紙を取り返しに行く
エルナが戻ってきた時、袖口に黒い染みがついていた。
俺が聞くと、紙屋の仕事場で濡れた版へ触れたのだという。爪の際にも墨が入り、洗ったため指先が赤かった。彼女は火のそばへ椅子を寄せ、しばらく手だけを乾かした。
「刷る前だった?」
「便り全体は。私の頁は試しが二枚あった。一枚は向こうで破った。もう一枚は編集を頼まれてる職人が持ってた」
彼女は袋から折れた紙を出した。
「その人の仕事場まで行った」
「何て言われた」
「載せるなと言うなら、最初から持ってくるなって」
俺は紙を見た。
エルナの名が、墨の黒い線で印刷されている。手書きより整い、その分だけ他人の世界に置かれた字に見えた。
「私、これを見るのを楽しみにしてたんだ」
彼女は自分の名へ触れた。
「いつも、修復した人の名前は端に小さく入るでしょう。それでも仕事なんだけど。今回は、ここに私が考えたことが載ると思って」
俺は座った。
勝ったら自分の名がつくと思っていた道具を、今日も作ってきた。彼女の欲が分からないふりをするのは難しかった。
「次に載せればいい、って言ったら怒る?」
「たぶん」
「じゃあ、言わない」
エルナは小さく笑い、それから目を閉じた。
「お金、かかった」
「うん」
「刷るつもりで組んだところを外す分と、試しの分。明日の修復も、別の人へ回してもらった。フェルドに、自分で戻した物を見てもらう」
彼女は謝るための文を、俺に読ませなかった。
紙を持ってフェルドの家へ行き、しばらく戻らなかった。夕刻になって帰ってきた時、袋は膨らんだままだった。
「受け取ってもらえなかった?」
「この紙を自分の家へ置きたくないって。どこへ渡したか、誰が読んだかは聞いてもらえた。読んだ人に、本人へ何も聞きに行かないでほしいと私から頼んだことも」
彼女は窓辺へ袋を置いた。
「今すぐ平気な顔をしてくれとは、言わなかった」
俺は頷いた。
その晩は、別々の仕事をした。彼女は取り下げた紙の扱いを短く書き、俺は先端の図を仕上げた。時々、どちらかが灯を寄せた。火を大きくすると、もう片方の紙へ影が落ちる。その度に、少し待って、と言い合った。
翌朝、フェルドの受理端を閉じる手当が行われた。
俺が一緒にいたのは、彼が呼んだからだった。エルナは工房に残り、俺たちの道具の説明を、作業員と一緒に読んでいた。書き手の分かる言葉が使い手にも通るかを、端から確かめる仕事だった。
フェルドは椅子の肘を握っていた。
テムは契約済みの補助片を器具へ入れ、その札を彼へ見せた。原体験を持っていたのは成人の荷役人で、吊り荷を支えたまま、合図を待っていた短い時間だという。その一片が、今は別の誰かの開いた端を安全に扱うため、少しずつなくなる。
「俺の記憶を、もう一度出すんじゃないな」
フェルドが尋ねた。
「出さない。開いた口だけを閉じる」
テムは手首の下へ布を置いた。
「昨日の音は、取り除けないかもしれないよ」
彼は頷いたが、すぐには手を出さなかった。
俺は窓を見た。雨がやみ、隣の屋根から雫が落ちている。一本の雫が軒に長く残り、次の雫と合わさって、急に落ちた。
フェルドが手を出した。
器具の先で、薄い光が糸のように曲がった。手首から数寸しか離れていないのに、その間だけ、目で距離を測りづらかった。テムは位置を変えずに待った。補助片の白い筋が細くなった。
俺は自分の呼吸の音を聞いていた。
光が、閉じた輪になった。
すぐに消えた。
テムが止め目を下ろし、道具を外した。フェルドは肘を握ったまま、何度か瞬きをした。
「どうだい」
「何も……」
彼は目を閉じた。
「いや。考えると、やっぱり音はある」
テムは端の検針を確かめた。表示は閉じた位置にあった。別の針でも、同じところへ止まる。
フェルドは目を開け、俺を見た。
俺は、治ったな、と言えなかった。
彼もそれを聞きたそうではなかった。しばらくして、椅子の肘から指を離した。
「腹が減った」
机の端には、朝から置いてあった硬いパンがあった。俺はそれを渡した。フェルドは一口齧って顔をしかめ、二口目は湯につけた。
手当を終えて工房へ戻る途中、俺はテムに自分の索引を見せた。
二つの系列を示す紙。まだ現物は別の保管先にある。
彼女は立ったまま読み、俺を見た。
「今度は、あなたの順番だね」
俺は頷いた。
「死ぬ前に聞いた言葉があります。こっちへ来る前の、一番最後に」
「同じ仕組みかは、この紙からじゃ分からない」
「何があれば分かる?」
テムは紙を返す前に、指で二箇所を示した。
「本人の話だけじゃ、体験のどこに感じるかまでしか追えない。現物に残った受け口の印と、こちらでいつ扱ったかを別に書いた控えが要る。番号を書き写した日だけを持ってきても足りないよ」
母の林檎なら笑い話で済んだ。俺は受け取った日と、帳面に書いた日を見間違えた。
今度は、自分の最期の時刻だった。
俺は必要な物をその場で書き、エルナにも見てもらうと言った。
テムは歩き出した。借りた方の靴が、石に当たる度に少し高い音を立てた。
俺は紙を畳み、鞄の一番乾いたところへ入れた。




