帰りのない口
説明を聞いたあとにも、俺は裏の部屋へ行きたかった。
最初の体験を受けた管の、その先を見たかった。
繋がっていないと言われることと、自分の目で壁を見ることは、違う怖さだった。遠回りの最後に、普通の扉が一つ残っていてくれないか。そんな期待を、捨てきれずにいた。
ダナが足場を確かめ、管理の女が奥の戸を開けた。
ここは、海へ降りる廊下とは別だった。石を積んだ部屋があり、天井の一部に鳥が巣を作っている。窓のない部屋だと思っていたら、屋根の下には外へ通じる穴が幾つもあった。
壁の管は、大きな金属の輪へ繋がっていた。
輪の内側は空だった。
受け取る時にだけ形を保ち、外からこちらへ流れてきた体験を器へ落とす。受け終えると、その形は失われる。行き先を覚えておいて、同じ道を逆に歩くための設備ではなかった。
俺は輪へ手を出しかけた。
「触ると危ない?」
「冷たいよ」
管理の女が答えた。
「もう何も通ってない」
触れた。
日陰の金属は、確かに冷たかった。
指先へ日本の風が来ることはなかった。電車の音も、コンビニの明るさも、その向こうにはない。指へ付いたのは、細かい錆だった。
「同じような受け方を、今もしてる所は」
俺は尋ねた。
「ここの出生への割当は、止めてある。身体を選べるからという理由で、本人にも親にも知らせず渡す扱いは、その後の調べで外された」
女は入口の掲示を示した。
古くなった掲示の下には、外部体験を持って育った人の身分は変えないという文があった。俺が生まれた時の誤りを直すため、今いる俺まで消す、という書き方にはなっていなかった。
エルナが、その日付と適用された受理所を確かめた。
世界のすべてで同じことが済んだとは、この紙には書かれていない。それでも俺が渡った口について、今も知らない赤ん坊が次々に待っているということはなかった。
「二度目の行き先も?」
「予備の宛先を整理した時に外してる。こちらは、あなたが三歳になる前」
女は壁の細い枝を指した。
栓だけでなく、間の金属そのものが抜かれていた。受け側を指す古い線も、途中で削られている。テムが確かめた二度目の受理痕は、この枝が使えた頃のものだった。今は、ここから俺へ届く線そのものがない。
第三の声が、今も届こうとしているのではなかった。
俺は輪から手を離した。
「日本の両親へ、手紙を送るのは」
声が掠れた。
「僕の来た道を、使えない?」
女は、少し困った顔をした。
分からないことを分かったふりで慰める人ではなかった。彼女は管を見て、俺を見た。
「この口が一度受けたのは、あなたにつながる体験だけだよ。ご両親の、いまいる身体を指す行き先は持ってない。あなたがその人たちを覚えていても、ここから向こうへ渡す相手にはできない」
「名前が分かっていても」
「名前だけでは」
「住所を、思い出せたら」
言ってから、途中の数字が浮かばないことに気づいた。覚えていたとしても、こちらに同じ町も道もない。
女は首を横へ振った。
俺は頷いた。理解したからではなく、もう聞くものがなかったからだった。
部屋を出るとき、巣から鳥が飛んだ。
小さな翼の音が頭の上を通り、俺は反射的に身を縮めた。その鳥は、俺が触った輪の中を一度抜け、屋根の穴から外へ出た。
自分には出られる穴を、何の感慨もなく使っていた。
俺はそれを見送り、入口へ戻った。
エルナは、俺のすぐ後ろにはついてこなかった。
宿へ帰る道の途中まで、ダナと箱を運んでいた。俺が立ち止まると、彼女も止まる。箱の端を石へ載せ、空いた方の手で額の汗を拭いた。
「ごめん。持つ」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「少し休んでたところ」
道の脇には小さな店があり、切った瓜を水へ浸していた。
俺は三人分を買った。店の男は種の少ないところを選んでくれたが、俺の一切れには、なぜか大きな種が三つ残っていた。
エルナが一つを指で取った。
それだけのことで、俺は息が詰まった。
母が剥いた蜜柑は、もう思い出せない。いつか灯りにした。誰かが食べ物を持ってきて、食べやすくしてくれた場面は、そこだけではなかったはずだ。
瓜の汁が指を伝った。
俺は食べ終わるまで黙っていた。甘いと答える余裕さえなかった。




