忘れものに家賃はかかる
ご覧いただき誠にありがとうございます。
ぜひ感想をお聞かせください。
完結までの構想はありますが、皆様のご意見を支えに作品を作り上げていく方針です。
都市の匂いは、到着する半日前からしていた。
まず革を煮る臭気があり、次に染料の酸っぱさが加わった。
ロスカ市の城壁が見えた頃には、馬糞と焼いた肉の匂いが混じり、
腹が減っているのか気分が悪いのか分からなくなった。
俺は荷車の上で外套を直し、都会の人間に田舎者だと思われない顔を作った。
どんな顔がそう見えるのかは、もちろん知らなかった。
門番は俺の顔より、荷台の札を見た。
「居所は」
「南記録街、井戸脇の三番。
オルネ工房」
エルナが答えた。
門番は台帳をめくり、彼女の名を見つけて頷いた。
俺の名前は新しく書き加えられた。
出生地、保証人、借金の有無。
借金については、オルネが村の復旧負担だと説明した。
「年十二。
徴取契約は単独不可。
保証人の名は使えても、記憶は使えん。
分かるな」
門番は俺に言った。
俺は分かるという顔をした。
二つ目の文の意味は後でエルナに聞いた。
保証人は借金の返済を引き受けられるが、未成年者の記憶を勝手に売れないという意味だった。
「じゃあ、親も?」
「できないことになってる」
言い方が引っかかったが、荷車が門をくぐった途端、その理由を聞くのを忘れた。
道の両側に、三階も四階もある建物が並んでいた。
上の階ほど張り出しているので、空が細い。
窓から洗濯物が揺れ、道端では靴底を打つ音がした。
石で舗装された大通りの真ん中を溝が走り、水がゆっくり流れている。
俺は美しい噴水を期待していたが、最初に見た都市の水景には葱の切れ端が浮いていた。
工房は井戸に面した古い建物の二階にあった。
一階には貸金と質預かりを兼ねた店があり、階段には濡れた紙と糊の匂いが染みついていた。
オルネは戸を開けるなり窓を押し上げ、仕事机の埃を指で拭った。
「家賃は寝床代に含む。
食事は賄い。
給金の四分の一を村へ送る。
勉強代は仕事で払え」
俺の寝床は屋根裏だった。
窓が小さく、雨の日には桶を置く場所が三つあるという。
三つで済むのか、三つもあるのかは、受け止め方の問題らしい。
エルナは隣の部屋の戸を開けた。
中には成人した男が、窓に向かって座っていた。
膝に毛布を掛け、木の輪を一つずつ箱へ戻している。
「お父さん、帰った」
男は振り返った。
エルナを見ると礼儀正しく会釈した。
「お帰りなさい。
オルネさんのお弟子さん?」
「うん。
今日もね」
彼女はいつも使う挨拶のように答えた。
男は俺を見て微笑んだ。
「君も?」
俺は頷いた。
「紙の端は揃えるといい。
揃えない人の仕事は、あとで読む人が疲れるから」
男はそう言い、また木の輪を数え始めた。
エルナは毛布の端を膝へ戻し、戸を半分閉めた。
「ロイ・ヴェル。
前は記録院で働いてた」
彼女の父親について、俺が最初に教わったのはそれだけだった。
最初の仕事は糊を煮ることだった。
魔術の勉強は、と聞くと、オルネは紙を破らずに剝がせるようになってからだと言った。
翌日は紙を乾かし、その次は帳面を運んだ。
紙の束は思ったより重く、価値のある知識ほど階段を上らせたがる性質があるらしかった。
工房には様々な客が来た。
祖母の手紙を綴じ直す女。
焼けた証文から金額を読みたい商人。
亡くなった夫が残した封片を、開けるべきか相談する老人。
封片は薄い鉱石板で、光へ透かすと乳白色の筋が見えた。
持ち主が記憶を切り離して預ける。
コピーではないから、預けたあいだ本人はその場面を体験として思い出せない。
本人へ戻せるものもあるが、長く置けば輪郭は薄れ、他人に開かせれば余分に擦り減る。
工房では封片の内容をむやみに見ず、
所有者の名と封じた日、預ける範囲を記した紙を先に調べた。
「日記より高級ってこと?」
俺が聞くと、オルネは糊の鍋を指した。
「火を強くするな。
底だけ煮える」
俺は火を弱めた。
「日記は地図だ。
封片は、途中で塞いでおいた道だ。
まだ繋がっていれば開けられる。
燃やした道は戻らん。
地図を十枚写しても十本にはならん」
老人はそう言って、客の持ち込んだ封片を布へ戻した。
その客は、夫の記憶を売れば冬を越せると言った。
息子に家を買ってやった記憶だという。
息子は別の町へ移り、連絡が途絶えていた。
俺はそんな息子のための記憶なら売ってもよいと思いかけ、
母から届いた最後の靴下を思い出した。
エルナは値段を告げる前に、老人へ聞いた。
「残しておきたいのは、ご主人の目で息子さんを見ることですか。
それとも、息子さんにいつか渡すことですか」
老人は即答できなかった。
手袋を脱ぎ、また嵌めた。
結局、その日は持ち帰った。
「売らせれば手数料が入ったのに」
閉店後、俺は言った。
「今日は決めなくていい人だったから」
エルナは器を洗っていた。
声が水音に混じった。
「今日中に売らないと食べられない人も来る。
そういう人に、同じことを言ったら嫌味になる」
彼女は俺より十三か月長く生きただけだった。
しかし俺が前世の三十一年を数に入れても、知らないことをいくつも知っていた。
冬の初め、村から手紙が来た。
ミアの字だった。
父が今年は手袋を二組買ったこと、母が鍋を焦がしたこと、トマが字を習い始めたこと。
五脚目の椅子については、父が足の長さを揃えようとして、
結局ほかの三本へ木を足した、と書いてあった。
削るのが嫌だったらしい。
手紙の最後に、送金を受け取った、とあった。
俺は自分がここに来た理由をようやく実感した。
村を離れても、俺のしたことは向こうに残っている。
金を送るための封筒を閉じると、冒険者として世界へ羽ばたいている気分はかなり薄くなった。
その代わり、封筒の重さが少しだけ頼もしかった。




