昨日より古い音
翌朝、フェルドが工房へ来た時、俺は鈴の位置を直していた。
壁の釘が浅く、紐を強く引くと一緒に外れそうだったのだ。片手で押さえ、金槌を取ろうとしたところで、彼の声が飛んだ。
「鳴らすな」
俺は手を止めた。
フェルドは戸口から動かなかった。外套の前がずれて、片方の襟が中へ入っている。髭も剃っていない。昨日は気づかなかった目の下の影が、今朝は頬へ落ちて見えた。
俺は鈴を外し、布の上へ置いた。
「もう鳴りません」
それを見ても、彼はしばらく立っていた。ようやく足を出し、入口に一番近い椅子へ座る。木の脚が石を擦る音に、顔をしかめた。
「寝てないんですか」
「目を閉じると、聞こえる」
イェトが湯を置いた。フェルドは受け取ろうとして手を伸ばし、指を止めた。湯気が顔の下を通った。
「高いところだった」
彼は言った。
「風のない町だった。砂が、壁の隅に溜まってる。空へ向けた板が何枚も並んでて、昼には白く光るんだ。その横を、上まで動く足場で……」
言葉が途切れた。
俺は椅子を引き寄せた。脚を持ち上げ、音を立てずに置く。
「向こうでの?」
彼は頷いた。
幼い頃、この身体へ受け渡されたという、別の世界の人生。その最期について話しているのだと分かった瞬間、俺の背中も冷えた。
フェルドは膝へ掌を押しつけた。
「足場が折れた。人の声がした。落ちる途中で、光る壁が横へ流れる。そこまでは、昔からずっと同じだ」
唇が乾き、彼は一度舌で濡らした。
「その前に、鈴がある」
俺は返事をしなかった。
「長く一度、短く一度」
工房の奥で、刃を置く音がした。
「昨日、僕が鳴らした音を?」
「昨日も聞いた。でも、いま思い出すと、落ちる前にある」
俺は机に伏せた鈴を見た。
昨日まで何の変哲もなかった、小さな真鍮の器だった。縁に黒い指の跡がある。俺がつけた跡かもしれない。手を伸ばして拭うことさえ、ひどく不用心な気がした。
「あんたが、やったのか」
フェルドが聞いた。
俺は口を開いた。
違う、と言いたかった。俺は合図を出しただけだ。誰かの最期へ音を入れるつもりで槌を動かしたはずがない。だが、彼が聞いているのは俺の気持ちではなかった。
「合図を出したのは、僕です」
その先が出てこない。
「あの台は、まだ動かしていません。今日の使用を止めてもらいます」
俺が立つと、彼は腰を浮かせた。
「何をする」
「荷場へ行く」
「もう一度、俺に聞かせて試すのか」
「それはしない」
すぐに言えたのは、それだけだった。
イェトが戸を開けた。俺の手が空いているのを確かめ、何も持たせずに送り出した。
荷場へ着くと、もうカザがいた。
フェルドは朝の始業に来ず、家にもいなかったらしい。俺が話す間、彼女は黙って聞いていたが、使われていない枝線を見たと口にした時、顔つきが変わった。
「あんたは昨日、それを見たの」
「何の枝か、まだ分かってない」
「今その言い方をされると、うちの者が知ってて使ったように聞こえる」
声が鋭かった。
俺も、かっとした。
「そんな意味では」
「試験は五日後だよ。ここでカザの工房が妙な体験を使わせたって話が出れば、私たちは出られなくなる。あの男も、また表へ立てなくなる」
そう言ってから、彼女は口を閉じた。
荷の車輪が外を通った。鉄の縁が石の継ぎ目を打ち、同じ間隔の音が遠のいた。
俺は、自分も似たことを考えていたと気づいた。昨日の音を出したのは俺だ。俺たちの道具が原因だと思われたら、九日間の仕事どころか、今後の仕事も危うくなる。
カザは両手で額を押した。
「あいつは今、どこ」
「イェトのところ」
「一人にしてない?」
「してない」
彼女は俺の返事を聞くと、ようやく息を吐いた。
開始装置を台から外した。共通の線がどこへ繋がっていたか、外す前に俺が印をつけ、荷場の係にも見てもらった。紐や札を片づける手が、いつもより遅かった。昨日までただの道具だった物を、一つずつ疑いながら触っていた。
午後、エルナが工房へ来た。
仕事帳の糊を乾かす間に寄ったのだという。俺は庭へ出て、今朝の話をした。彼女は最後まで聞き、手に持っていた布袋を胸へ引き寄せた。
「古い方の記述は?」
「帳面があるそうだ。本人が昔から書いていた」
「その音が、前にも書かれているか見ないと」
声が速かった。
俺も、そこを見たかった。フェルドのことだけが理由だと言う自信はなかった。
日本の海岸。白い塔。届くはずのない、セラの呼びかけ。
俺はあの声を、死ぬ直前に受け取ったと思っている。
思っている、その言葉が、初めて足の下で沈んだ。
庭から戻ると、フェルドは机の上へ薄い帳面を置いていた。糸が切れかけ、背には別の布が貼ってある。
「開いてもらえるか」
彼はエルナへ言った。
「ここの紙が、剥がれそうで」
エルナは布袋を置き、手を洗いに立った。戻ると、帳面を両手で受け取った。
そこだけは、いつもの慎重な速さだった。
俺は窓辺の鈴を布ごと箱へ入れた。蓋をするまで、誰もその方を見なかった。




