春の終わる音
指先が冷たすぎて、金具へ触れたのかどうか、一度では分からなかった。
俺はもう一度押した。
同じ位置を保った体験。押される重さを受け、急に緩めず、次の手へ渡した時の身体。術が探すものを、俺は知っていた。
春の窓が浮かんだ。
白い塩の残る枠。足元の砂。ジナが板の向こうから、もう少しはどこへ来たのかと聞いていた。俺は左の小指へ麻を回し、右腕から逃がした重さを指の付け根へ受けていた。
遠くの市場には、体験の入った封片が幾つもある。
それを取りに行き、ここで合うものを選び直す時間はなかった。透明になった片が手元にあり、キナの足が雪を削っていた。
春の午後を、俺は引き寄せた。
たった窓を直しただけの日だ、とは思えなかった。大したことのなかった午後を、差し出す寸前にだけ大事にする自分が嫌だった。それでも指を離さず、あの麻が掌を締めた感触を、保持具へ渡した。
柄の震えが戻った。
戸が止まった。
頭の中で、麻がほどけていった。指へかかっていた圧が、圧があったという知識へ薄く広がる。春の陽の下にいるのに、掌だけが自分のものではなくなった。
「入れて!」
俺は叫んだ。
倉番の若い男が、戸の下へ丸太を押し込んだ。さっきまでヨレスの顔ばかり見ていた男だった。丸太は雪で滑り、すぐには噛まない。
「寝かせない。立てて、あの角へ!」
ダナの声がした。
彼女は通りから来た運び手の列に混じっていた。短い斧で丸太の端を払うと、倉番と二人で斜めに立てた。エッダの刃が綱を切った。キナの身体が後ろへ倒れ、空いた腕をエルナが引いた。
春の窓で留めが鳴った。
その音まで、術に引かれた。
俺は慌てて内側へ手を伸ばすように思い出した。いま、どんな音だった。硬い音の後に、もう一つ。二つあった。俺は確かに聞いた。
「下ろせ!」
ダナの声が、すぐ横に来た。
俺は止め爪を閉じた。戸の重さが丸太へ落ち、雪の下で木が沈んだ。二本目の材が入り、エッダが橇の前を蹴って荷をずらした。
何も倒れてこなかった。
俺は握ったままの保持具を見た。指の腹が金具に張りつき、離そうとすると皮膚が引かれた。息を吹きかけ、やっと外した。
膝が勝手に曲がった。
エルナが俺の肩を支えた。俺は彼女の名前を言った。言う必要のない時にも、確かめたくなることがある。
「うん。いる」
彼女は短く答えた。
キナが雪の上で身を起こしていた。腰を押さえ、エッダへ何か文句を言っている。縄を切る時に上着まで切ったらしい。
エッダは、じゃあ次は上着を脱いで挟まりな、と返した。
俺は笑いかけて、息だけが出た。
ヨレスは、風除け戸の向こうに立っていた。
誰も彼へ道を空けなかった。男たちが彼の指示を待たずに戸を脇へ寄せ、まだ外にいた人を奥へ通していた。倉番は自分の上着を子供の母親へ渡し、裸の腕で丸太を押さえていた。
「危ないから閉めろと言ったのです」
ヨレスが言った。
キナが彼を見上げた。
「聞いたよ。薪を戻せば開ける、とも」
ヨレスは口を開きかけた。彼に雇われていた男が先に言った。
「俺も聞いた」
さっき俺の外套を掴んだ男だった。男はヨレスから目を逸らし、足元の薪を拾った。
エッダが庭の門を指した。
「鍵、置いて」
「ここは契約が」
「私の戸を壊した。貸してる場所は、もう空けてもらう。鍵を置きな」
エッダは一歩近づいた。濡れた布を毎日持ち上げる腕が、上着の袖を押していた。
俺は座ったまま、ヨレスを見た。立ち上がって何か立派なことを言うつもりだったのかもしれない。だが、立とうとした脚が震え、そんなつもりはすぐなくなった。
ヨレスが鍵を雪の上へ落とした。
倉番が拾った。掌で拭い、エッダへ渡した。
その間に、六つ目の荷が戸口を越えた。
薪に積もった雪が乾燥室の床へこぼれ、火の近くで濡れた跡に変わった。キナは片脚を引きずりながら入っていき、一番近い椅子へ腰を下ろした。
「運び賃、六つ分だから」
俺を見るなり言った。
「分かってる」
「怪我したら、勝手にただにされる時がある」
「しないよ」
俺は立ち上がった。エルナの肩を借りた。新しい外套の襟が破れ、そこから、今まで気づかなかったほど冷たい風が入ってきた。




