右側から消えたもの
俺が右手を見ていると、エルナもそこを見た。
今の手は動く。小指を折り、薬指を曲げ、掌へ爪を当てると痛い。道具の柄で皮が厚くなったところだけ、少し鈍かった。
前の人生で最初に動かしにくくなったのは、右の小指だった。
三日前から、俺はそれを無視した。
病気だと決まるのが怖く、何もせずに健康でいることにした。理屈として破綻していても、自分の部屋では通用した。自分以外に審査する人間がいなかったからだ。
古い受理所の記録には、身体との結びつきが右から弱くなった、とあった。
その一行を初めて見た時から、俺は考えないようにしていた。
誰かが、向こうから俺を引いたのだろうか。
身体を弱らせ、こちらへ来るようにしたのか。
セラの声と結びつけて疑ったことも、一度ではなかった。叔母の笑い方を知るたび、その考えを追い出した。追い出しただけで、答えを得たことはなかった。
受理所の旧い検査図は、人体を正面から見た形に似ていた。
俺たちは、その右と左を確かめることから始めた。今の図と逆向きだから、字だけで読めば逆になる。身体へ接続する側の切れ目と、台の向き。山で読んだ昔の刻みの方向。二つの印を合わせると、薄く消えていく線が、確かに受けた相手の右側だった。
検査帯は細長く、途中で線が何本も途切れていた。
一つの人生を出し入れした後の記録と、その最後に身体がどう反応したかを見る部分は、別に残っている。ここには、体験の中身はもうない。消えた順番と、最後の受け取りが閉じた位置だけが刻まれていた。
右から始まり、最後には反対側も弱くなる。
その後で、一回の移送が終わる。
さらに別の欄に、出生時のノアへ渡し終えたことが書かれている。
セラの知らせが通った短い線は、別の帯にあった。別の管、別の器具、別の年。
俺は二つを並べた。
同じ日付の下へ押し込まれていた時には、見ることができなかった順番があった。
「右から弱くなったのは、日本にいた僕の身体」
俺は確認した。
エルナは頷いた。
「うん。受け取っている間、向こうの身体とのつながりが薄れている。その時には、こっちから呼びかけを入れる枝は使われていない」
「セラの声が、それを起こしたんじゃない」
「発信は、こちらであなたが生まれた後。右側の記録とは前後が違う」
俺は叔母を見た。
セラは、目を伏せなかった。
「まだ、怖かった?」
短く聞いた。
俺は喉を鳴らした。頷くだけなら、どの程度か曖昧にできる。少しだけだった、と後から自分へ言える。
「うん。あの時、受け口が勝手に拾ったんだって聞いた。それでも、二度届いてたと知ったら、また怖くなった。あなたのせいかもしれないって」
セラの親指が、杖の握りへ押しつけられた。
「そう」
彼女は言った。
その声で、俺は目を逸らしたくなった。
叔母は何も悪くない。そう分かったのに、俺の中の疑いを知った彼女が、ただ喜んで笑ってくれるはずもなかった。
セラは帯を見た。
「私も、分かってよかった」
しばらくして言った。
「あの時、呼べば誰かが傷つくかもしれないって、考えなかったから」
「傷つけてない」
俺は答えた。
「あの身体が駄目になった理由は、ここには書かれてない。でも、あなたがしたことじゃない」
病名は分からなかった。
この装置は日本の病院ではなく、俺の血や頭の中を診たわけでもない。いつ受けた反応が弱まったかを記した物に、それ以上の答えを要求することはできない。
俺は、検索の画面を閉じた。
助けを求めるのが遅れた。
その間に、向こうで何が起きていたのかは、もう調べられない。だが、自分を引きずり込むために、叔母やこの受理所が病を送ったという筋は、ここで終わった。
俺の手は、誰かの計画の順番通りに動かなくなったのではなかった。
古い検査帯の次に、受け渡しの控えを見た。
外から届いた一人分の連続した体験。身体とのつながりを失いつつあるものを保全し、使える出生先へ渡す。当時はそれが、救うための手順として組まれていた。
俺はそこで初めて、受け取った人間の短い所見を読んだ。
長く続いた同一の生活。
最後に、砂と水辺。
接触する二人。
知らない文字の形。
その下に、短い横線と、払出しを終えた印があった。
日本、という国名はない。
俺の名前も、父母の名前も、彼らには分からなかったのだろう。異なる暮らしの一生を、数行に縮めれば、そんなものになる。
善良かどうかという項目はなかった。
頭がいいか、役に立つか、金がいくらあるかもなかった。
「本当に、千円は関係なかったんだな」
俺は呟いた。
エルナが顔を上げた。
「千円?」
「日本の金。死ぬ前に、少し寄付した。もしかしたら、って、馬鹿なことを」
そこまで言って、俺は黙った。
エルナは何も笑わなかった。笑ってもらえた方が楽だったが、俺の都合に合わせてはくれなかった。
俺は目の前の容器を見た。
この中へ来たのは、砂浜の若い二人へ不満を向けた男だった。三年間、母へ返事をしなかった男。病院へ行くことさえ先延ばしにした男。
そのままの一生が、途中で別人の話へ取り替えられず、一度だけノアへ渡った。
「僕は、あっちで生きたんだ」
誰かへ証明するためではなく、口に出した。
エルナが俺を見た。
俺は、もう一度言った。
「あの二人は、僕を助けに来た」
字の少ない控えの上へ、涙が落ちそうになった。
エルナが紙を避けた。
その動作があまりに素早くて、俺は泣きながら少し笑った。




