その話は誰のもの
帳面を開くと、乾いた糊の匂いがした。
エルナは浮いた綴じ糸を押さえ、紙の下へ細い板を滑り込ませた。頁の角には、今より幼い字で小さな数字が書いてある。フェルドは見てほしい場所を指し、その先の頁を手で覆った。
「そこまででいい」
「うん」
エルナは指された部分へ目を落とした。
異界の足場が折れた日の記述だった。白く照り返す壁、壊れる前に金具が甲高く鳴ったこと、胸が浮き、誰かの手が離れたこと。途中の一行が強く消してある。フェルドはそこへ指を置き、まだ考えている時に書いたから、と言った。
俺は、消した言葉が何だったか知りたくなった。
彼は指をどけなかった。
鈴についての記述はなかった。別の季節に書いた同じ最期の頁にも、長一短一の音は出てこない。エルナは古い紙の隅を確かめ、後から差した頁がないことだけを教えてくれた。
フェルドは水を飲んだ。
「親の家では、向こうのことを話さなかった。母が困るんだ。ここでもちゃんと育ててるのに、どうしてそんな寂しい顔をするんだって」
彼は唇の水を袖で拭いた。
「それで、ここへ書いた。誰も返事をしないから、便利だった」
俺は帳面の厚みを見た。俺より長く、こちらの世界で暮らしてきた男だ。その何年分かが、誰からも返事を求めず、この狭い紙の間へ入っている。
外で、子供が石を蹴った。
窓の下をいくつもの足が走り、誰かが転んで泣き始めた。フェルドは顔を上げ、しばらくそちらを聞いていた。
「昔の世界は本当にあったのかって、昨日から考えてる」
言い終えると、自分に腹を立てたように鼻を鳴らした。
俺は、あった、と即答できなかった。自分の三十一年を支えたい気持ちが、彼の三十何年かを勝手に支柱に使おうとする。
だが、俺はあの海岸へ行った。
湿った砂へ手をつき、助けを呼べなかった。そこまで全部、嘘だと言われて頷く気もなかった。
「装置を開きます」
俺は言った。
「何が昨日そこを通ったか、まず見ます。それなら、今ここで手が届く」
フェルドは返事をしなかったが、帳面を胸へしまう手は、朝より少し落ち着いていた。
その日の夕方、町の受理記録を扱うテムが来た。
髪の短い年配の女で、裾から覗く靴が左右違う色をしていた。道で片方を泥へ落とし、借りてきたのだという。迎えた俺が靴へ目をやると、彼女は、足を診に来たのではないでしょう、と言って装置の箱へ直行した。
フェルドは、幼い時に外部体験を受け取った控えを持参していた。セドのように最近、職人の一場面を譲り受けた者とは、最初に繋がった口が異なる。
テムはその古い控えを読み、彼の手首へ検針を当てて、外部受理の端の状態を確かめた。
「この端、閉じた後の印がないね」
カザが顔を上げた。
「雇った時には支障がないと言われた」
「普段は何も繋がないでしょう。昨日、どの台で照合した」
俺たちは荷場へ戻った。
夕暮れの中で大きな荷が動き、建物の奥は早くも暗かった。テムは開始装置を置いた台へ腰をかがめ、布の下に隠れていた照合板を持ち上げた。
裏へ、細い印が残っていた。
長いものが一つ。その隣に、短いものが一つ。
俺は覗き込み、息を止めた。
「こっちにも、行ったんだ」
声にすると、カザが俺を押しのけるように近づいた。
板の端から、古い枝線が下へ続いている。その先は、昨日、俺が鈴と一緒に動かした開始の線へ繋がっていた。
エルナが袋から紙を出した。
その目に浮いた明るさを、俺は知っていた。後から貼られた紙の下に文字を見つけた時、彼女は同じ目をする。怖い物を前にしていても、見えなかった順番が見えそうになると、指が速くなる。
俺も同じだった。
その夜、彼女は宿へ戻ってからも眠らなかった。
俺は隣で先端の寸法を直していた。紙を引く音がし、顔を上げると、彼女は二枚目の清書へ入っている。フェルドの名は書かれていない。北の加工町、外部体験を持つ成人の職人、幼少の受理、昨日の信号。
「何に使うの」
「町の紙屋が、冬前に職人向けの便りを刷るでしょう。受理の装置について、短い報告を載せられないかと思って」
彼女は筆を置かずに言った。
「最初に何が起きたかをまとめるの。続きは調べてから。誰が確かめたかは、残るから」
俺は彼女の名が書かれた箇所を見た。
エルナ・ヴェル。
その隣には、師の名も俺の名もなかった。
嬉しそうだ、と俺は思った。嬉しいなら、手伝いたかった。
翌朝、彼女は第一報を紙屋へ持っていった。
午後、フェルドが工房の戸を乱暴に開けた。
手には、刷る前の原稿を写した細い紙を握っている。紙屋の男が、まさかあんたの話か、と家へ持ってきたのだという。
エルナが立った。
「まだ、刷ってはいないはず」
「それで?」
彼の声に、彼女は止まった。
「あんたには、あの頁を直してくれと頼んだ。昨日の台も調べてくれと頼んだ。俺が落ちるところを、町に配ってくれとは頼んでない」
俺は椅子から腰を浮かせた。
フェルドの目がこちらへ向いた。
「あんたも、読んだのか」
「読んだ」
声が喉へ引っかかった。
「僕も、止めなかった」
彼は手の紙を台へ置いた。くしゃくしゃになっているのに、エルナの綺麗な字だけはよく読めた。
「これを読んだ奴は、何を聞くと思う。空の色か。どうして落ちたか。前の家族は何人いたか。俺はそれを、一人ずつに答えるのか」
エルナは紙を取ろうとして、手を止めた。
「取り下げる」
「もう知ってる奴はいる」
「その人たちにも、私から話す」
フェルドは首を振った。
「俺が昔を信じられなくなった話を、あんたが信じてもらうために使わないでくれ」
彼が帰った後、しばらく誰も動かなかった。
エルナは椅子へ座り、両手を膝の下へ入れた。指が震えているのを、見られたくなかったのかもしれない。
俺は、君はよい仕事をしたかっただけだ、と言いかけた。
彼女は先に立った。
「紙屋へ行ってくる」
雨が降っていた。外套を取る時、彼女は紐を結び損ねた。
俺は直すために手を出した。エルナはその手を一度見てから、肩を少しこちらへ寄せた。
結べば済むことだけは、俺にもあった。




