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忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
地図の外の家族
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忘れた夫と、覚えている妻

ロスカの春は、排水溝の蓋を開ける音で始まった。


冬の間に溜まった泥を浚うため、朝から石畳が剝がされる。


店先に板を渡して客を通すので、荷物の多い客は工房へ来るまでに何度も腹を立てた。


俺が十四歳になった頃には、その怒りを受け流す技術が少し身についていた。


前世で職を転々とした経験より、二年の糊煮のほうが社会性に役立ったらしい。


ある朝、男女が別々の距離を保って階段を上がってきた。


女はタヴィという名の洗濯屋で、男の手を取ろうとして、やめた。


男は一段ごとに杖を突き、工房へ入ると戸に最も近い椅子に座った。


椅子を選ぶ様子だけで、ここから逃げたいのが分かった。


「婚姻簿の写しをお願いします」


タヴィは言った。


男の名はユル。


冬の橋の事故で救助の魔法を使い、妻と暮らした十七年の多くを失った。


残った記憶は若い頃へ偏っていて、彼は今も自分が故郷で一人暮らしをしている気がするという。


「帳面は持ってます。

証人もいます。

それでも、この人には私が知らない女なんです」


タヴィは俺に説明した。


夫本人より、俺に説明するほうが楽そうだった。


「書類があれば、戻ってもらえるんでしょう」


俺は帳簿を探していた手を止めた。


戻る、が家の話なのか記憶の話なのか、すぐには分からなかった。


オルネは椅子を引いた。


「婚姻の事実は確認できます。

財産や扶養の義務も残ります。

ただ、一緒の寝床へ戻るよう、この紙で命じることはできません」


「夫婦なのに?」


タヴィの声は大きくなかった。


その小ささが、部屋を静かにした。


ユルが初めて顔を上げた。


「嫌な人だと思っているんじゃない。

ただ、夜、隣に人がいると、何かを盗られる気がする。

目が覚めるたび、それを謝らなくてはいけない」


タヴィは膝の布袋を押さえた。


長い指の節が白くなった。


俺は何か救いのあることを言いたかった。


思い出せば戻れる、という嘘なら簡単だった。


しかし橋で燃やした記憶に道は残っていない。


エルナは二人の間へ水を置き、しばらく同じ家の別々の部屋にする方法があると説明した。


扶養や家業の配分は公の立会所で決められる。


記録を読む時間も、読むのをやめる時間も決めてよい。


「毎晩、試験をしていたのかもしれないね」


タヴィは呟いた。


「これは何、あの日はどこ、って。

答えられないと、まだ帰ってこないと思って」


ユルは何も言わなかった。


女は顔を両手で覆わず、窓の外を見た。


人に泣くところを見せまいとする姿勢が、工房の椅子の上では痛々しかった。


二人は婚姻簿の写しを受け取り、同じ階段を下りた。


今度は、タヴィが先へ行きすぎないよう足を遅くしていた。



夕食に、エルナが豆を焦がした。


いつもなら俺を台所から追い出す彼女が、鍋底の黒いものを黙って削っていた。


俺は横から水を入れようとして止められた。


熱い脂に水を入れてはいけない。


前世でも知っていたはずの知識が、この世界では命にかかわる程度に実用的だった。


「今日の二人、どうなるかな」


俺が言うと、エルナは木匙を置いた。


「分からない」


「別れると思う?」


「分からないよ」


二度目は少し強かった。


俺は黙った。


彼女は火を落とし、別の鍋を出した。


「お父さん、母さんが死んだことも忘れる日がある。

その日は、夕方になると椅子を出すの。

帰ってきて立たせたら悪いからって」


俺は窓際の椅子を思い出した。


「そのたび教える?」


「前は教えてた。

正しいことを知っているほうがいいと思ったから」


彼女は新しい鍋へ水を注いだ。


水音がやけに長かった。


「毎回、初めて聞いた顔で泣くんだよ。

私はそれを、訂正って呼んでた」


返せる言葉がなかった。


エルナは俺を見ずに続けた。


「今は、今日は来られないって言う。

それがいいのか、まだ分からない。

でも、毎晩あの顔を見るのは私が嫌なのかもしれない」


彼女は自分を優しい娘として説明しなかった。


俺はそれに安心し、同時に恥ずかしくなった。


俺ならたぶん、父を思いやって嘘をつくのだと話していただろう。


「豆、僕が煮る」


俺が言うと、彼女は鍋を渡した。


「塩、最後ね」


「知ってる」


「知らない顔だった」


それから少しだけ笑った。


鍋を受け取った俺は、誰かに好かれるために何かを言うより、

豆が煮えるまで台所にいるほうが難しい日もあると知った。




     *



夏、工房に大きな肖像板が運び込まれた。


運んできた二人の男は、階段の曲がり角で何度も壁にぶつけ、そのたびに持ち主の女へ謝った。


板の表には、人の顔が灰色の濃淡で写っていた。


写真に似ているが、輪郭の一部だけが妙に鮮明で、背景は水に溶けたようにぼやけている。


写し絵と呼ばれる技術だった。


短い視覚の体験を、薬剤を塗った板へ定着させる。


普通の絵と違って筆は要らないが、見る人の注意に左右されるため、正確な複製にはならない。


本人にとって気になる顔の一部だけが濃く写り、無関心なところは薄れる。


身分の確認にも使えるが、それだけで同一人物と断定してはならないと、授業では教わった。


板には、太った男が一人写っていた。


口元に笑みがある。


持ち主の女はサネルといい、パン屋を継いだばかりだった。


「父のです。

角のほうが剝がれてきて」


オルネは表面を確かめ、湿気が入り込んだのだと言った。


補強すれば広がりは止められる。


元の絵を見ていないので、欠けたところを本物のように描き足すことはしない。


サネルは少し落胆した。


それから頷き、板を預けた。


もう一つの用件は、小さな封片だった。


「父の焼き方が入ってるはずなんです。

兄が相続して、私には売るって」


彼女は封片と一緒に薄い契約書を置いた。


父は店を娘へ、記憶の箱を息子へ残した。


公平に分けたつもりだったらしい。


だが、娘は店で働き続け、息子は遠くに住んでいた。


残された物の価値は、同じではなかった。


エルナは契約書を読み、箱の中身まで息子の所有と認める記載があることを説明した。


ただし、封片に含まれる他人の私事を公表したり転売したりする権利まで含むとは限らない。


工房で確認できるのは保存状態と、開封による危険の程度だった。


「焼き方を思い出せれば、父のパンに戻せるんです」


サネルは言った。


俺は、記憶があれば技術もそのまま身につくわけではないと説明した。


知識は得られる。


手の動きを眺めることもできる。


それでも同じ生地の変化を自分の指で判断するには練習が要る。


他人の一人称を取り込むと、自分の体験と混ざって具合を悪くする人もいる。


彼女は頷いたが、諦める様子はなかった。


「今のパン、お客さんが違うって言うんです」


俺はその店のパンを食べたことがあった。


特に不味いとは思わなかった。


そう言うと彼女は笑った。


「不味くないのと、あの店のパンなのは、違うんでしょうね」


その言い方が、妙に耳に残った。



封片は、父本人へ戻すなら比較的安全な状態だった。


しかし父は亡くなっている。


娘に開けば、角からかなりの量が失われる可能性があった。


開封に立ち会う日は、サネルの店へ行った。


竈の熱で、外より二季節ぶん暖かかった。


生地が布の下で膨らみ、粉の匂いがした。


彼女は先に今日の分を焼き終え、店の札を裏返した。


俺は無責任に胸を躍らせていた。


他人の記憶を受け取る現場を間近で見るのは初めてだった。


勉強になると思った。


彼女にとっては店の先行きを左右する出費だということを、少し脇へ置いて。


エルナが封片の袋を開けた。


オルネはサネルへ、自分の名と年齢、今日ここへ来た理由を言わせた。


受け取った体験と現在を区別するためだった。


俺はその言葉を記録した。


サネルが鉱石へ触れた。


すぐには何も起こらなかった。


やがて彼女の肩が緩み、目を閉じた。


右の手が、何かを量るように空中で動いた。


「もっと、待つんだ」


彼女は低い声で言った。


父の口調なのかもしれなかった。


数十秒後、封片の端が白くなった。


オルネが手を離させ、今の名を尋ねた。


サネルは自分の名を言い、目を開いた。


その途端、泣き始めた。


焼き方の記憶ではなかったのかと思った。


彼女は首を振った。


「焼き方だった。

でも、娘が帰る時間だから、小さいのを一つ残してた」


彼女は粉のついた指で目元を押さえた。


「私、父が店のパンを食べさせてくれるのは、売れ残りだからだと思ってた」


仕事の記憶には、仕事以外のものもあった。


技術だけを切り出せるように付けた札は、中身を単純にするわけではなかった。


彼女はしばらく泣き、落ち着くと立ち上がった。


生地を作り直すという。


俺はすぐに父の味へ近づけるのだろうと思った。


だが彼女は、その日覚えた通りには焼かなかった。


「竈が変わってるんです。

父の頃より片側が熱い。

だから待つ時間は同じにできない」


彼女は生地を確かめ、火の位置を動かした。


記憶を受け取っても、今の世界を見る必要があった。


帰りに、小さなパンを一つずつもらった。


エルナは半分に割り、湯気が消える前に食べた。


「父親の記憶、欲しくならない?」


俺は聞いた。


彼女の父の封片のことは、まだ詳しく知らなかった。


彼女はしばらくパンを見ていた。


「なる。

でも、欲しいと思う私だけで決めていいか分からない」


彼女は残りを包んだ。


父に持ち帰るのだろう。


俺は自分の分を全部食べた。


半分残せばよかったと、食べ終えてから思った。



数日後、肖像板の修理を終えた。


欠けた一角は、欠けたまま補強した。


サネルは板を受け取り、もう綺麗にしなくていいと言った。


右下に、父が粉袋をぶつけた古い傷があった。


以前はそれも消してほしいと言っていたらしい。


工房へ戻ると、ロイが窓辺でパンを食べていた。


エルナの持ち帰ったものを、薄く切って焼き直したのだという。


「娘がくれたんです」


ロイは俺に言った。


エルナは背を向けたまま、棚の壺を動かしていた。


俺は彼女を呼ぼうとして、やめた。


その言葉を誰よりも近くで聞いているのは、彼女だった。


ロイが明日も覚えているかは分からない。


それでも、その日の窓辺には父と娘がいた。



学びは、仕事の隙間にあった。


週に二度、記録院の講堂へ通った。


授業料は公共設備の修繕帳を写す仕事で払った。


裕福な家の子は新しい筆を持ち、俺は削りすぎて短くなった筆を握った。


俺より術が下手なくせに新しい道具を持つ連中が、どうにも気に入らなかった。


実習で、俺は一番先に水を石段の上へ運べた。


褒められた帰り道、気分よく小さな灯りを出して歩いた。


その晩、母の鍋の色を思い出せなくなった。


差し出したのは授業の緊張だった。


だが褒められて帰った経験は、家で褒められた記憶に繋がっていた。


止め目は流量を抑える道具であって、心の全ての枝を見せる道具ではない。


俺は帳面に書いた。


必要のない灯りを出した。


理由は、通りの人に見せたかったから。


書いたからといって、次の見栄がなくなるわけではなかった。


それでも、昨日の自分を無罪にする作業には、少し時間がかかるようになった。

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