第6話 二度目
会議室の画面で、滝川のバットが空を切った。
一四八キロの表示が残る。
大阪バイソンズの打撃コーチが、何度も映像を戻した。
同じ球。
同じ空振り。
「これを振らないように」
「簡単に言いますね」
後ろの席から、四番の神崎が言った。
「簡単なら、こんなに見せない」
次の映像では、低めのスプリットを滝川が見送っていた。
「こっちもある。落ちてからじゃバットは止まらん。どこから手を出すか、先に決めておく」
覆面の話をする者は、一人もいなかった。
誰なのかという話なら、移動のバスでも、食事の席でも、もう散々していた。
今、知りたいのは別のことだった。
何が来る。
どこへ来る。
何を振る。
「真っすぐは速い。横の球もある。全部打とうとするな。追い込まれるまでに絞れ」
「低いの捨てたら、真っすぐ来ますよ」
「来るだろうな」
「百六十も」
「毎回百六十は来ない」
コーチは、背番号89の後ろ姿で映像を止めた。
「前の試合を見てるのは、向こうも同じだ。六日前と同じ投手が出てくると思うなよ」
*
六日前には、誰も存在を知らなかった投手だった。
その登板を見るために、球場の外には早くから列ができていた。
手書きの89のボード。
スマートフォンに映した紅い覆面。
「広瀬に似てるってやつ、見た?」
「見た。ちょっと似すぎじゃない?」
「でも、亡くなってるんだろ」
「だから分かんないじゃん」
誰かのスマートフォンから、昔の中継の音声が流れた。
広瀬和巳の名前と、ミットの音。
列は、少しずつ進んでいった。
*
ブルペンで、竹田は最後の一球を受けた。
低め。
沈む。
「いいんじゃない」
Kがうなずく。
竹田はマスクを外して、額を拭いた。
「今日は、下は簡単に振ってくれないと思うぞ。テレビは百六十ばっかり流してたけど、向こうは最後の一球まで見てる」
右手を低く出す。
「ここへ落とせば全部終わり、とは思うなよ」
Kは、少しだけ顎を引いた。
「相手を見て、変えればいい」
真壁が言った。
「ただし、球数も見ろ。前みたいに、途中からじゃなくてな」
Kが、またうなずく。
「返事はするんですよ。うなずくのは」
竹田が真壁に言った。
「それで十分じゃないか」
真壁が笑った。
「試合で困るの、俺なんですけど」
Kが竹田を見た。
「何だよ」
反応はなかった。
竹田は、先に歩き出した。
「今日は最初から頼むぞ」
*
記者席の榊原遼介は、ノートの新しいページに日付を書いた。
先発、K。
球団からの新しい発表は、何もない。
プロフィールも、五行のままだった。
だが、映像は今日、一試合分増える。
一試合だけなら、その日の癖かもしれない。
二度目も、同じなのか。
榊原は、パソコンに開いていた広瀬の映像を閉じた。
今から投げるのは、Kだった。
*
一回表。
バイソンズの一番、坂口が左打席に入った。
初球。
151 km/h。
ボール。
客席の拍手は、六日前ほど大きくなかった。
速いことは、もう知られている。
二球目、直球。
ストライク。
三球目。
低めへ。
沈む。
バットは出ない。
「ボール!」
竹田は、坂口の足を見ていた。
前へ出ていない。
止めたのでもない。
初めから、振るつもりがなかった。
四球目、ファウル。
五球目、横へ大きく曲げる。
坂口の膝が、少しだけ動いた。
ボール。
フルカウント。
六球目。
直球と同じように来て、低めへ沈む。
坂口は見送った。
「フォア!」
(振らない)
二番の沢井。
Kは、前の試合のようにセットで固まらなかった。
二球目、詰まった三ゴロ。
二塁は間に合わない。
一塁へ。
アウト。
坂口は二塁へ進む。
三番の藤崎は、二塁ゴロ。
坂口が三塁へ進む。
二死三塁。
安打は、一本も打たれていない。
それでも、走者は本塁のすぐそばにいた。
四番、神崎。
右打席に入ると、バットの先でベースの外側を一度指した。
珍しいものを見る目では、なかった。
投手を見る目だった。
初球、直球。
ストライク。
二球目、低めのスプリット。
振らない。
三球目、直球。
ファウル。
四球目。
もう一度、低めへ落とす。
神崎のバットは、出なかった。
追い込まれても、来ない。
五球目。
一五二。
神崎が踏み込む。
一、二塁間。
大島が飛ぶ。
届かない。
右前。
坂口が還る。
0対1。
神崎は、一塁で手袋を緩めながら、一塁コーチに何かを伝えた。
五番の長谷部には、ファウルで粘られた。
最後はスプリット。
空振り。
「ストライク! バッターアウト!」
この日、初めての三振だった。
長谷部は、打席を出るときにバットの先を見た。
一回、二十一球。
*
「最後の奴は、振ったな」
ベンチで、竹田がKの隣に座った。
「全員が全部見えてるわけじゃねえよ。ただ、坂口と神崎は、低いのに手出さないって決めてる感じだった」
竹田は、自分の膝のあたりに手を置いた。
「落ちた後じゃなくて、この辺に来たら、もう見送る。そういう待ち方だ」
Kがうなずく。
「でも、長谷部は振った。打者ごとに見ろよ。全員同じだと思うな」
竹田はバイソンズベンチに目をやる。
バイソンズのベンチでは、長谷部が低い位置で手を動かしていた。
神崎が、そこになにやら一言加えている。
「こっちも変えるから」
竹田は立ち上がった。
*
二回。
六番の村井は三ゴロ。
七番の高瀬に、中前へ運ばれる。
一死一塁。
竹田が立ち上がり、内野へ手で合図を送った。
大島が、二塁ベース寄りへ二歩動く。
八番、瀬戸。
三球目を打った。
遊撃手、日下部の正面。
二塁へ。
ベースを踏んだ大島が、そのまま一塁へ。
併殺。
十球。
「こういう回があると、楽だろ」
ベンチで、真壁が言った。
「毎回、三振取らなくていいからな」
Kは、さっき大島が動いた場所を見ていた。
*
三回。
九番の稲葉を三振に取り、一番の坂口に戻る。
竹田は、先に直球でストライクを取りにいった。
坂口は見送る。
次の球にも、すぐには手を出さない。
五球目。
直球。
坂口が振った。
中前。
一死一塁。
(低くなければ)
二番の沢井は右飛。
三番の藤崎には、低めと、横へ逃げる球を見送られた。
直球でカウントを戻し、二ボール二ストライク。
低めへ落とす。
藤崎の前足は着いた。
手は、出なかった。
六球目の直球が外れる。
「フォア!」
二死一、二塁。
竹田は、タイムを取ってマウンドへ行った。
「見えてるな」
Kは、一塁で手袋を外している藤崎を見た。
「低いの振らねえから、最後は真っすぐ。その順番まで待たれてる。球が悪いんじゃない。投げるところが狭くなってる」
竹田は、ミットを胸の前で開いた。
「落とすなら、ストライクになるのも要る」
少し間があって、Kがうなずいた。
「ただし、甘くすんなよ」
言ってから、竹田は自分で眉を寄せた。
「簡単に言ってんのは分かってる」
Kは何も返さない。
「分かってるから、その顔やめろ」
紅い防具は、何も変わっていなかった。
四番、神崎は、四球目を打ち上げた。
中堅の早川が、少し下がって捕る。
三回、五十四球。
失点は一つのままだった。
*
その裏、フェニックスが追いついた。
三好の安打。
竹田の送りバント。
岩瀬の適時打。
1対1。
ベンチで、Kはグラウンドを見ていた。
大島が、バットを取りに通りかかった。
「振ってくれねえな、下」
Kが顔を上げる。
「俺でも捨てる。ストライク取られるまではな」
大島は、グリップのテープを確かめた。
「見逃してボールなら、打つ方は何も困らねえ」
Kは、手の中のボールを一度だけ転がした。
*
四回。
一回に三振した長谷部が、三球目の直球を左前へ運んだ。
無死一塁。
長谷部は、一塁コーチと拳を合わせた。
六番の村井が、バントの構えに変える。
二球目。
三塁側へ転がる。
Kがマウンドから飛び出す。
追いつく。
拾う。
二塁を見る。
長谷部は、もう二塁の手前だった。
「一つ!」
竹田の声。
Kが向きを変え、一塁へ投げた。
アウト。
一死二塁。
「二塁、見ましたね」
ベンチで真壁が言った。
「捕るまでは速いんだけどな」
伊丹は、腕を組んだまま答えた。
七番の高瀬には、二ボール二ストライクまで粘られた。
Kが一度、首を振る。
五球目の直球。
二遊間を抜けた。
長谷部が三塁を回る。
早川の返球。
滑り込む。
「セーフ!」
1対2。
八番の瀬戸を三振、九番の稲葉を遊ゴロ。
四回で、七十二球。
*
「さっきのバントな」
ベンチに戻ると、竹田が座る前に言った。
「長谷部はスタートがよかった。捕る前から、二塁は厳しかった」
Kが竹田を見る。
「お前の足なら追いつく。肩もある。でも、それで毎回二つ取れるわけじゃない。一塁でいいときは、一塁でいい」
竹田は、ミットを持ったまま人差し指を一本立てた。
Kはその指を見て、うなずいた。
真壁が近づいてきた。
「七十二球。次は上からだ」
坂口、沢井、藤崎。
「落ちる球、全部ボールにしなくていい」
「次、それやるぞ」
竹田が続けた。
Kがうなずく。
竹田は、少しだけ黙った。
「……どこまで分かってんのか、ほんと分かんねえ」
*
記者席で、榊原は四回のバント処理に印をつけた。
捕るまでは速い。
二塁を見る。
一塁へ投げる。
アウトは取った。
失策でもない。
それでも、竹田は大きな声を出していた。
「広瀬なら、今のどうしたかな」
隣の記者が言った。
「一塁じゃない?」
「だよな。二塁見ないよな」
榊原は、すぐには答えなかった。
昨日まで見ていた広瀬は、ああいう場面で迷っているようには見えなかった。
だが、迷わずに一塁へ投げる投手なら、広瀬でなくてもいくらでもいる。
Kだけが、なぜそこで一度止まるのか。
榊原は、起きたことだけを書いた。
捕球後に二塁を確認。
竹田の声で一塁へ。
*
五回。
坂口、三度目の打席。
初球。
スプリット。
坂口は見送った。
「ストライク!」
坂口が、一度だけ竹田のミットを見た。
落としすぎていない。
見送れば、ストライクになる高さだった。
三球目の直球を、坂口が打った。
二ゴロ。
一死。
沢井は左飛。
二死。
三番、藤崎。
一ボール二ストライクから、低めへ落とす。
藤崎は見送った。
ボール。
前の打席と同じ形だった。
藤崎が、バットを肩から少し離す。
竹田がサインを出す。
Kがうなずく。
五球目。
スプリット。
低く、落とし切らない。
藤崎のバットが、少し動く。
止まる。
竹田のミットに収まった。
「ストライク! バッターアウト!」
藤崎が振り向いた。
球審の右腕が上がっている。
何か言いかけて、やめた。
五回、三者凡退。
十一球。
*
「今のだよ」
ベンチへ戻る途中、竹田が並んで歩いた。
「見送ってストライクなら、向こうも考えないといけない」
バイソンズのベンチでは、坂口が、自分の膝の少し上に手を出していた。
藤崎がうなずく。
「もう話してるな」
竹田が言った。
「そりゃ話すよ。こっちが変えたら、向こうも変える」
その裏、成瀬の二塁打と三好の送りバント、竹田の二ゴロの間に一点を返した。
2対2。
派手な当たりは、一本もなかった。
それでも、一点だった。
「行くぞ」
竹田が防具を整えて立ち上がる。
Kも立った。
*
六回。
四番、神崎。
打席に入る前に、神崎は一度だけバイソンズのベンチを見た。
誰かが短く声をかけ、神崎がうなずく。
初球。
スプリット。
見送る。
ストライク。
五回と同じように、先に一つ取った。
二球目、直球。
ファウル。
三球目、外へ逃がす。
ボール。
一ボール二ストライク。
竹田のサイン。
Kがうなずく。
四球目。
スプリット。
神崎が踏み込んだ。
乾いた音。
右中間。
早川が走る。
三好も走る。
二人の間に落ちる。
フェンスへ転がる。
神崎は、二塁に立ったまま止まった。
無死二塁。
本塁側の歓声が消えた。
さっきは、見送られてストライクだった球だった。
神崎は二塁の上で、手袋を外していた。
その顔に、驚きはなかった。
五回に通じた球は、六回には、もう待たれていた。




