新しい地図を折る
十七歳の冬、俺は資格試験を受け直した。
以前より低い級からだった。
試験官は俺の履歴を知っていた。
分からないところを分からないと答えるたび、点が減るのかと胃が縮んだ。
合格はぎりぎりだった。
帰りに焼き栗を買い、工房の卓上へ置いた。
祝いだと言うと気まずくなりそうで、安かったから、と言った。
エルナは一つ取って、安かった日にしては多いね、と言った。
彼女は封片の返還を終え、父の二つの記憶を小箱に収めていた。
一つは、妻と家の窓を直した日の記憶。
もう一つは、娘を連れて冬市へ行った日。
本人へ戻しても新しい記憶として定着するか分からず、
負担が大きいので、すぐには開かなかった。
取っておくことにも、決断が必要だった。
次の年は、春と夏を工房で過ごした。
仕事を任される範囲は少しずつ戻ったが、客の中には俺を避ける人もいた。
顔を覚えてもらうのには時間がかかったのに、悪い評判はすぐ届く。
俺はその不公平を恨み、恨みながら検査の控えを二通ずつ取った。
十八歳になった秋、エルナが仕事を持ちかけた。
「古い水路をもう一度調べたい。
地図の代わりに、人の移動を追う」
俺は十八歳、彼女は十九歳になっていた。
名簿の上では消えた土地にも、食事の支払い、靴の修理、宿代の控えが残っていた。
公的な地図や台帳は同じ魔術の基準点へ繋がれ、土地の変動と一緒に改まってしまうことがある。
一方、魔術に繋がない店の紙片は、物として古い文字を保っていた。
人が読んで意味を取り戻すまで、ただの分からない名前として。
「繋がってない記録を集めるの」
エルナは言った。
「お父さんの仕事を、違うやり方で続けたい」
彼女の望みを、俺が初めてはっきり聞いた日だった。
父を治すことだけが彼女の人生ではなかった。
残った記録を、本人のいないところで誰かに勝手に使わせない仕組みを作りたい。
そのためには、まず何が消されてきたのか知る必要がある。
俺は一緒に行くと言った。
「私のために、って言わなくていい。
ちゃんと仕事として割る。
報酬も責任も」
「半分ずつ?」
「字の修復は私。
術路の照合はノア。
半分って言えば公平になるわけじゃない」
彼女は契約書を二通出した。
俺は笑い、読み始めた。
読み終わるまで彼女は急かさなかった。
旅にはダナも同行した。
彼女は俺たちが前より気まずそうに話すのを見て、前より仲がいいね、と言った。
何処を見てそう判断するのか分からなかったが、測量士が距離に詳しいのは当然かもしれない。
道中、俺たちは土地の名を集めた。
崩れた竈の裏にあった焼き印。
家系図の余白の婚礼先。
墓の石に刻まれた故郷。
現在の地図にはない土地で暮らした人間が、ここにも、あそこにもいた。
塩原の宿では、祈り方を教わった。
夕食前、宿の主人は空の器を卓上へ一つ置いた。
神に供えるのかと聞くと、まだ着いていない客のためだという。
着かなければ片づける。
毎日そうする宗派だった。
「覚えてない客にも出すの?」
俺が聞くと、主人は不思議そうに俺を見た。
「腹が減るかどうかに、こっちの記憶は関係ないだろう」
その答えを、俺は帳面に書いた。
エルナが覗き込み、食事の値段も書いて、と付け加えた。
思想に感心して会計を忘れるのは、共同出資の旅で最も迷惑な種類の感動だった。
五日目、強い雨で川を渡れなくなった。
宿代を浮かせるため、古い穀倉で夜を越した。
屋根の穴から落ちる水を桶で受け、濡れた上着を梁へ掛けた。
ダナは交代の見張りへ出て、俺たちは小さな火の前に残った。
エルナは靴を脱ぎ、足首へ布を巻いていた。
道が悪く、古い傷が擦れたらしい。
俺が薬を取ろうとすると、自分でできる、と言った。
それから、薬は取って、と言い直した。
俺は渡した。
彼女は笑った。
「何でも一人でやるって言い方、私もするね」
「僕は何でもできるって言う」
「知ってる」
少し前なら笑えなかった話だった。
笑えたこと自体を喜ぶと、また彼女が距離を置く気がして、俺は火を見ていた。
「一度、ノアがいなくなったほうが楽だと思った」
エルナが言った。
「署名のあと?」
「そのあと、しばらくずっと。
あなたがそこにいると、普通の話をしてしまう自分が嫌だった。
怒ってたことを、私が安くしてる気がした」
俺は焚き木を一本置いた。
乾いていないので、細い煙が出た。
「今は?」
「今も、あのことを考えると腹が立つ」
彼女は濡れた髪を耳へかけた。
「でも、腹が立つ人と、同じ道を歩きたいことがある。
それを、自分で選んでいいと思うようになった」
俺は彼女を見た。
望む意味に受け取ってしまいそうで、怖かった。
「僕は、君と歩きたい」
それだけ言った。
彼女はしばらく火を見ていた。
「今のは、仕事の話?」
「違う」
雨が屋根を叩いた。
桶の底の音が、少しずつ水面の音へ変わっていた。
エルナは手を差し出した。
俺が握ると、指が冷たかった。
彼女は自分の手の位置を少し直し、それから握り返した。
誓いはしなかった。
もう傷つけないと約束すれば、嘘になる気がした。
俺にはまだ、自分のすることを全て見通す力がなかった。
代わりに、次の雨水が桶から溢れる前に、俺が捨てに行った。
戻ると彼女は、俺の座る場所を火の前に残していた。
帰り道には、くだらないことで喧嘩した。
俺が帳面に彼女の寝顔を描き、本人に見つかった。
似ていないと言われて、似ていると主張したのが悪かった。
私の鼻はそんな形ではない、とエルナは怒り、
ダナは絵の出来より許可を取らなかったことだろうと指摘した。
俺は描いた頁を渡した。
エルナは破らず、裏に俺の顔を描いて返した。
「僕、こんなに目が細い?」
「気に入らない仕事を頼まれたときは、もっと」
ひどい絵だった。
俺はそれを帳面に挟んだ。
後になって、俺自身の顔を一番よく表していたのは、その粗い絵だったのかもしれないと思った。
都市へ戻ると、工房の窓辺に小さな花が置かれていた。
ロイが買ったのだという。
誰に渡すつもりだったかは忘れてしまい、誰でも嬉しい人へ、と言ったらしい。
エルナは花を父の窓へ移し、水を換えた。
その夜、彼女が屋根裏へ来た。
俺たちは長いあいだ話した。
暮らす場所、稼ぎ、父の世話、俺の返済。
どれも恋を冷やす話のようで、実際には、二人の気持ちを地面へ降ろしていた。
「一緒に住むって、今も同じ建物だけど」
俺が言うと、彼女は、違うでしょ、と笑った。
彼女の髪に触れてよいか尋ねた。
答えを待ってから触れた。
短い髪は、旅の埃も雨も落ち、石鹸の匂いがした。
口づけのあと、俺は何かうまいことを言おうとしてやめた。
エルナはそれを察したように眉を上げ、それから肩を寄せた。
窓の外を夜警の灯りが過ぎた。
屋根裏の狭さを、その晩は初めてありがたいと思った。
*
一緒に食べる回数が増えると、俺たちは金の使い方でも揉めた。
俺は新しい検針具を買った。
今のものより細い術路を読めるという店主の説明を聞き、仕事が増えれば元が取れると判断した。
エルナへ相談したわけではなかったが、俺の金で買うのだから必要ないと思っていた。
必要が出たのは、月末の食費を払うときだった。
「足りないの?」
彼女は小さな帳簿を見た。
「来月の仕事で入る」
「今月の豆は、今月の金で買うんだけど」
言われてみれば、豆は未来への投資という概念を理解しなかった。
俺は一時的な立替だと説明した。
彼女は、立替を頼まれる前に道具が机にあった、と返した。
「君も新しい紙を買うだろ」
「自分の仕事代から買う。
生活費を残して」
俺は黙った。
そこを混ぜれば何となく対等な喧嘩になると思っていたが、彼女は混ぜてくれなかった。
結局、検針具を店に戻した。
未使用でも全額は返らず、俺は差額を失った。
帰り道、ひどく不機嫌だった。
エルナが正しいことに腹が立つのは、彼女の責任ではない。
それでも顔から不機嫌を消せなかった。
夕食後に謝ると、彼女は頷いた。
「私も、言い方はきつかった」
「内容は合ってた」
「それでもね」
俺たちは生活費と各自の金を分け、小さな箱を二つ置いた。
大切に思う相手と別々の財布を持つことは、愛情の薄さではなかった。
混ぜないほうが安心して隣に置けるものもあった。
翌月、検針具を借りられる共同工房を見つけた。
一回分の料金なら払えた。
俺は浮かれてエルナへ報告し、最初からそれを調べればよかったと言われる覚悟をした。
しかし彼女は、よかったね、と答えた。
俺は少し拍子抜けした。
自分が失敗したあとも、次に上手くいったことを喜んでもらえると、
過去を隠す必要が少し減るらしかった。
休日には東の市へ出かけた。
仕事で何度も通る道だったが、書類を持たずに歩くと店が違って見えた。
エルナは色つきの紐を売る露店で足を止め、三つの色を比べた。
俺は似合いそうな赤を勧めた。
彼女は濃い緑を選んだ。
「赤じゃないんだ」
「赤は持ってる」
俺は恋人の持ち物さえ知らなかった。
知っているつもりの相手にも、選んだ理由を聞かなければ分からないことがある。
紐は髪に結ぶには短く、帳面を束ねるためのものだった。
俺は髪につけると思っていたと話し、笑われた。
悔しかったので別の店で小さな髪留めを見たが、買う前に聞いた。
「こういうの、使う?」
「時々」
「欲しい?」
彼女は品を手に取り、留め金を確かめた。
「こっちの形なら」
俺の思い描く贈り物の場面は、もっと気の利いたものだった。
相手の望みを完璧に見抜き、黙って渡して驚かせる。
実際には彼女が形を選び、俺が値段を確かめ、二人で払える範囲に収めた。
それでも帰り道、彼女が髪を留めているのを見ると、嬉しかった。
途中で雨が降った。
店の軒下へ逃げ込むと、サネルのパン屋だった。
彼女は俺たちに気づき、閉店前の小さなパンを一つ余分に包んだ。
「売れ残りじゃないからね」
そう言って笑った。
俺とエルナは雨を眺めながら半分ずつ食べた。
濡れた石の匂いがし、向かいの店主が看板を取り込んでいた。
何かの記念日でも、特別な成功のあとでもなかった。
その日を、俺は帳面に長く書かなかった。
『雨。
二人でパンを食べた。
緑の紐。
髪留め。
楽しかった』
あとになって読み返せば、それだけの文章だった。
あの軒下へ戻るには、あまりに少ない。
同じ頃、俺たちは互いに伝言を残すようになった。
仕事で行き違うと、机の上に紙を置く。
食事を先に食べてよい、父の薬は棚の右、干した帳面はまだ触らないで。
俺は一度、愛してる、と書いた紙を混ぜた。
エルナはその下に、糊の蓋を閉めて、と返した。
「返事がひどくない?」
夜に聞くと、彼女は糊の固まった壺を見せた。
「同じくらい大事」
俺は言い返そうとして、笑ってしまった。
彼女も笑った。
それから、紙に書いた言葉への返事を耳元で言った。
その声の温かさを、俺は当然のように明日へ持っていけると思っていた。




