帰る船の数
港の朝は、魚の匂いより先に槌の音がした。
俺が宿の窓を開けると、向かいの屋根で男が釘を打っていた。もう一人が下から板を渡し、上の男が長さに文句を言っている。窓の桟に残った雨を指で払うと、外へ張り出していたエルナの靴へ落ちた。
まずいと思った時には遅かった。
「ノア」
背中から声が来た。
「ちょっと湿った」
「昨日も乾かした」
「春だから、昨日より乾く」
我ながら、季節に責任を負わせるには無理のある量の水だった。
エルナは寝台から起き、俺の横を通って靴を取り込んだ。髪の片側だけが跳ねていた。直そうとすると手を払われ、それから自分で触って、ますます大きく跳ねさせた。
結婚すれば毎朝美しい妻が微笑んで起こしてくれる、という想像を俺がしたことは否定できない。しかし俺自身、寝起きに人前へ出していい顔か怪しい。二人で暮らすというのは、概ね互いの期待を少しずつ現物へ合わせる作業だった。
それでも、彼女の靴が俺の靴と並んでいるのは好きだった。
村の借家の窓には、いまごろ朝の光が入っている。歪んだ小鉢を置いた棚は、出立前に彼女と場所を替えた。紙を乾かす紐を台所まで伸ばしてはいけないという件については、俺が負けた。俺の道具を食卓で研いではいけないという件についても負けた。奇妙なことに、妻の名が載った請求書が届く時だけ、俺は結婚生活の勝利を感じた。
その家へ帰るために、あと三日、ここで働くはずだった。
朝食を半分食べたところで、ユストが来た。
彼は椀を見てから俺を見た。俺は残りを急いで口へ入れようとして、舌を焼いた。
「数が減った」
言って、ユストは卓へ小さな木札を置いた。
レンネルから短い航路へ入った船に渡す札だった。二つの穴に紐を通し、船側に片方、港側に片方を残す。俺が作った道具よりずっと単純だが、雨に濡れても文字が崩れないし、濡れた手で持っても落としにくい。こういう物を見ると、作り手としては少し悔しい。
「昨日は、帰ってない船が五つあった」
ユストは指を折った。
「一つは昨夜入った。残り四つ。なのに、今朝の塔の知らせじゃ二つになってる」
俺は椀を置いた。
エルナが札を引き寄せた。片面には浅い汚れがあり、もう片面には字の溝が濃く残っている。
「こっちは?」
「波止場にいた女から借りた。息子が乗ってる。船は戻ってない」
エルナは上着を取った。
俺たちは食堂の女へ帰りが遅くなるかもしれないと伝え、外へ出た。ユストは歩きながら、二隻のうち一隻には三人、もう一隻には四人が乗っていると言った。荷の数ではない。乗っている人間の数だった。
三日後の大きな満潮に合わせ、レンネルの短縮航路を中央へまとめ直す。その前に、今いる船を全部帰す。冬からの約束はそうだった。
ところが六日前、ラウゼンは最終の締切を変えた。
満潮の後、潮が引き始めたら、船が残っていても枝を閉じる。
理由は誰でも理解できた。古い継ぎ目は長く待たせるほど傷み、イサナも同じ日をもう一度働けるか分からない。分かるからこそ、反対する側はいつまでも何も決められない人間に見えた。
だが、戻っていない船を戻った数に入れれば、それは別の話になる。
東の帰着岸には、濡れた網が張られていた。春の小魚を干す網で、細かな銀色が風に向きを変えていた。その下で、女が俺たちを待っていた。
手にはもう一枚、同じ形の札があった。
「戻ったって、言われたんです」
女は怒鳴らなかった。俺は怒鳴られるつもりでいたので、かえって返事に詰まった。
「それなら、どこへ着いたか教えてほしい。うちへは来てない。相方の家にも」
エルナが自分の名を告げた。
女は二人の船乗りの名を言った。一人の名を口にした時だけ、唇が少し震えた。待っている間、何度もその名前を使ったのだろう。声に出すと戻ってくる気がして、何度も。
俺は彼女の向こうを見た。
水面は穏やかだった。長い湾の奥に主照合塔が立ち、窓で何かが一度光った。塔の足元には小さな荷車が並んでいる。そこにも働く人がいて、昼になれば飯を食う。今朝の二つの船は、その普通の仕事のどこかで消えていた。
「まだ戻っていないとして、探します」
俺が言うと、女は大きく息を吐いた。
信用されたのが分かった。ぞっとした。俺には船を呼び戻す力も、息子の無事を約束する権利もない。ただ、目の前の七人を、いないことにはしないで済む。
ユストは西の船溜まりへ走った。ミソサザイの帆を乾かしていたサーヴァに、出る支度をしてもらうためだった。
「私は、昨日までの帰着の紙を見る」
エルナが言った。
「僕は塔へ行く」
「ラウゼンに会う?」
俺はうなずいた。
彼女は俺の肩に付いていたパン屑を払った。こんな時にも残っているものなのかと感心したが、感心している場合ではなかった。
「怒ると、早口になる」
「覚えてる」
「私は怒ると、黙る」
「そっちはよく知ってる」
彼女は少し笑った。それから、女の持つ札を借りて、港の小屋へ向かった。
塔の方から二度、鐘が鳴った。
定刻の鐘だった。長く働いている人には、考えなくても身体が動く音なのだろう。荷車が一台、石の坂を上り始めた。
俺もその後を追った。焼いた舌を歯の裏へ当てると、食べ損ねた朝食の熱さが、まだそこに残っていた。




