↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
帰りたい岸を選ぶ
PR
164/196

妻を連れて来た男

新居で最初に揉めたのは、金でも、義理の家族でもなかった。


台所の綱だった。


エルナは乾かす紙が多いので、窓辺の綱をもう少し伸ばしたかった。俺は、鍋の蓋を持ち上げるたび、紙の下をくぐる生活に反対した。


「ここまでなら、当たらない」


彼女は言った。


俺は実際に鍋を持ってみせた。


蓋の取っ手が綱へ当たり、紙の端が揺れた。


「ほら」


「その鍋を頭の上へ上げる料理をするの?」


普通には上げなかった。


俺は鍋を下ろした。


結局、台所まで伸ばすのはやめ、長机の上へ取り外せる棒を掛けることになった。そこへ紙を吊るすと、俺の刃物を研ぐ場所が狭くなる。


裏の庇をもう少し塞ぐ仕事が、一つ増えた。


外で研いだ刃を拭きながら、俺は中を見た。


エルナは机へ向かい、片足を椅子の横木へ載せていた。髪は束ねてあるが、短い毛が頬へ落ちている。窓から入る日が、その毛だけを金色にした。


彼女が顔を上げた。


「寒い?」


「少し」


「火のそば、空いたよ」


俺は砥石を洗ってから家へ入った。


一緒に暮らすと、こういう小さな勝ち負けが毎日あるらしい。俺は、だいたい負けた気になっていた。それでも、家の中へ入ると彼女がいることは、かなり気に入っていた。


木の鳥は、その週のうちにロイの家へ返した。今度は窓の端へ置かず、彼が手を伸ばせる卓の中央を空けた。首を伸ばして見せると、ロイは、前より少し滑らかだと言った。


冬が深くなる前に、レンネルへ行く支度をした。


夏に調べた古い規格を、主照合塔と今の道へ照らす仕事が残っていた。イサナが塔の外へ出られるようにしたい。それを俺の願いだけで約束するには、現在何が彼女へ集中しているかを、現場で見る必要があった。


エルナには、古い航路帳の修復を頼まれていた。


今度は俺についてくるために用事を作ったのではなく、夏に見せた仕事から本人へ来た依頼だった。彼女は報酬の欄を見て、少し口元を上げた。俺が覗くと、紙を伏せた。


「私の」


「分かってる。喜んでるだけ」


「まだ働いてないから、喜ぶのは半分にして」


俺は半分だけ喜ぶ顔を作り、失敗した。


灯台の代番は、ジナと父へ頼んだ。俺の戻る予定が遅れた時の連絡も、今までの便を使う。新居の火は落とし、ロイの家には普段来る人の時間を増やした。エルナは父へ、出発の日を二度、別の日にも話した。


出立の朝、俺は小鉢の棚を少し動かした。


強い雨が来た時に、窓の下が濡れると分かったからだ。エルナと二人で持ち上げ、壁の陰へ寄せる。小鉢を置き直し、手が入る幅も確かめた。


戸を閉めてから、俺は鍵を握り直した。


両親の家から出る時と、少し違った。


誰もいない家へ、二人で戻るつもりで出ていく。


エルナが手袋の端を引き、俺を見た。


「何か忘れた?」


「たぶん大丈夫」


「たぶん、か」


「すごく大事な物は持った」


「道具?」


俺は彼女を見た。


エルナは少し目を細め、それから俺の胸を指で押した。


「それ、今のうちだけ何回でも言っていいと思ってるでしょう」


思っていた。


レンネルに着いた日の海は、夏と色が違った。


水面が重く、白い波頭の間に鉛のような青が見える。港の人々は歩くのが速く、首へ巻いた布を顎まで引き上げていた。


ラウゼンは俺たちを、自分の部屋ではなく荷場へ呼んだ。


大きな倉の前で、粉の袋が次々に降ろされていた。短縮航路で届いた荷だという。普通の海を回れば、荒天でさらに二日は遅れたと、運び手が言った。


「おめでとう」


ラウゼンは、俺たちの顔を見て言った。


エルナが礼を返した。


俺も返したが、そのあと余計に言った。


「妻です」


ラウゼンは一瞬止まり、頷いた。


「それは聞いた」


エルナが俺を見上げた。


俺は袋を降ろす方へ目をやった。


言いたかっただけだった。


ラウゼンは笑わず、俺の肩を軽く叩いた。それから次の荷の紐が緩いと気づき、運び手へ声を掛けた。自分で袋の下へ腕を入れ、二人で置き直す。


粉が少し零れた。


彼は手で掬い、袋の口へ戻した。


「これを止めると、町の値が上がる」


ラウゼンは言った。


俺は袋を見た。


「イサナの負担も上がってる」


「知っている」


彼は俺を見た。


「だから、今のままにしないために来てもらった」


倉の奥から焼いた麦の匂いがした。


その匂いの先に暮らす人を、彼が本当に気に掛けていることは分かった。だからこそ、何を変えるつもりなのかを、聞かなければならなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。