手を離す順番
婚礼の日、俺はエルナの衣服の留めを一つ外した。
終わってからの話ではない。始まる前だった。
肩の後ろの小さな留めが、髪を一筋挟んでいた。エルナは鏡の前で首を傾げ、自分では見えないと言った。俺が指を入れると、金具の端が冷たく、彼女の首の皮膚は温かかった。
「引っ張らないで」
「引っ張ってない」
「痛い」
俺はすぐ手を止めた。
緩めて、髪を抜き、もう一度留める。
エルナが肩を動かした。
「うん。ありがとう」
鏡に、二人が映っていた。
彼女の衣服は明るい色で、飾りは多くなかった。袖の端に細い糸の模様があり、首を動かすたび、髪の下で布が光を変える。俺はその模様を見ていたつもりで、ずっと彼女の首を見ていた。
「何?」
聞かれ、俺は顔を上げた。
「きれいだと思って」
彼女は俺を見て、少し笑った。
「今日は、そう言ってくれると思ってた」
「今日以外も」
「それはまた、その日に聞く」
戸の向こうでミアが呼んだ。
二人とも返事をした。
大勢を遠くから集める式にはしなかった。
村で来られる人が集まり、オルネは朝の便で間に合った。仕事で来られない人の祝いは、包みや短い言葉で届いていた。カザから届いた小さな刃物の包みには、研ぎ代は別と書かれていた。イェトの字で、その下へ線が引かれている。
俺は、それを台所の棚へ置いた。
祝いの席では、母が料理の皿を動かし、ミアが母の手から皿を取っていた。今日は座っていろという話は、三回目でようやく通じた。
父はセラの椅子を、日差しが強くならない所へずらした。
いつもの五脚目の椅子だった。
家から運ぶ時は、脚の下に布を巻いた。借りた椅子の中には同じ高さのものがなく、叔母は長く座る日ほど自分の席がよいと言った。
ロイはエルナの近くに座った。
最初の間は落ち着かなかった。人が多く、普段と違う服ばかりだからだろう。隣で世話を手伝う女が、いつもの器へ水を入れた。ロイはそれを見てから、少し背を椅子へ預けた。
エルナは何度か父のそばへ行った。
俺が気にして目で追うと、一度だけこちらを見て、今は大丈夫、と口を動かした。
村長の前に立つ時、俺たちは手を繋いでいた。
誓いの言葉を長く準備しなくてよいと言われて、俺は助かった。準備すれば、たぶん、必要以上に格好をつけた。自分が守れるかどうかより、聞いた人が頷くかどうかを気にしたと思う。
一緒に暮らす意思を聞かれ、俺は答えた。
エルナも答えた。
筆を持つために、繋いだ手を離す。
その短い間、俺は妙に心細くなった。
エルナが先に名を書き、俺へ筆を渡した。いつも仕事で見る字より、最後の線が少し強かった。
俺はその隣へ自分の名を書いた。
村長が乾くのを待ち、紙を動かした。
終わったのだと分かった時、俺はもう一度エルナの手を探した。彼女の指が先に来て、握った。
祝う声が上がった。
俺は笑っていた。自分がどんな顔をしているか、気にする余裕がなかった。
トマが肩を叩き、アニがエルナへ何かを囁いた。エルナは笑い、俺の手を少し強く握った。何を言われたか聞いても、教えてくれなかった。
食べ物は、足りた。
少なくとも最初は、そう思っていた。
俺が挨拶をして戻る間に、焼いた肉の皿は端しか残っていなかった。自分の祝いなのに、料理を先に取っておかなかったのは失策だった。
席へ戻ると、エルナが小皿を押してきた。
肉が二切れ載っていた。
「取ってくれたの」
「一切れは私の」
俺は頷き、一切れだけ食べた。
少し冷めていた。噛むと脂の匂いが広がった。
ロイが、こちらを見ていた。
俺が器を上げると、彼は小さく頷いた。それからエルナの袖へ目をやり、良い布だと言った。
エルナは袖を見せた。
「ここ、私が選んだ」
ロイが触れる。指先は布の模様を辿り、途中で止まった。
エルナはその手を急かさなかった。
夕方、最後の皿を返し終えると、二人だけになった。
借家の戸を閉める。
今朝まで空けていた床に、花びらが一枚落ちていた。誰かの服に付いてきたものだろう。俺は拾い、窓の縁へ置いた。
エルナは椅子へ座り、靴を脱いだ。
「疲れた」
「僕も」
俺は隣へ座った。
彼女は背を伸ばし、また首の後ろへ手を回した。
「今度は、全部外して」
留めの話だった。
俺は指を伸ばした。朝より、少し手が不器用になった気がした。彼女はそれに気づき、声を出して笑った。
金具を外すと、肩の布が緩んだ。
エルナが振り向き、俺の頬へ口づけた。俺が顔を寄せると、今度は逃げずに受けた。
椅子の背へ俺の肘が当たり、木の音がした。
「家が狭い」
俺は小さく言った。
「だからって、今日、引っ越さないよ」
俺たちは笑い、立ち上がった。
部屋の灯りを落とす前に、エルナが窓を確かめた。俺は火の蓋を閉じ、水の器を寝台のそばへ置いた。
彼女が俺の手を取った。
今度は、筆を持つために離す必要がなかった。




