↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ潮の灯台守  作者: Tpump6957
借りた痛みの工房
PR
101/196

昨日より古い音

翌朝、フェルドが工房へ来た時、俺は鈴の位置を直していた。


壁の釘が浅く、紐を強く引くと一緒に外れそうだったのだ。片手で押さえ、金槌を取ろうとしたところで、彼の声が飛んだ。


「鳴らすな」


俺は手を止めた。


フェルドは戸口から動かなかった。外套の前がずれて、片方の襟が中へ入っている。髭も剃っていない。昨日は気づかなかった目の下の影が、今朝は頬へ落ちて見えた。


俺は鈴を外し、布の上へ置いた。


「もう鳴りません」


それを見ても、彼はしばらく立っていた。ようやく足を出し、入口に一番近い椅子へ座る。木の脚が石を擦る音に、顔をしかめた。


「寝てないんですか」


「目を閉じると、聞こえる」


イェトが湯を置いた。フェルドは受け取ろうとして手を伸ばし、指を止めた。湯気が顔の下を通った。


「高いところだった」


彼は言った。


「風のない町だった。砂が、壁の隅に溜まってる。空へ向けた板が何枚も並んでて、昼には白く光るんだ。その横を、上まで動く足場で……」


言葉が途切れた。


俺は椅子を引き寄せた。脚を持ち上げ、音を立てずに置く。


「向こうでの?」


彼は頷いた。


幼い頃、この身体へ受け渡されたという、別の世界の人生。その最期について話しているのだと分かった瞬間、俺の背中も冷えた。


フェルドは膝へ掌を押しつけた。


「足場が折れた。人の声がした。落ちる途中で、光る壁が横へ流れる。そこまでは、昔からずっと同じだ」


唇が乾き、彼は一度舌で濡らした。


「その前に、鈴がある」


俺は返事をしなかった。


「長く一度、短く一度」


工房の奥で、刃を置く音がした。


「昨日、僕が鳴らした音を?」


「昨日も聞いた。でも、いま思い出すと、落ちる前にある」


俺は机に伏せた鈴を見た。


昨日まで何の変哲もなかった、小さな真鍮の器だった。縁に黒い指の跡がある。俺がつけた跡かもしれない。手を伸ばして拭うことさえ、ひどく不用心な気がした。


「あんたが、やったのか」


フェルドが聞いた。


俺は口を開いた。


違う、と言いたかった。俺は合図を出しただけだ。誰かの最期へ音を入れるつもりで槌を動かしたはずがない。だが、彼が聞いているのは俺の気持ちではなかった。


「合図を出したのは、僕です」


その先が出てこない。


「あの台は、まだ動かしていません。今日の使用を止めてもらいます」


俺が立つと、彼は腰を浮かせた。


「何をする」


「荷場へ行く」


「もう一度、俺に聞かせて試すのか」


「それはしない」


すぐに言えたのは、それだけだった。


イェトが戸を開けた。俺の手が空いているのを確かめ、何も持たせずに送り出した。


荷場へ着くと、もうカザがいた。


フェルドは朝の始業に来ず、家にもいなかったらしい。俺が話す間、彼女は黙って聞いていたが、使われていない枝線を見たと口にした時、顔つきが変わった。


「あんたは昨日、それを見たの」


「何の枝か、まだ分かってない」


「今その言い方をされると、うちの者が知ってて使ったように聞こえる」


声が鋭かった。


俺も、かっとした。


「そんな意味では」


「試験は五日後だよ。ここでカザの工房が妙な体験を使わせたって話が出れば、私たちは出られなくなる。あの男も、また表へ立てなくなる」


そう言ってから、彼女は口を閉じた。


荷の車輪が外を通った。鉄の縁が石の継ぎ目を打ち、同じ間隔の音が遠のいた。


俺は、自分も似たことを考えていたと気づいた。昨日の音を出したのは俺だ。俺たちの道具が原因だと思われたら、九日間の仕事どころか、今後の仕事も危うくなる。


カザは両手で額を押した。


「あいつは今、どこ」


「イェトのところ」


「一人にしてない?」


「してない」


彼女は俺の返事を聞くと、ようやく息を吐いた。


開始装置を台から外した。共通の線がどこへ繋がっていたか、外す前に俺が印をつけ、荷場の係にも見てもらった。紐や札を片づける手が、いつもより遅かった。昨日までただの道具だった物を、一つずつ疑いながら触っていた。


午後、エルナが工房へ来た。


仕事帳の糊を乾かす間に寄ったのだという。俺は庭へ出て、今朝の話をした。彼女は最後まで聞き、手に持っていた布袋を胸へ引き寄せた。


「古い方の記述は?」


「帳面があるそうだ。本人が昔から書いていた」


「その音が、前にも書かれているか見ないと」


声が速かった。


俺も、そこを見たかった。フェルドのことだけが理由だと言う自信はなかった。


日本の海岸。白い塔。届くはずのない、セラの呼びかけ。


俺はあの声を、死ぬ直前に受け取ったと思っている。


思っている、その言葉が、初めて足の下で沈んだ。


庭から戻ると、フェルドは机の上へ薄い帳面を置いていた。糸が切れかけ、背には別の布が貼ってある。


「開いてもらえるか」


彼はエルナへ言った。


「ここの紙が、剥がれそうで」


エルナは布袋を置き、手を洗いに立った。戻ると、帳面を両手で受け取った。


そこだけは、いつもの慎重な速さだった。


俺は窓辺の鈴を布ごと箱へ入れた。蓋をするまで、誰もその方を見なかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。