第9話 見る
四回裏、同点に追いつかれ、なおも無死二、三塁。
竹田はタイムを取って、マウンドへ行った。
「今の滝川。何を見て、外に変えた?」
Kは、二塁の滝川を見た。
それから右手を、体の前で少し早く動かした。
「三球目? 振り出しが早くなったから、外?」
Kがうなずく。
「俺は、まだ外にも届くと思った」
竹田は、ミットで口元を隠した。
「でも、お前が外って言うから、その通りに構えた。お前が何か見つけたんだろうと思って、譲った」
少し間があった。
「聞けばよかったな」
Kは、手の中のボールに目を落とした。
球種は伝わっていた。
場所も伝わっていた。
竹田が何を見ていたかだけが、伝わっていなかった。
「今は次だ。武藤。まだアウトは一つも取ってない。まず、打者を一人」
竹田が戻っていく。
Kは、三塁の野間と二塁の滝川を順に見て、武藤に向き直った。
直球で、先にストライク。
低めを見せて、ファウルを打たせる。
最後はスプリット。
空振り三振。
一死。
六番の江口は、二回に犠牲フライを打っている。
打球は、浅い右飛だった。
三好が前へ出て捕る。
三塁の野間は、走らなかった。
二死。
七番の矢崎を三ゴロに取って、Kはベンチへ戻った。
四回、六十三球。
同点のままだった。
*
ベンチの奥で、竹田は真壁とKを呼んだ。
「滝川の最後、俺は迷ってました」
「球は合ってたんだろ」
「合ってます。俺が出した球が来ました。でも、俺が見てたものと、こいつが見てたものが違ってた」
竹田は、Kの方を見た。
「俺は落としたかった。でも、こいつの合図が外だったから」
竹田は、自分の右手を少し後ろへ残してみせた。
「滝川、身体は先に動いてた。でも、手はまだ後ろに残ってた。だから外の真っすぐにも届くと思ったんだよ」
Kは、その右手を見ていた。
「で、お前は納得したのか」
真壁が聞いた。
竹田は、すぐには答えなかった。
「……納得しないまま、構えました」
竹田はKに向き直った。
「お前が何か見てるのは分かった。でも、毎回お前が合ってるわけじゃない」
Kは、すぐにはうなずかなかった。
しばらく、グラウンドの三塁線を見ていた。
それから、ゆっくりうなずいた。
「球種と場所は、分けられた。次は、何で変えたかだな」
真壁が言った。
竹田は、試合前からベンチに置いていた紙を出した。
球種。
場所。
その下に、短く書き足す。
今の打者。
竹田は、自分の目元を人差し指で軽く示した。
「これを、今の打者を見て考えが変わったって合図にしよう。予定と違う球を投げたくなったとき、何か見たんだって、それだけ分かれば、俺も見直せる」
Kが、同じように目元へ指をやった。
「そう。それだけでいい」
「合図を出したら、すぐ相手の言いなりになるって約束じゃないからな。合わなければ、一度仕切り直せばいい」
真壁が言った。
竹田はうなずき、Kを見た。
「今度は、俺が出し直した方も考えろよ。俺も、打者見てるから」
今度は、すぐにうなずいた。
*
「竹田。次、三好からだぞ」
大島の声がした。
「分かってます」
「分かってる顔じゃなかったぞ」
竹田は、紙を置いてヘルメットを取った。
五回表。
三好が内野ゴロに倒れ、竹田が打席に入る。
西園は、二回に二点を取られてから立ち直っていた。
初球、外角。
見送ってストライク。
二球目も、外を意識して構えた。
少しだけ、内へ入った。
竹田が振った。
打球が右翼へ上がる。
江口が下がる。
フェンスへ近づく。
さらに下がる。
スタンドへ入った。
3対2。
竹田は、大きく拳を上げることはなかったが、顔は少し緩んでいた。
「自分の打席も見えてるじゃねえか」
本塁で迎えた大島が言った。
「見てますよ」
ベンチの奥で、Kが立っていた。
「もう一回、勝ち越したぞ」
竹田が片手を上げる。
Kは、その手に自分の手を軽く合わせた。
*
五回裏。
八番の立花を、二球で内野ゴロに取った。
九番の川瀬には、竹田が低めのスプリットを出した。
Kは首を振らず、グラブの先を小さく内へ向けた。
竹田は、同じ球のまま、構える位置をずらした。
五球目で、空振り三振。
水城は外野フライ。
三人で終わった。
「今の、サイン決まるの早かったな」
ベンチへ戻りながら、竹田が言った。
「何を変えたいか分かったから、すぐ決まった」
まだ、理由を全部聞いたわけではない。
それでも、探し直す範囲は狭くなった。
「それでいい」
*
六回裏。
大楠に左前へ運ばれ、野間が一塁側へ送った。
Kは今日、二塁を見なかった。
黒田のミットへ投げる。
一死二塁。
四番、滝川。
今日は、二本とも二塁打を打たれている。
初球、低め。
見送る。
二球目、外角の直球。
ストライク。
三球目、内角の直球。
滝川が振る。
ファウル。
内の球をファウルにした。
一ボール二ストライク。
竹田は、三球目を思い返した。
前足は、早く着いていた。
それでも、手は後ろに残っていた。
四回と同じだ。
竹田は、スプリットのサインを出した。
ミットを、滝川の膝元へ置く。
内に落とす。
Kは、うなずかなかった。
グラブを持たない右手の指で、目元に軽く触れた。
今の打者を見て、考えが変わった。
それから、グラブの先を小さく外へ向けた。
球種はスプリットのまま、外に落としたい。
Kも、滝川の前足を見ていた。
竹田は、首を横に振らなかった。
同じサインを、もう一度出す。
ミットは、膝元から動かさなかった。
Kが、滝川を見た。
前足。
膝。
バットを握った手。
長い間があった。
Kは竹田を見て、うなずいた。
四球目。
スプリット。
膝元へ落ちる。
滝川が振った。
バットの根元に当たる。
詰まった打球が、センターへふらふらと上がった。
早川が前へ出て、捕る。
二死二塁。
滝川は、一塁へ走りかけた足を止め、手のひらを一度振った。
今日初めて、滝川をアウトにした。
竹田はもう、次の武藤を見ていた。
*
武藤を三振に取って、六回を終えた。
八十七球。
「もう一回、行けるな」
真壁の言葉に、Kがうなずく。
竹田は、防具をつけたまま隣に座った。
「滝川の最後。外に落としたかったんだろ」
Kがうなずく。
「前足が早く着いたから、外へ逃がす。四回と同じ読みだよな」
もう一度、うなずく。
「そこまでは、俺も同じだった」
竹田は、自分の右手を少し後ろへ残してみせた。
「でも、やっぱ手が残ってる。四回の話、覚えてるか。手が残ってれば外は届く。右の外に落とそうとすると、ちょっと真ん中に戻ってくるしな」
竹田は、その右手を、今度は自分の膝元へ下ろした。
「今回、前足が先に着いて、体重はもう前に乗ってた。そこで内に落とされたら、残した手は伸びきらない」
Kは、竹田の右手を見ていた。
しばらくして、同じように自分の右手を膝元へ下ろした。
うなずく。
「見直した?」
もう一度、うなずいた。
「お前が何か見たって分かったから、俺ももう一回見た。で、今日は譲らなかった」
「それを、全部の球で長々やるなよ」
真壁が、二人の前で言った。
「引っかかったときだけです」
「ならいい」
*
七回裏。
江口に右前へ運ばれ、無死一塁。
七番の矢崎は、ここまで二打席ともアウトにしている。
三球で、一ボール二ストライク。
四球目の低めのスプリットを、矢崎は見送った。
二ボール二ストライク。
竹田は、高めへ直球を外して、目線を上げたかった。
サインを出す。
Kは首を振らず、グラブの先を小さく外へ向けた。
竹田は、打席の矢崎を見た。
バットを少し寝かせて、低い球を待つように構え直している。
高めに外すより、外角いっぱいに入れた方がいい。
竹田は、ミットを外角の低い端へ下げた。
五球目。
直球。
矢崎のバットは、出なかった。
「ストライク! バッターアウト!」
別の球を探さなかった。
同じ直球で、場所だけを変えた。
Kが何を変えたかったのか、投げる前に分かった。
立花は右飛。
川瀬は二ゴロ。
七回、百二球、二失点。
「終わりだ。七回でいい。あとは任せろ」
ベンチの前で、伊丹が言った。
Kは、スコアボードを見た。
3対2。
まだ、先にいた。
*
八回を秋山が三人で抑えた。
九回の柴崎も三人で終わらせた。
「ゲームセット!」
七回まで投げたKに、二つ目の勝ち星がついた。
竹田は、Kを見つけて片手を上げた。
「守ったな」
Kがうなずく。
「俺も三点取ったからな」
もう一度、うなずく。
「今日は何回うなずかせるんだよ」
横から、大島が言った。
「こいつにだけは、覚えといてもらわないと」
竹田が笑った。
Kの肩が、少し動いた。
竹田は、今度は見ていた。
何も言わずに、もう一度だけ手を出した。
*
ヒーローインタビューには、竹田が呼ばれた。
「K投手とのバッテリーも、三度目になりました。意思疎通はいかがですか」
「前よりは、分かるようになりました」
「何が分かるように?」
「何を嫌がってるか、ですかね」
客席から、笑いが起きた。
「細かいことは言えないですけど。あいつが何を変えたいのか分からないと、こっちも困るんで」
「K投手とは、会話を?」
「俺が話してます」
また、笑いが起きた。
「でも、向こうも返してくれるんで。前よりは」
試合後、榊原は竹田に短く聞いた。
「六回の滝川選手への最後の球は、どちらが決めたんでしょうか」
「最初は、違う球を考えてたと思います。あいつは」
「竹田選手の要求に従った?」
「考え直したんだと思います。俺も、あいつが何か見てるって分かったから、もう一回見たんで」
竹田は、タオルで首を拭いた。
「どっちか一人で全部分かるなら、こんなに時間かかんないですよ」
*
ロッカーに戻ると、Kが小さな画面で七回の投球を見ていた。
矢崎への、外角いっぱいの直球。
「そこ?」
Kがうなずく。
机の上には、試合前の紙があった。
球種。
場所。
今の打者。
Kは「場所」を指した。
「お前、真っすぐが嫌だったわけじゃない。高く外すのが嫌だったんだろ」
Kがうなずく。
「だから俺も、別の球を探さずに済んだ」
竹田は隣に座り、別の場面へ戻した。
四回。
滝川への外角直球。
左翼線へ運ばれた一球だった。
「打たれたやつも、見返せるように取っとくぞ。抑えた球だけ見てても、意味ねえからな」
Kは、ゆっくりうなずいた。
竹田が、三球目のファウルで止める。
「俺は、ここで、まだ手が残ってると思った」
画面の滝川の手元を指す。
Kも、指を伸ばした。
竹田が示した場所より、少し前。
滝川の、前足が着くところだった。
「……やっぱり、そこか」
Kがうなずいた。
竹田は、映像を戻した。
今度は、滝川の前足を見た。
「次は、俺が足を見る」
画面から目を離さずに、竹田が言った。
「お前は、手を見ろ」
Kは、すぐにはうなずかなかった。
画面の中の、滝川の手を見ていた。




