潮の向こうの家
ダナのいる桟橋へは、翌朝、ミソサザイで渡った。
海が広くなる所で霧が切れ、船腹へ日が当たった。帆を通した風が、綱の間で細く鳴っている。ユストは濡れた指を服へこすり、前方の石の列を数えた。
「二つ目が見えた。今日はいい」
いいと言われて、俺は海の色を見た。昨日より青いのか、昨日の俺が疲れていただけか、よく分からない。船乗りが言う「いい」は、こちらの景色の感想よりずっと役に立つ。
途中、別の小舟とすれ違った。
三人が乗っていた。ユストが名を呼ぶと、一人が立ち上がりかけ、船頭に座れと怒鳴られた。
昨日の朝、帰ったことにされていた船の一つだった。
俺は思わず立ち上がった。エルナが俺の腰を引いた。人を笑う資格が消えたので、俺は黙って手を振った。
相手の男は、袋を高く掲げた。干した貝を運んでいるらしかった。港で待っていた母親は、この男が袋を振れるくらい元気だとまだ知らない。
エルナはその舟がどの岸へ向かうかを、最後まで見届けていた。
冬に来た外枝の桟橋は、潮が高いといっそう小さく見えた。
石段が低く、波を受けるたび最下段が白く濡れた。高い崖を背負う家々の窓には、冬の覆いがまだ半分残っている。洗濯物が石壁の間に揺れ、魚を煮る匂いに混じって、湿った家畜の匂いがした。
ダナは桟橋の手前で、子供に枝を持たせていた。
枝の長さが子供の背を越えている。子供はそれを槍のように突き出し、ダナに向かって勇ましく何かを叫んだ。
「持つだけだ。刺すな」
彼女は枝の先を避けた。
俺たちを見ると、子供へ仕事を終わりにすると告げた。子供は賃金を要求した。ダナは乾いた木の実を二つ渡した。子供が三つ目を待って掌を開いたままにしていると、彼女はその手に枝を戻した。
「働けば増える」
子供は唇を尖らせて、また石段へ立った。
「何を測ってるの」
「昨日の満潮で、どこまで水が来たか。杭より覚えやすいらしい」
ダナは子供を見た。
「自分の膝まで来たと言うからな。枝へ印を付けてもらった」
ここには、切替までに出たい人が十二人いた。
残る人はそれより多い。道が遠くなっても、家を離れる気はないと言う。網を干す男は、祖母がここで死んだから残るのではなく、来週から魚が入るので残るのだと説明した。説明しなくても残れるはずだが、よそから来る者には何度も聞かれたのだろう。
通常の海路は、崖の南を回れば通れる。
ただし春の満潮のあと、長い岬の先で流れが速くなる。短い口の内側へ先に入った船は、一巡帰すうちに港側へ出さなければ、外へ回るための水深も風向きも足りなくなる。
ダナは足元の砂へ線を引いた。
「ここを船で越せる時間と、ここを歩ける時間が重ならない」
枝で二か所を指した。
「岸の全員を今すぐ船へ押し込む案は、捨てていい」
俺はうなずいた。
全員を避難させると言えば簡単に聞こえるが、この港の先の人々まで、俺の都合で家を空けさせることになる。必要なのは、いま短い道へ入っている船を帰し、こちらの人が次に往く時には普通の海を選べるようにすることだった。
エイムが荷を運んできた。
肩には縄で束ねた三つの鍋を掛けていた。俺を見るなり、一つ持てと言った。空鍋なのに、三つ重なると人を謙虚にする重さがあった。
「何用」
「夕飯。ここの連中、人数を聞かれると少なく言う。飯を取りに来ると増える」
彼は笑った。
ダナも口の端を上げた。昔の軍道の話をしていた時の二人とは、違う顔だった。だからといって、あの話が終わって無くなったわけではない。エイムの左の袖には、自分で直した縫い目が見えた。ダナは何か言いかけて、それをやめ、鍋の取っ手を俺の持ちやすい方へ向けた。
桟橋の脇には、壊れた鐘が横になっていた。
鐘そのものは割れていない。吊るす木の一方が腐り、外して置いてある。
俺は近づき、指の背で軽く叩いた。低い音が、石の間へ入って消えた。
「最後の合図に使える」
ダナが言った。
「向こうの塔まで?」
「風がよければ」
風がよければ、という答えを、俺は最近信用するようになっていた。必ず届くと言われるより、道具と場所の限界が見える。
鐘の側にある古い合図板も調べた。中央からここへ、短い動きだけを渡す細い線が残っている。その先には鐘を叩く小槌が付いていた。短い文字を送る太さはない。入り口で見た刻みの使い道が、現物の前でようやく腹へ落ちた。吊り木はダナが替えることになり、鐘は待ち杭から聞こえる位置へ戻す。
「船に教えた、長く一つ、短く二つ」
サーヴァが言った。
「全員乗った、綱を外せ。それ以外には使わない。聞いたら思い出せじゃ遅い」
最後の迎え船では、外枝の待ち杭へ一度綱を掛ける。船側で全員の乗船を確かめ、塔で前の船の帰着と最後の道の用意を確かめる。その両方が済んだ時だけ、塔から同じ音を送る手順だった。聞いてから実際に綱を解くかどうかは、船長が海を見て決める。
彼女は縄の端で、石を三度叩いた。最初だけ長く擦り、間を置き、二度は短く。
俺は自分の右手を見た。
あの朝の濡れた結び目の感触が、少しだけ指に近づいた。
「覚えてる」
そう答えると、サーヴァは俺を見ずにうなずいた。
エルナは横で口元を隠した。
俺は何も言わなかった。いまからあの時の話を始めれば、ダナとエイムまで俺の鐘の鳴らし方を知ってしまう。
帰り際、子供が枝を持って走ってきた。
ダナへ三つ目の木の実を請求した。今度は本当に膝を濡らしていた。
彼女は三つ目を渡し、靴を脱いで乾かすよう言った。
子供は木の実を口へ入れてから、ようやく指示に従った。




