一晩の値札
エルナが乾燥室へ来た時、俺は焚き口の前で片膝をついていた。
煙道の吸いを確かめるため、細い焚き付けだけを燃やしていた。炎はよく伸び、煙は管へ引かれている。身体を寄せれば暖かいが、部屋の隅ではまだ息が白かった。
彼女は入口に立ち、火を見てから俺を見た。
「ヨレスから聞いた」
「怒ってた?」
「静かだった。だから、怒ってると思う」
彼女は濡れた外套を脱いだ。髪の端に細かな雪が残っていた。
「私に、あなたを説得してほしいって」
俺は炉の横の鉄棒を置いた。
「なんて?」
「余計なことを始めると、あなたが仕事を失う。あなたが困れば、私も困るはずだって」
エルナは靴先を火へ向けた。しばらく何も言わなかった。俺には彼女の顔の半分しか見えず、その半分にも笑みはなかった。
「実際、困る」
彼女は言った。
俺はうなずいた。ここで勇ましい返事をすれば、何かを免れてしまう気がした。
「うちの分の支払いは、もう別に取ってある。君のお金や予定は使わない。僕のここから先が減る」
「それは知ってる」
エルナは、指に残った糊を爪で剥がそうとしていた。
「市の後に、北の取引所へ紹介するって言われてた。古い帳面をまとめて預ける部屋があるんだって。私、一度見てみたかった」
炎が小さくなった。俺は焚き付けを一本足した。言えば失礼になる慰めが、いくつか頭を通り過ぎた。
「そっちは、続けられる?」
「今日、日付を直すよう頼まれた」
彼女は俺を見た。
薪の受渡し控えだった。宿が先に買い付けた分のうち、倉へ届いた日が空欄になっている物へ、今日の欄を作るよう求められたという。
「荷は前からある。入った時の小札も見た。ヨレスは、倉に着いた日じゃなく、市の荷として扱い始めた日を書けばいいって」
「断った?」
「そこは、受け渡してからにしますって言った。そのあと、小札をどこへしまったか聞かれた」
エルナは膝の上の手を握った。
「私、最初は気づかなかった。届いた日と書いた日が別なのは、普通にもあるでしょう。だから、聞かれた意味がすぐ分からなくて」
「書き忘れや、後から纏めた所を直す仕事なのに」
エルナは膝の上の指を一度開いた。
「分かりますって、私、最初に言ったんだ。あの人はそこから先を、私がやってくれると思った」
声の終わりが、わずかに震えた。寒さのせいにできる程度の震えだったので、俺は彼女の顔を覗き込まなかった。
「小札は?」
「元の袋にある。宿の人が見たいなら、見せる」
「紹介はなくなるかもしれない」
言ってから、自分がヨレスの続きを話していることに気づいた。
エルナは口を尖らせた。
「なくなると思う。だから今、腹を立ててる」
俺は少しだけ笑った。彼女も一瞬笑ったが、すぐ火へ目を戻した。
「ここを開けたら、明日の朝にはどうするの」
「三束じゃ足りない。買ってある薪を出したい宿がいるはずだから、そこへ行く」
「一緒に行く。袋を取りに戻る途中だから」
彼女は乾ききらない外套を着た。
「ノア」
入口で振り返った。
「今度また鳥を買いに行く時は、あなたが払って」
俺は鳥二羽分くらいなら、どんな仕事をしても取り戻してやろうと思った。
*
犬の絵を掲げた宿の女将は、俺の話を半分聞いたところで椅子を蹴った。
「届いてるのかい」
椅子は俺に向けられたものではなかったが、俺の足は少し引っ込んだ。
「三日前にも、奥の荷はまだ揃ってないと言われたんだよ」
エルナが荷札と控えの対応する所を示した。女将は字を追うより先に、自分の宿の焼印を見つけた。
「うちの札だ。これ、私が焼いた。犬の耳を失敗したから分かる」
確かに片耳が角のようになっていた。
「あの倉にある分を、少し分けてもらえませんか。支払いは――」
俺が袋へ手をかけると、女将は先に指を振った。
「売る。余ってる分は売るし、運ぶ分はあんたたちが出す。うちの客を冷やす分まで寄越せとは言わせないよ」
俺はうなずいた。彼女は厚い上着を引っ掛け、夫に帳場を任せて出た。
ヨレスは、女将を前にしてもすぐ倉を開かなかった。
「風が強まっています。搬出の事故には責任を持てません」
「あんたが今日まで止めたんだろう」
「順番を崩せば、ほかのお客様に」
「そのほかのお客も呼んでこようか」
女将の声で、そばの卓が静かになった。
ヨレスは俺を見た。その目には、さっきまで俺の腕を買っていた人間の表情が残っていた。だからこそ、冷たくなった所がよく分かった。
「専任の契約を、明日から取り消します」
「分かりました」
俺の声は、自分が思ったより低かった。
惜しかった。見栄を抜きにして、ひどく惜しかった。帰りに買う物も、返済を進める分も、頭の中にはもう置き場所ができていた。そこから一つずつ持ち出されていくのを、俺は立ったまま見送った。
ヨレスはエルナへも目を向けた。
彼女は彼より先に言った。
「預かっている帳面は、傷まないよう戻してあります。終わった修復の分は、明日受け取ります」
ヨレスは返事をせず、袖の内へ手を入れた。
出てきた鍵は三本だった。彼はそのうちの一本を女将へ渡した。女将が掴む前に、一度だけ指が強く閉じた。
鍵の歯が、彼の掌に細い白い跡を作った。




