妻を連れて来た男
新居で最初に揉めたのは、金でも、義理の家族でもなかった。
台所の綱だった。
エルナは乾かす紙が多いので、窓辺の綱をもう少し伸ばしたかった。俺は、鍋の蓋を持ち上げるたび、紙の下をくぐる生活に反対した。
「ここまでなら、当たらない」
彼女は言った。
俺は実際に鍋を持ってみせた。
蓋の取っ手が綱へ当たり、紙の端が揺れた。
「ほら」
「その鍋を頭の上へ上げる料理をするの?」
普通には上げなかった。
俺は鍋を下ろした。
結局、台所まで伸ばすのはやめ、長机の上へ取り外せる棒を掛けることになった。そこへ紙を吊るすと、俺の刃物を研ぐ場所が狭くなる。
裏の庇をもう少し塞ぐ仕事が、一つ増えた。
外で研いだ刃を拭きながら、俺は中を見た。
エルナは机へ向かい、片足を椅子の横木へ載せていた。髪は束ねてあるが、短い毛が頬へ落ちている。窓から入る日が、その毛だけを金色にした。
彼女が顔を上げた。
「寒い?」
「少し」
「火のそば、空いたよ」
俺は砥石を洗ってから家へ入った。
一緒に暮らすと、こういう小さな勝ち負けが毎日あるらしい。俺は、だいたい負けた気になっていた。それでも、家の中へ入ると彼女がいることは、かなり気に入っていた。
木の鳥は、その週のうちにロイの家へ返した。今度は窓の端へ置かず、彼が手を伸ばせる卓の中央を空けた。首を伸ばして見せると、ロイは、前より少し滑らかだと言った。
冬が深くなる前に、レンネルへ行く支度をした。
夏に調べた古い規格を、主照合塔と今の道へ照らす仕事が残っていた。イサナが塔の外へ出られるようにしたい。それを俺の願いだけで約束するには、現在何が彼女へ集中しているかを、現場で見る必要があった。
エルナには、古い航路帳の修復を頼まれていた。
今度は俺についてくるために用事を作ったのではなく、夏に見せた仕事から本人へ来た依頼だった。彼女は報酬の欄を見て、少し口元を上げた。俺が覗くと、紙を伏せた。
「私の」
「分かってる。喜んでるだけ」
「まだ働いてないから、喜ぶのは半分にして」
俺は半分だけ喜ぶ顔を作り、失敗した。
灯台の代番は、ジナと父へ頼んだ。俺の戻る予定が遅れた時の連絡も、今までの便を使う。新居の火は落とし、ロイの家には普段来る人の時間を増やした。エルナは父へ、出発の日を二度、別の日にも話した。
出立の朝、俺は小鉢の棚を少し動かした。
強い雨が来た時に、窓の下が濡れると分かったからだ。エルナと二人で持ち上げ、壁の陰へ寄せる。小鉢を置き直し、手が入る幅も確かめた。
戸を閉めてから、俺は鍵を握り直した。
両親の家から出る時と、少し違った。
誰もいない家へ、二人で戻るつもりで出ていく。
エルナが手袋の端を引き、俺を見た。
「何か忘れた?」
「たぶん大丈夫」
「たぶん、か」
「すごく大事な物は持った」
「道具?」
俺は彼女を見た。
エルナは少し目を細め、それから俺の胸を指で押した。
「それ、今のうちだけ何回でも言っていいと思ってるでしょう」
思っていた。
レンネルに着いた日の海は、夏と色が違った。
水面が重く、白い波頭の間に鉛のような青が見える。港の人々は歩くのが速く、首へ巻いた布を顎まで引き上げていた。
ラウゼンは俺たちを、自分の部屋ではなく荷場へ呼んだ。
大きな倉の前で、粉の袋が次々に降ろされていた。短縮航路で届いた荷だという。普通の海を回れば、荒天でさらに二日は遅れたと、運び手が言った。
「おめでとう」
ラウゼンは、俺たちの顔を見て言った。
エルナが礼を返した。
俺も返したが、そのあと余計に言った。
「妻です」
ラウゼンは一瞬止まり、頷いた。
「それは聞いた」
エルナが俺を見上げた。
俺は袋を降ろす方へ目をやった。
言いたかっただけだった。
ラウゼンは笑わず、俺の肩を軽く叩いた。それから次の荷の紐が緩いと気づき、運び手へ声を掛けた。自分で袋の下へ腕を入れ、二人で置き直す。
粉が少し零れた。
彼は手で掬い、袋の口へ戻した。
「これを止めると、町の値が上がる」
ラウゼンは言った。
俺は袋を見た。
「イサナの負担も上がってる」
「知っている」
彼は俺を見た。
「だから、今のままにしないために来てもらった」
倉の奥から焼いた麦の匂いがした。
その匂いの先に暮らす人を、彼が本当に気に掛けていることは分かった。だからこそ、何を変えるつもりなのかを、聞かなければならなかった。




