底に残った輪
昼前には、管理の女も帰った。
畑の水を見に行くのだという。俺たちに使える二部屋を開け、触れてよい棚と、床が抜けるので入れない廊下を教えた。鍵は夕方に取りに来る。盗む物はないと思うが、紙を風へ飛ばすなとも言った。
部屋へ残された俺は、急に自分が留守番を任された子供のように思えた。
エルナはすでに仕事を始めていた。卓に敷く布を広げ、汗を拭く布を別に置く。俺が箱の紐を解くと、その手の湿りを見て、顎で布を示した。
「分かってる」
「拭いてから分かって」
言い返す間に拭けたので、そうした。
東の受け口の板は、ここから少し離れた出張所を経て保管されたものだった。図の形を見て、俺は板を置く向きを変えた。以前なら手前だと思った側に、奥の管の継ぎ目が合った。
欠けて見えた小さな切れ込みは、向きを揃えるための目印だった。
ノアへ届いた最初の流れは、壁の太い方の管へ向かっていた。細い予備の管とは途中の継ぎ目が違う。体験をまとめて渡す器の受け台と、短い知らせを受ける板が、別々の土台に載っていたのだ。
「この部屋、後から狭くしたんだ」
俺は壁の腰板へ手をかざした。
一部だけ色が違い、端に古い釘穴が残っている。厚い隔てを後から入れ、作業台を二つに割った跡だった。大きな体験の移送を止めた後も、短い知らせの設備だけを使い続けたらしい。
ダナが下の隙間を覗いた。
「奥へ行く戸がある。棚を動かせば開く」
「動かしていい棚?」
「聞いてくる」
彼女は外へ出た。足音が玄関から草の中へ移ると、部屋がいっそう静かになった。
エルナは何枚かの紙を重ね、薄く焼けた端を見ていた。古い表の上へ、新しい表が貼られている。水を含んだ糊が固まってしまい、剥がそうとすれば下の文字も一緒に上がる。
「今日中に読める?」
俺が聞くと、彼女は紙から目を離さずに言った。
「読むだけなら破けば読める」
「そのやり方は、できれば避けたい」
「私も」
彼女の声は少し嬉しそうだった。難しい仕事を前にすると、眠そうな目が変わる。この状況でも、それを見てしまう俺がいた。俺の人生が入っているかもしれない紙へ恋人が夢中になる。嫉妬すべき相手を決めにくかった。
ダナは女を連れて戻ってきた。棚を外すには二人では足りず、俺も手を貸した。中身を出した木棚は、それでも重い。下の隅へ砂が詰まり、床板の継ぎ目を越えるたび嫌な音がした。
壁の奥にあったのは、人が立って入れないほど低い保管穴だった。
そこに、空の容器が並んでいた。
形も大きさも揃っていない。底の厚い丸器、縁へ金属を巻いた薄箱。割れたものは布に包まれ、一列にまとめてある。透明になった封片のかけらが、口を開いたままの器に引っかかっていた。
俺は膝をついた。
「ここに、残ってる可能性は」
言いかけて、口を閉じた。
七歳の海を使ったとき、紙に書いた言葉しか残らなかった。エルナを忘れたときも、返却される場所などなかった。今度だけ都合よく、元の俺が別の箱で待っていると思いたかったのか。
女は一つの器を持ち上げた。
「出した物の殻だよ。昔は、受け渡しが一度だったと確かめるため、底を捨てなかった」
縁に細い番号があった。
エルナが顔を寄せた。彼女が確かめ、俺が図の番号と比べた。外受二七四・枝九へ変えられる前の、古い番号だった。移管の控えから続いている。
俺の器だった。
持たせてもらうと、拍子抜けするほど軽かった。底には円を途中で切った溝があり、その切れ目を、新しい金属が埋めている。内容を出したあと、再び受け取ることができないよう、口を潰した跡だという。
底の裏に、職人の親指が押したらしい浅い凹みがあった。
記憶の中で、誰かが笑うことも、俺の名を呼ぶこともなかった。埃が指に付いただけだった。
「一度、全部出された」
エルナが言った。
俺は器を戻さず、少し持っていた。
「日本で生きてた人の分が?」
「それは、扱った時の記録と合わせないと。ここで言えるのは、この器から一度、空になるまで出したこと」
彼女は俺の顔を見た。
「続けていい?」
俺は頷いた。
女が日陰へ移動し、曲がった腰を伸ばした。暑いので上着を一枚脱ぐ。エルナは紙を押さえ、ダナは開いた棚の後ろへ倒れ止めを入れた。
俺は器を布の上へ戻した。
自分の人生を渡した容器の底には、誰かが工賃を取って仕上げた跡があった。あの人は、この中身がどんな男だったか知っていたのだろうか。知らなかった方がありがたい。俺の不始末は、本人の知らない所でも十分に人へ見られている。
エルナの刃が紙の端へ入った。
「待って」
俺は思わず言った。
彼女の手が止まった。
「その下に、他人の名前が書いてあったら」
室内へ風が通った。床の埃が少し動いた。
エルナは刃を抜かず、切り進めもしなかった。
「その名前から調べる」
彼女は言った。
「でも、先にあなたへ見せる」
俺は椅子を引き寄せた。どうせ立ったままでも怖い。座って怖がった方が、彼女の邪魔にはならなかった。




