道を覚えている人
市が終わる日の朝、俺はエッダの乾燥棚を見ていた。
冬のうちに直してしまおうとしたのではない。春の仕事から逃げるつもりがないことを、口より先に寸法で示しておきたかった。
「そこを上げすぎると、私が届かない」
エッダは濡れた布の端を引いた。
「この高さ?」
「それ。前に来た職人は自分の腰で測った。あの男を毎日ここへ立たせるなら、それでもよかったけど」
俺は材へ短い印を付けた。雨戸一対も見た。二枚のうち一枚だけを替えると、残る方の反りがひどく目立つ。約束通り二枚とも直すには、春の乾いた板を早めに取っておく必要がありそうだった。
フルナは仕事を受けていた。
乾燥室で直した服を見た人から、継ぎの依頼が来た。彼女は一度に受けすぎないよう、客を追い返す日もあった。夏の服は、今も箪笥にあるという。
その服の話をしたのは、俺の外套を渡してくれた時だった。
「どこを失敗したかは、見れば分かるんです。縫い目が曲がってるから。でも、どうしてそのままにしたのか、よく分からない」
彼女は、俺に答えを求めている顔ではなかった。
「直します?」と俺は聞いた。
「今は、お客のを先に」
フルナはそう言って針を布へ刺した。
外套の裏には、小さな青い当て布がついていた。表からはほとんど見えない。新しい時より少し重くなった襟を肩へ載せると、切れていた所から風が入らなくなっていた。
キナは、あと四日は荷を軽くすると言っていた。七日と言われたはずだが、彼女の中で三日分がどこへ行ったのか、誰も聞かなかった。聞けば揉めるからだ。代わりにダナが、当分は一緒に歩くと告げた。
ダナは、北へ来てから町の外を何度か歩いていた。
雪で塞がれた道を見て、春の荷の通り方を確かめる仕事だった。今度の吹雪で、同じ倉にある薪も、道と戸が閉じれば遠い物になると、町の人々は身体で知った。雪解けまで待つ工房の荷もあり、別の道を使えないかという話が出ていた。
俺は一緒に町の外れまで歩いた。
午後の雪は表面だけ柔らかくなり、靴の先で砕けた。屋根の水が軒から糸のように落ちている。冬はまだ長い。春に直す棚や窓のことを考えても、目の前の雪がすぐ減るものではなかった。
ダナは谷へ続く道の分かれ目で止まった。
石標があった。
去年、北へ来た時にも彼女が避けた古い道の方角だった。標の上部は削られ、元の字の下だけが不揃いに残っている。新しい道の札は、別の棒に打ち付けられていた。
ダナは削られた面へ手を置かなかった。
「ここを通すかもしれないの?」
俺が聞いた。
「それを決める前に、歩く」
彼女は答えた。
「雪が解けてから?」
「まず、人に会う。道の話をしに行く、とだけは言いたくない」
俺はダナの横顔を見た。
風を受ける時も、危ない足場を測る時も、彼女の顔には何かを選び終えた硬さがあった。いまはそれがなかった。少し息を吸い、そのまま吐かずにいるように見えた。
「ノア。あの道で、私は命令を運んだ」
雪の溶ける水音が続いていた。
「測量の?」
俺は聞いた。彼女がうなずけばいいと思った。幅を測り、石を数え、荷が通る道を作る。それなら俺は、彼女のこれまでの姿のまま聞ける。
ダナは首を振った。
「家を退かせる命令だ」
俺は返事を失った。
彼女は削られた石標を見ていた。字が読めないから見ているのではない。その顔で分かった。彼女には、そこに何が書かれていたか分かる。
「軍にいた頃、だよね」
「ああ」
「覚えてるの」
ダナは俺を見た。
「覚えている」
声は小さかった。だが聞き返す余地はなかった。
俺を危険な道から引き戻し、エルナの綱を支え、キナの頭へ落ちかけた戸を受けてくれた手が、外套の脇に下がっていた。その手で、何を渡したのだろう。誰が受け取ったのだろう。
ダナは踵の向きを変えた。
町へ帰る方ではなかった。少し先、旧道へ上がる石段の手前まで歩き、雪の浅い所を選んで止まった。
俺は後を追った。
足場を確かめる癖で、彼女は振り返り、俺が踏む所を見た。それから、いつものように手を出しかけた。
俺はその手を取った。
段を上がりきるまで、ダナは何も言わなかった。




