第8話 捕れないサイン
「これ」
竹田哲平が、映像を止めた。
前の登板の六回。
一死三塁で、右打席に村井。
その前で、Kが首を振っている。
「今、俺が出したの、何だった?」
机の上に、竹田が書いた紙が置いてあった。
真っすぐ。
横。
落ちる。
Kは「落ちる」を指した。
「そう。で、次」
映像が進む。
Kがうなずき、指が「真っすぐ」へ移る。
外角の直球。
見逃し三振。
「何で真っすぐにしたかは、試合の後に聞いた。前の落ちる球にバットが出かかったから、次はそっちを気にすると思ったんだろ」
Kがうなずく。
「俺は、逆だった」
紅い頭部が上がった。
「次は振ると思った。一回我慢できたんだから、もう一回同じのが来たら、今度は拾いにくるって」
竹田は、画面の中の村井を指さした。
「同じ動き見て、違うこと考えてた」
村井の前足が着く。
バットが少し出て、止まる。
「結果はお前が正解だった。でも、あのとき俺は、お前が何を見たか知らなかった。ただ真っすぐ投げたいんだと思って、次のサインを出しただけだ」
画面の中で、村井が三振していた。
要求した球が来て、捕って、打者をアウトにした。
結果だけなら、何も困っていない。
それでも竹田は、そこを何度も戻していた。
*
次の映像では、Kが二度首を振り、三つ目のサインでうなずいていた。
「これは?」
Kは「真っすぐ」を指した。
「最初も真っすぐだぞ。嫌だったんじゃないのかよ」
Kが首を横に振る。
それから紙を引き寄せ、端にペンで縦長の四角を描いた。
ストライクゾーンだった。
外側を指して、首を振る。
内側を指した。
「……場所?」
Kがうなずいた。
「最初から、同じ真っすぐを内に欲しかった?」
もう一度、うなずく。
「俺、真っすぐが嫌なんだと思ったから、違う球を出し直してたんだけど」
Kが、紙に描かれた四角の内側をもう一度指した。
「いや、今は分かったよ」
竹田はペンを拾い、Kの前に置いた。
「なあ。こういうの、書いてくれた方が早くねえか。内、とか、外、とか」
Kはペンを見た。
手に取らなかった。
首を、横に振る。
「ストライクゾーンは描くのに、字は書かねえのかよ」
Kは、紙に描かれた四角をもう一度指した。
竹田はしばらく、その指を見ていた。
「……分かったよ。じゃあ、それでいい」
後ろで、椅子が鳴った。
真壁慎吾だった。
「球種はそれでいいけど、場所だけ違う。それもある」
Kがうなずく。
「同じ首の振り方で、全部やるな」
竹田が言った。
「球が嫌なのか、場所が嫌なのか、打者を見て考えが変わったのか。こっちは一回首振られたら、どれなのか分かんねえんだぞ」
「三つしか球がないから、すぐ当たると思ってたか」
真壁が紙を見て言った。
Kは真壁を見て、しばらくして、視線を紙に戻した。
竹田は真壁に呆れたように言った。
「当たったんじゃないですよ」
今度はKを見る。
「毎回、俺が一から探し直してんの」
*
次の登板までに、二人は映像を何本も見直した。
Kが首を振った場面。
サインが決まるまで、時間がかかった場面。
投げた後に、どちらかが相手を見た場面。
止める。
聞く。
Kが指す。
それでも分からなければ、紙に描く。
丸。
線。
打者の前足。
バットの通り道。
「前の球?」
「その前?」
「打った後じゃなくて、構え直したとき?」
Kがうなずく。
首を振る。
同じ外角の直球が、ある打席では嫌で、次の打席ではいい。
「お前、打席の途中でも変えるんだな」
Kがうなずく。
「相手の待ち方が変わったと思ったら?」
また、うなずく。
「分かった。そこは分かった」
竹田は、紙に二つ書き足した。
球種。
場所。
「まず、これを分けよう。全部を一度には無理だ」
決めた合図は、二つだけだった。
球種を変えたいときは、首を横に振る。
球種はそのままで、場所を変えたいときは、グラブの先を内か外へ小さく向ける。
竹田は、紙の上のKの指を見た。
喋れば早い。
何度そう思ったか分からない。
理由は知らないし、聞いても、たぶん答えない。
最初は、それが腹立たしかった。
今も面倒ではある。
ただ、喋らせようとするより、喋らないまま捕る方が早そうだった。
投げる球だけではなく、その前にKが見ているものまで。
「一回決まったら、その球を投げろ。途中で気が変わったら、投げる前にやり直せ。勝手に違うの投げんなよ」
Kは、少し強く首を横に振った。
「それはしないって?」
うなずく。
「ならいい」
真壁が時計を見た。
「そろそろ終わりにしよう。竹田、お前も自分の準備があるだろ」
竹田は画面を閉じかけて、もう一度だけ、村井への最後の直球を見た。
「球は捕れるんですけどね」
「何?」
「投げたい理由の方が、まだ捕れないんですよ」
真壁は少しだけ笑った。
「そっちはミットじゃ無理だな」
「知ってますよ」
*
Kが一軍に現れてから、二週間近くが経っていた。
分かったことは、ほとんどなかった。
分からないことだけが、有名になった。
元プロ。
社会人。
海外帰り。
故障で消えた有望株。
体格が近いというだけで、二年前に三十一歳で引退したメジャーの遊撃手。
89という数字そのものに意味がある、という説。
そして、死者。
候補は増えた。
答えには近づかなかった。
熱だけが、野球の外へ広がっていった。
普段は野球を扱わない番組まで、「謎の89番」を取り上げた。
Kの登板が見込まれる試合は、チケットの抽選倍率が跳ね上がった。
球場の周りには、89と書いたボードを持つ子供が増えた。
東条フェニックスが新しく公表した情報は、一つもなかった。
*
福岡の球場は、本拠地より音が近かった。
スタンドが、グラウンドまで迫っている。
Kの三度目の先発は、初登板で対戦したファルコンズとの再戦だった。
水城。
大楠。
野間。
滝川。
知っている打者だった。
だが、知っていることと、抑えられることは同じではない。
ブルペンで、竹田が内角のサインを出した。
Kは首を振らず、グラブの先を小さく外へ向けた。
竹田が、構える位置を外へずらす。
Kがうなずいて投げる。
ミットが鳴った。
「今のが、場所だけな」
Kがうなずいた。
「それなら分かる。試合でも、それで頼むぞ」
*
一回裏。
一番の水城は、低めを見送り、直球をファウルにして粘った。
五球目のスプリットで、空振り三振。
大楠は内野ゴロ。
野間は外野フライ。
三人で、十二球。
「いいじゃん。今の回、早かった」
ベンチへ戻りながら、竹田が言った。
サインが決まるまでの時間も、短かった。
二回表、大島が倒れた後、黒田と成瀬が続けて安打を打った。
三好が送り、二死二、三塁。
八番、竹田。
相手先発の西園は、走者を背負ってから外角の球が増えていた。
竹田は、二球目の外角を左中間へ運んだ。
黒田が還る。
成瀬も還る。
2対0。
二塁で息を吐く竹田を、ベンチの大島が手を叩いて迎えた。
攻撃が終わると、竹田は防具をつけながらKに言った。
「先に取ったぞ。守るぞ」
*
二回裏。
四番、滝川。
球場の音が、一段大きくなった。
竹田が外角へ構え、Kがうなずく。
滝川は、低めを一球見送った。
直球を一球見た。
次をファウル。
四球目を、右中間へ運んだ。
二塁打。
武藤の二ゴロで三塁へ進み、江口の中犠飛で還った。
2対1。
七番の矢崎を三振に取って、Kはベンチへ戻った。
「滝川は、やっぱ打つな」
竹田が隣に座る。
「今のは、俺たちで話は通ってた。でも、普通に打たれた」
Kはタオルを膝に置いた。
「そういうこともある」
三回裏は、川瀬に右前打を許したが、水城を併殺に打ち取った。
三回で、三十八球。
場所だけを変える合図は、二度出た。
二度とも、すぐに分かった。
球種を探し直さなくていい分、投げるまでが早い。
走者を見る余裕もできる。
これなら、と竹田は思った。
*
四回裏。
大楠に、フルカウントから四球。
野間に中前へ運ばれ、無死一、二塁。
滝川が、打席へ向かった。
初球。
外角の直球。
ストライク。
二球目。
低め。
見送る。
三球目。
内角の直球。
滝川が振った。
三塁側のスタンドへ、ファウル。
一ボール二ストライク。
竹田は、滝川の振り出しを見ていた。
詰まらされただけには、見えなかった。
(外)
竹田はスプリットのサインを出した。
Kが首を振った。
竹田は、一瞬だけ滝川を見た。
それから、球種を変えた。
直球のサインを出した。
Kはうなずき、グラブの先を小さく外へ向けた。
Kはもう構えに入っていた。
竹田は、外角へミットを構えた。
四球目。
外角の直球。
滝川が踏み込んだ。
打球が、三塁手の横を抜ける。
左翼線。
大楠が還る。
野間は三塁で止まる。
滝川は二塁。
2対2。
無死二、三塁。
「……やっぱり」
呟くと竹田は、マウンドを見た。
外角直球。
要求した球は来た。
自分で構えた場所へ。
それでも、打たれた。




