読めない便箋
その夜、寝台へ横になってから、俺はまた起きた。
宿の外では、水桶を片づける音がした。誰かが明日の朝の船の話をし、別の誰かが、大きな声で返事をした。知らない町の夜は、こちらが何を知ったかに関係なく進む。
帳面の間に、古い封筒が挟まっていた。
帰還の灯台を動かす前夜、前の両親へ書いた手紙だった。
端が柔らかくなっている。何度も荷物の中で折れ、濡らさないよう別の紙へ包み直した。封の糊は一度も固めなかった。いつか書き足すかもしれないと思ったのか、届けられる時に困ると思ったのか、今でははっきりしない。
俺は古い便箋を広げた。
父さん、母さん。
日本語の字は、今より幾らか上手かった。それでも形の怪しい漢字があり、途中から平仮名が増えている。涙が落ちたところは、墨の縁が広がっていた。
電話に出なかったこと。
別に、と返したこと。
海で二人の人に助けてもらおうとしたこと。
別の世界の家族に助けられていること。
全部、その時に書いた。
もう一度書けば、届く場所が増えるのだろうか。便箋を千枚にしても、俺が閉じた携帯が鳴り直すことはない。
俺は古い手紙を畳み、新しい紙を出した。
最初の行に何を書くかで、長く止まった。
エルナが、向こうの寝台で体を起こした。
「灯り、上げる?」
「今のままで」
彼女は頷き、水を飲んだ。俺の背中を見張るように座らず、枕へ肘をついて、明日渡す控えの端を確かめている。指先が紙を滑る小さな音がした。
俺は、新しい紙へ、二十三になると書きかけた。
まだ二十二だった。
一度書いた数字を消すと、その下が黒くなった。
こちらへ来てから何年経ったと伝えればよいのか、向こうにも同じだけの年が経ったか、俺は知らない。父母が今何歳なのかも、生きているのかも分からなかった。生きていると書きたかったし、待っていると思いたかった。
それを書くための材料は、俺の願いしかなかった。
筆を置いた。
「エルナ」
彼女が顔を上げた。
「僕、最後に、別にって送ったんだ」
「うん。前にも聞いた」
「もっと言うことがあった」
声にしたら、当たり前すぎた。
怖い。右手が動かない。仕事へ行っていない。金はあるけど、この先が分からない。手伝ってほしい。母の声が聞きたい。そんなことを言えばよかった。
俺は、相手が聞く前に拒んだ。
何かを頼めば、また子供になった気がしたから。
「あの返事を見たあと、何を考えたんだろう」
エルナは紙を置いた。
少しして、寝台から降りた。
「分からない」
彼女は言った。
「私にも、そこは分からない」
俺の隣へ来て、椅子の背に手を置いた。それ以上は言わなかった。
母はきっと分かっていた、などと言われたら、俺は縋っただろう。あんな短い返事でも心配してくれたと、都合よく信じたと思う。それを今も欲しがっていた。
エルナは、知らない人の気持ちを俺へ贈らなかった。
俺は顔を掌へ押しつけた。
汗と、錆の残る指の匂いがした。
いつもなら、泣く前に一つくらい冗談を思いついた。今度は何も浮かばなかった。母へ送った二文字の短さが、何度も頭に返ってきた。
エルナが肩へ触れた。
「こっちへ向いて」
俺が椅子を動かすと、彼女は膝の前に立った。腹へ額を預ける形になった。服の布は柔らかく、風呂上がりの肌の温かさがその下にあった。
俺は両腕を彼女の腰へ回した。
抱き返されるまで、少し間があった。
「強い」
彼女が小さく言った。
俺は腕を緩めた。彼女の指が髪へ入り、汗で固まったところをほどいた。
こんな時まで、この人がいてよかったと思ってしまう。
その気持ちで、前の人生の不足を埋めたくはなかった。埋まるものでもなかった。ただ、今の俺の額が、彼女の腹へ触れている。それを離す理由もなかった。
泣きやんでから、新しい紙へ少し書いた。
何が分かったのか。
あの人生は、本当に俺が生きたこと。
砂浜へ来た二人に、まだありがとうと言えていないこと。
今、一緒に暮らしたい人がいること。
その人へ話す時、以前の俺はどんな息子だったか、取り繕わずに言いたいこと。
文字の分からない所は、平仮名にした。
書けなくなった漢字を、知らない難しい字で誤魔化すことはやめた。届く宛先のない手紙にまで見栄を張っていたら、紙の方から苦情が来る。
エルナは俺の横で座り、眠りかけていた。
俺は二枚の紙を別々に折った。
古い手紙へ、今の手紙を重ねる。
封筒に入れる前に、外へ日付を書いた。今日俺が書いたことまで、いつか生まれた日の欄へ入れられては困る。
「できた?」
エルナが目を開けた。
「少し」
「もう寝よう。明日は箱が重い」
俺は頷き、灯りの蓋へ手を伸ばした。
彼女が俺の袖を引いた。
「先に水、飲んで」
差し出された器を受け取った。底に残った水は温く、飲み干すと舌の塩辛さが少し薄れた。




