らしい女は呆れた顔をして、それから目を閉じた。


俺はその胸の上下に揺られながら、転生、という自分に都合のよい言葉へたどり着いた。



人生二周目。

三十一年の知識。

魔法。


これだけ条件が揃って失敗するほうがおかしい。


金を稼ぎ、尊敬され、美人と結婚し、できれば働かずに暮らす。


前の人生でうまくいかなかった理由は環境にあった。

そのことを証明する機会が、ついに来たのだ。



俺が壮大な人生設計を組み立てているあいだに、下半身で取り返しのつかない温かさが広がった。



母は目を開け、慣れた手つきで俺を持ち上げた。

俺の新しい人生は、他人に尻を拭いてもらうところから始まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。