↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
地図の外の家族
PR
17/196

この女を忘れるな

市の東半分で、井戸の水が上がった。


溢れた水は路地を走り、地下の倉庫へ入った。


水桶を抱えていた人々が、その桶を捨てて逃げた。


俺たちが工区へ着いた頃には、職人たちが揚水の軸を外し、回路と切り離す作業を始めていた。


ベレスは外套も着ずに指示を出していた。


袖に血が滲んでいた。


俺を見ると、地下へ行けるかと聞いた。


「状況を先に」とエルナが言った。


彼は短く説明した。


地上の排水を開けば低い地区が沈む。


境を閉め続ければ、行き場のない水と力が共に溜まる。


地下で放流路を開き、消えた側の空の貯水槽へ一時的に逃がす必要がある。


「あちらに人がいる」と俺は言った。


「居住区へ流さない。

だから古い地図を読める者が要る」


彼は俺たちを見た。


その顔には、今回は確かに頼むという意思があった。


だからといって、失った封片が戻るわけではなかった。


ダナが地下へ続く縄を準備していた。


病舎から来た人々をタヴィとユルが誘導していた。


二人はまだ別々の部屋で暮らしていると、先月工房で聞いた。


ユルは妻の指示をよく聞き、見知らぬ人へ毛布を渡していた。


俺は、ここにも続いている生活があると思った。



地下の水は腰まであった。


エルナの顔が青くなり、俺は戻ったほうがいいと言いかけた。


俺も同じくらい寒かった。


彼女だけを危険から遠ざけたいという気持ちと、

俺のほうが耐えられるという根拠のない自負は、簡単に混ざった。


彼女は記録袋を肩より高く持ち上げた。


「読んで。

私は扉を探す」


俺は地図を広げた。


灯りが揺れ、古い数字の下に今の通路を重ねて考える。


右へ行けば貯水槽、左はかつて人が待った廊下。


柱の間にある放流弁は、壁ではなく床の下にあった。


ダナが潜り、鎖を通した。


地上の男たちが綱を引いた。


重いものが底で動き、水の流れが変わった。


俺たちは柱にしがみついた。


向こう側の扉が開いた。


黒い廊下の奥に、灯りが見えた。


小さな手灯だった。


誰かが持っている。


人の顔までは見えなかったが、そこに立つ姿勢だけで、生きている人間だと分かった。


「止めて!」


エルナが叫んだ。


放流路の下の隔壁が閉じていなかった。


水は貯水槽だけでなく、廊下へも流れ込み始めていた。


十九人。


帳面の数字が頭をよぎった。


今も十九人なのか、それより少ないのか、増えているのか。


俺たちは何も知らなかった。


ダナが手信号を送り、地上の綱が止まった。


だが一度開いた弁は戻らなかった。


古い歯が欠け、鎖が空回りしていた。


俺は逃げ道を見た。


ここで上へ戻れば、少なくとも俺たちは助かる。


向こうの人々については見なかったことにできる。


見たのは影だけだった、と説明できる。


説明なら、俺は得意だった。


エルナが袋を俺に押しつけ、柱の向こうへ渡ろうとした。


「何する」


「隔壁を閉める。

向こうに手動輪がある」


「戻れなくなる」


「ここから届かない」


彼女は俺の答えを待たずに進んだ。


俺は腕を掴みかけ、代わりに命綱を彼女の腰の環へ繋いだ。


ダナが反対側を固定した。


三人で確かめてから、彼女は水へ踏み出した。


俺はその背を見ていた。


怖かった。


自分の怖さを愛の深さに言い換える余裕もなかった。


エルナは隔壁の向こうへ着いた。


手動輪に身体を預け、少しずつ回した。


水が鉄板を打ち、動くたびに暗い音がした。


俺とダナは綱を引き、彼女の足場を支えた。


そのとき、こちら側の廊下が揺れた。


石が崩れたのではなかった。


通路の長さが変わった。


向こうにいるエルナが遠くなり、綱が張りきった。


空間が折り畳まれようとしていた。


隔壁が閉じれば放流は止まる。


だが彼女のいる場所は、こちら側からまた外される。


村の事故と同じことが起きかけていた。



俺は帰路の保持環へ触れた。


古い設備の使い方は、調査中に読んでいた。


二つの場所を結ぶには、それぞれを同じ人生の中で往復した記憶が要る。


俺たちは三日前に一緒にここを調べた。


小さな帰路なら、その記憶で足りるはずだった。


調査の日を差し出すと、通路が一瞬縮んだ。


エルナの顔が見える距離になった。


彼女は手動輪から手を離せず、唇だけで何かを言った。


保持環がもっと深く引いた。


三日の記憶では足りなかった。


動く境と水圧の中で、人を一人こちらへ返す道は、紙に描いた線とは違った。


俺の中で、同じ相手へ帰った場面が次々に浮いた。


工房の台所。


雨の穀倉。


泥を落とす靴。


屋根裏の狭い窓。


俺は手を離した。


誰を要求されているか、分かった。


ダナが肩を掴んだ。


オルネが地上から声を送っていた。


公用の封片を使えという。


ベレスが箱を運ばせていた。


ここに用意された最も強い束は、低い地区の住民たちから維持費として預かった居住記憶だった。


使えば、その地区へ戻る道を人々が失う可能性があった。


範囲を限定する止め目が、既に水の下で割れていたからだ。


それでも命と引き換えなら、仕方がないと言える。


役所が選べば、俺は命じられたことにできる。


それは俺が、署名の机の前で一度使った道だった。


俺は箱を閉じた。


エルナの姿が遠のいていた。


綱は張っているが、彼女のいる空間とこちらの長さが一致しない。


力任せに引けば、腰の環か身体が先に壊れる。


「個人の帰路を使う」


俺はダナに言った。


「どれだけ失う」


「分からない。

彼女のことを、たぶん」


ダナは俺の顔を見た。


勇敢だとも馬鹿だとも言わなかった。


「それで繋がる見込みは」


「さっき繋がりかけた。

道はある」


彼女は保持環の下を調べ、折れた止め目へ金属の杭を打った。


「全部持っていかれる前に、こっちで切る。

書くなら、今だ」


俺は防水袋から帳面を出した。


書きたいことは多かった。


エルナがなぜ怒るのか。


なぜその怒りを今の俺が大切に思うのか。


豆を焦がした夜、父の濡れた足を拭いた手、俺の謝罪を受け取らなかった正しさ。


彼女の全てを、俺が失う前に俺へ説明したかった。


水が頁の端を濡らした。


時間はなかった。


『この女を忘れるな。

お前はこの人を愛している』


そう書いて、ひどい命令だと思った。


忘れることを選んでいるのは今の俺なのに、あとに残る俺へ責任を押しつけていた。


だから、その下にも書いた。


『ただし、この文章を理由に彼女へ何かを要求するな。

お前が愛していたことは、彼女がお前を愛し続ける義務ではない』


手が震えた。


名前を書いた。


エルナ・ヴェル。


借りている金、俺の署名で失われた封片のこと、返済の記録がある頁。


残せるものを、残した。


綱の向こうで隔壁が最後の音を立てた。


放流が細くなった。


エルナが手動輪から離れ、こちらを向いた。


「ノア!」


名前を呼ばれた。


その声を、俺は差し出した。



最初に消えたのは、一番古い彼女だった。


灯台の下で紙の端を持たされた朝。


字が上手くなるのかと聞かれて腹を立てたこと。


笑わない子供だと思った、その横顔。


順番が年齢通りだったわけではない。


気づけば雨の穀倉が先に薄れ、次に糊の鍋の匂いと結びついた声が離れた。


俺は忘れまいとして、むしろ多くを浮かべた。


守ろうとしたものほど、帰路を強くした。


彼女の嫌なところもあった。


頑固で、黙って怒り、一人で引き受けすぎる。


俺はそれを残しておきたかった。


好きだった人を、完璧な説明文にしたくなかった。


だが、欠点も一緒に失われていった。


綱が緩んだ。


ダナが引いた。


暗い通路の向こうから、人の身体が近づいた。


俺はその人が帰ってくる場所を知っていた。


工房の二階、右の部屋。


窓辺の花。


椅子の背に掛けた上着。


場所は残った。


そこに彼女がいる意味が、なくなった。


保持環に杭が打ち込まれた。


身体が後ろへ引かれ、冷たい水を飲んだ。


誰かが俺を抱えた。


咳をすると喉に塩の味がした。


遠くで人が叫び、石段を上る足音が重なった。


俺は自分の名前を答えた。


ノア・アルヴェイン。


十八歳。


工房の見習い。


母はリナ、父はカイル、姉はミア。


目の前に、濡れた髪の女がいた。


誰だろう、と思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。