波が入らない戸
波音は、少し待つと消えた。
俺は耳を石へ近づけ、エルナに外套を引かれた。聞こえるものへ顔から寄っていくのは、魔法のある世界で長生きする方法として、あまり感心できない癖だった。
「触ってない」
「そういう言い方をする時が危ない」
彼女は怒っていなかった。自分も聞きたい顔で、俺の少し後ろへ耳を寄せた。
ダナが外の空気の通り方を確かめた。石の継ぎ目から風は出ていない。床も乾いたままだ。波の重さは来ず、音だけが時々届いている。
正面の石へ触れる前に、俺たちは横の細い溝を調べた。
途中で金属の板が外れ、土の下に残っていた。板の大きさは掌ほどで、片側に三本の斜線がある。俺が刻みの通りに置くと、溝の深い方が端で行き止まった。
返して置くと、繋がった。
「逆だ」
俺は指を浮かせた。
「今の刻みと、読む向きが逆になってる」
エルナは紙の上へ矢印を二つ描いた。分かったつもりでどちらかを消さず、古い方へ石の番号を添えた。
ここで三枚のうち一枚を使った。
人へ繋がる口は外れたままにし、細い線の終わりに空の表示帯を置く。持ってきた小さな試験具で、短い一動作だけを通した。片の乳白色の筋が端から透け、最後まで消えた。帯の隅に細い線が現れた。
石の向こうで、かすかな鈴が鳴った。
俺はすぐに止め目を閉じた。
「遠くへ繋がってる」
エルナは表示帯を見た。そこに人の体験は残っていない。いま通った短い動きの形だけだった。
大きい溝は、何かを一度受けて渡すために、途中で広がっていた。細い溝は、その脇からあとで付け足されている。石の削り方も、埋めた金属も違った。
一つの装置だと思って覗くと、読めない。
何度も別の目的を重ねたものとして見ると、どこが先にあったか分かり始めた。
エルナは泥に埋まった銅板を、無理に引かなかった。周りを少しずつ落とし、板が曲がらないよう布を差し込んだ。そこには池から別の場所へ伸びる道が描かれていた。今の地図の方角とは違い、中央を海にして周囲へ岸を並べている。
北東の一つに、レンネルの古い綴りがあった。
ダナが紙の角を押さえた。俺は港の注文書で見た名を、古い銅の上でもう一度読んだ。
「山へ登る水路じゃない。岸と岸の間を縮めて、同じ水位の池へ着く」
エルナは、舟の絵の横の説明をゆっくり読んだ。
「使わない時は、池の水を沢へ落とす。だから、その下に大きい排水がある」
俺たちは足元を見た。
海の水を山の高さへ永遠に支えていたのではない。道が繋がる間だけ、向こうの岸とこの池が近くなる。切ったあとに残った水は、谷を流れて下りる。そのための溝が、いまは人の歩く棚になっていた。
どれほどの記憶を使って道を近づけたのかは、この池だけでは分からなかった。だが、そこへ舟を入れた人の足跡は、想像できた。舟が擦らないよう手を伸ばす者。水が抜けるまで上で待つ者。高い方から荷を呼ぶ者。
池の隅に、削り直した文字があった。
『帰る者の名を、着く前に消してはならない』
見覚えのある言葉だった。
ただし、ここでは二文字分が深く削り取られ、その上へ別の字が刻まれていた。初めは違う書き方をし、石工が直したらしい。壁の下に、使いかけの練習石まで残っていた。
祈りのように読んだ言葉の下へ、仕事でしくじった誰かの手が見えた。
その脇に小さく、アデル、とあった。
ダナは奥の足場が先へ続くのを見つけたが、そこで引き返すことにした。正面の石がどこへ繋がるか知らないまま、人の通り道まで起こす気にはなれなかった。
帰り、俺は一度だけ振り返った。
また波の音がした。
古い池は空だった。音の向こうに、今の海がある。そのことが怖いのと同じくらい、見に行きたかった。




