第7話 当てっこ
六回表、無死二塁。
竹田はボールを受け取ると、すぐにマウンドへ行った。
「甘かった」
Kが竹田を見る。
「ストライクに入れるのと、甘く残すのは別だ。今のは高い。落ちたけど、打てるところに残った」
竹田は、二塁の神崎を振り返った。
「五回も見てるからな。入れてくると思ったんだろ」
Kは、手の中のボールを見た。
「だからって、また全部下へ逃がすなよ。いい球もある。今のは甘かった。それだけだ」
少し間があって、Kがうなずいた。
「長谷部は左だ。一、二塁間に転がされたら、神崎は三塁まで行く。まず、打者を一つ取るぞ」
竹田は捕手の位置へ戻った。
二塁で、神崎がマウンドを見ていた。
五番、長谷部。
初球、直球。
ストライク。
二球目を打った。
二塁へ。
大島が捕る。
一塁へ。
アウト。
神崎は三塁へ進んだ。
一死三塁。
ベンチへ戻る長谷部に、仲間の手が次々に伸びた。
アウトになった打者が、迎えられていた。
*
六番、村井。
四回にバントを決めた打者が、今度は普通にバットを構えた。
外野へ飛ばされれば、一点。
内野ゴロでも、転がる場所によっては一点。
竹田は腰を落とした。
初球、スイーパー。
振らない。
ボール。
二球目、直球。
ストライク。
三球目、直球。
ファウル。
一ボール二ストライク。
四球目。
スプリット。
低い。
村井のバットが、出かけた。
止まる。
「ボール!」
二ボール二ストライク。
竹田は、もう一度スプリットのサインを出した。
Kが首を振った。
竹田は、直球を出した。
Kがうなずく。
外角へ構える。
投げる。
村井の前足が着いた。
バットは動かなかった。
ミットが鳴る。
「ストライク! バッターアウト!」
153 km/h。
外角いっぱい。
村井が、球審を振り返った。
二死三塁。
竹田は、返球しながらKを見た。
今、なぜそっちを選んだ。
聞いている時間は、なかった。
七番、高瀬。
ここまで二打数二安打。
安打なら還る。
アウトなら終わる。
一ボール一ストライクからの三球目。
高瀬が振った。
打球が上がる。
センター。
早川が数歩下がり、止まる。
グラブを上げる。
アウト。
先頭に二塁打を打たれた回を、無失点で終えた。
*
ベンチの前で、伊丹が待っていた。
「終わりだ。六回で十分だ」
Kは、スコアボードを見た。
2対2。
「まだ投げたいか」
少し間があった。
Kがうなずく。
「だろうな」
伊丹は短く言った。
「今日は、ここまでだ」
Kは、もう一度うなずいた。
真壁がタオルを渡した。
「六回、九十七球。六安打、二四球、三振五つ。三振は前より少ない。でも、最後の回はよかった」
竹田は、マスクを外して隣に座った。
「神崎、あれ打つんだもんな」
息を吐く。
「入れりゃ打つ。落とせば見送る。嫌になるだろ」
Kは、グラウンドを見ていた。
「向こうも、同じこと思ってるよ」
竹田は少し笑って、ミットを膝に置いた。
「村井の最後。何で真っすぐにした?」
Kは竹田を見た。
それから、自分の前で右手を少し出し、途中で止めた。
竹田が眉を寄せる。
「……振りかけた?」
Kがうなずく。
「その前の、落ちる球で?」
うなずく。
「だから次は、そっちを気にすると思った?」
少し間を置いて、うなずいた。
竹田は、マウンドの方を見た。
「……なるほどね」
それから、Kへ向き直る。
「それ、投げる前に分かると助かるんだけど」
反応はない。
「毎回、当てっこさせんなよ」
Kは、タオルを膝の上で畳み直した。
*
七回から、マウンドには高梨が上がった。
背番号89はベンチにいる。
それでも中継のカメラは、ときどきKを映した。
座っている。
グラウンドを見ている。
味方の打球を、立ち上がって目で追う。
八回表、二死。
三番手の秋山から、神崎が左翼席へ運んだ。
2対3。
三塁側のバイソンズファンが、一斉に立ち上がった。
神崎は、ゆっくりとダイヤモンドを一周した。
Kは、ベンチからその姿を見ていた。
九回裏、片瀬が三振、大島が内野ゴロ、黒田が外野フライ。
「ゲームセット!」
同点で降板していたKには、勝ちも負けもつかなかった。
*
記者席で、隣の記者が荷物をまとめながら言った。
「普通にいい先発だな。マスクがなかったら、そういう記事で終わるんだけど」
榊原は、グラウンドを見た。
Kは、もうベンチから見えなかった。
今日の投球にも、広瀬を思わせるところはあった。
だが、試合全体を見ていると、そこだけでは済まなかった。
相手が低めを見送る。
Kが変える。
相手も変える。
その中で、四回のバント処理だけが、少し違っていた。
「監督、聞きに行く?」
「行く」
*
「研究されていた、という印象は」
「そりゃ、されるだろ」
伊丹は椅子に座ったまま答えた。
「その中で、六回二失点」
「仕事はしたよ」
榊原が聞いた。
「五回から、落ちる球でストライクを取る場面が増えました。次の六回には、その球を神崎選手に打たれています」
「甘かったからな。変えれば全部うまくいくわけじゃない。向こうも、打つために考えてる」
「次回の登板は」
「二試合しか見てないから、まだ分からん。ただ、次も投げさせる」
記者たちのペンが動いた。
伊丹が立つ前に、榊原はもう一つ聞いた。
「竹田選手は、Kの声をまだ聞いていないと話していました。監督は」
「聞いてない」
周りの記者が、顔を上げた。
「俺が話して、あいつがうなずく。会話ってんなら、それだけだ」
「素顔は、ご覧になっていますか」
「見てない」
「球団から、現場には見せないようにという指示が」
「知らん。俺は、顔を確かめろとも何とも言われてない」
「選手を預かる立場として、それは――」
「気持ち悪いよ」
伊丹が先に言った。
記者たちが黙った。
「名前も年も経歴も分からん奴を連れてこられて、投げさせろって言われたんだ。最初から納得してたと思うなよ」
「それでも、次も起用される」
「六回二失点だぞ」
伊丹は、机の上の記録を指で叩いた。
「今日、誰が投げたかは見てただろ。次も投げさせる理由は、それで足りる」
伊丹は立ち上がって、椅子を戻した。
「顔と名前の話は、球団に聞いてくれ。それと、今日はこっちが三点取れなかった。そっちも書いといてくれ」
*
竹田からも、少しだけ話を聞けた。
「六回、村井選手への最後は直球でしたね」
「あれは、あいつが選びました」
「何か理由が?」
竹田は、少し考えた。
「前の球への反応を、見てたみたいです。そこまで全部は言えないですけど」
記者席に戻ると、榊原は伊丹の発言を別の短い原稿にした。
監督も、Kの声を聞いていない。
素顔も見ていない。
誰も知らない、とひとまとめにはしなかった。
大島、竹田、伊丹が、それぞれ自分の見たことを答えている。
送信してから、別のメモを開いた。
国内のどこかに、よく知られた過去がある。
最初は、そう考えていた。
四回の映像を戻す。
転がる。
追う。
捕る。
二塁を見る。
処理に慣れていないようには見えない。
技術が足りない、とも言えない。
この国の野球で何年も投げてきた投手なら、考える前に一塁を選ぶ場面だった。
Kは、そこで一度考えている。
なら、この野球の当たり前を、別の場所で覚えたのか。
海外。
そう打って、手を止めた。
外国人という意味ではない。
外国で長く投げていた日本人もいる。
二度の登板で、育った場所までは分からない。
榊原は、「海外」の後ろに疑問符をつけた。
記事には、入れなかった。
*
負けた夜のロッカーは、勝った夜より声が少なかった。
Kは自分の場所に座り、膝にタオルを置いていた。
テレビに、神崎の本塁打が映る。
次に、六回の二塁打。
Kのスプリット。
右中間。
竹田が通りかかり、同じ映像を見た。
「そこ、入れにいった分、甘くなったな」
Kがうなずく。
「でも、それで次に全部下へ戻さなかったのは、よかった」
テレビは、村井への直球に変わった。
見逃し三振。
竹田はミットをバッグにしまった。
「次も、向こうは今日の映像を見て来るからな。今日振らなかった奴が、次は振るかもしれない。今日打った奴が、次は待つかもしれない」
バッグを持ち上げる。
「こっちにも教えろよ。見えたこと」
Kは、少し間を置いてうなずいた。
「その返事、覚えとくからな」
竹田が出ていく。
Kは、テレビに戻った。
画面では、また神崎の二塁打が流れていた。
Kは、打球を追わなかった。
打つ前の、神崎の足元を見ていた。
前足が着く。
バットは、まだ出ていない。
球が沈んでから、振り出している。
画面が、五回の映像に切り替わった。
坂口への初球。
藤崎への五球目。
どちらも、見逃しでストライクを取ったスプリットだった。
そして六回、神崎への四球目。
三球とも、同じ高さに投げていた。
神崎は、それを待っていた。
Kは、画面の中の神崎から目を離した。
同じ高さに三度続けて投げた投手を、見ていた。




