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K ―背番号89―  作者: K2MA


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6/34

第6話 二度目

 会議室の画面で、滝川のバットが空を切った。

 一四八キロの表示が残る。


 大阪バイソンズの打撃コーチが、何度も映像を戻した。

 同じ球。

 同じ空振り。


「これを振らないように」

「簡単に言いますね」


 後ろの席から、四番の神崎が言った。


「簡単なら、こんなに見せない」


 次の映像では、低めのスプリットを滝川が見送っていた。


「こっちもある。落ちてからじゃバットは止まらん。どこから手を出すか、先に決めておく」


 覆面の話をする者は、一人もいなかった。

 誰なのかという話なら、移動のバスでも、食事の席でも、もう散々していた。

 今、知りたいのは別のことだった。


 何が来る。

 どこへ来る。

 何を振る。


「真っすぐは速い。横の球もある。全部打とうとするな。追い込まれるまでに絞れ」

「低いの捨てたら、真っすぐ来ますよ」

「来るだろうな」

「百六十も」

「毎回百六十は来ない」


 コーチは、背番号89の後ろ姿で映像を止めた。


「前の試合を見てるのは、向こうも同じだ。六日前と同じ投手が出てくると思うなよ」


    *


 六日前には、誰も存在を知らなかった投手だった。

 その登板を見るために、球場の外には早くから列ができていた。

 手書きの89のボード。

 スマートフォンに映した紅い覆面。


「広瀬に似てるってやつ、見た?」

「見た。ちょっと似すぎじゃない?」

「でも、亡くなってるんだろ」

「だから分かんないじゃん」


 誰かのスマートフォンから、昔の中継の音声が流れた。

 広瀬和巳の名前と、ミットの音。

 列は、少しずつ進んでいった。


    *


 ブルペンで、竹田は最後の一球を受けた。

 低め。

 沈む。


「いいんじゃない」


 Kがうなずく。

 竹田はマスクを外して、額を拭いた。


「今日は、下は簡単に振ってくれないと思うぞ。テレビは百六十ばっかり流してたけど、向こうは最後の一球まで見てる」


 右手を低く出す。


「ここへ落とせば全部終わり、とは思うなよ」


 Kは、少しだけ顎を引いた。


「相手を見て、変えればいい」


 真壁が言った。


「ただし、球数も見ろ。前みたいに、途中からじゃなくてな」


 Kが、またうなずく。


「返事はするんですよ。うなずくのは」


 竹田が真壁に言った。


「それで十分じゃないか」


 真壁が笑った。


「試合で困るの、俺なんですけど」


 Kが竹田を見た。


「何だよ」


 反応はなかった。

 竹田は、先に歩き出した。


「今日は最初から頼むぞ」


    *


 記者席の榊原遼介は、ノートの新しいページに日付を書いた。

 先発、K。

 球団からの新しい発表は、何もない。

 プロフィールも、五行のままだった。

 だが、映像は今日、一試合分増える。

 一試合だけなら、その日の癖かもしれない。

 二度目も、同じなのか。

 榊原は、パソコンに開いていた広瀬の映像を閉じた。

 今から投げるのは、Kだった。


    *


 一回表。


 バイソンズの一番、坂口が左打席に入った。


 初球。

 151 km/h。

 ボール。


 客席の拍手は、六日前ほど大きくなかった。

 速いことは、もう知られている。


 二球目、直球。

 ストライク。


 三球目。

 低めへ。

 沈む。

 バットは出ない。


「ボール!」


 竹田は、坂口の足を見ていた。

 前へ出ていない。

 止めたのでもない。

 初めから、振るつもりがなかった。


 四球目、ファウル。

 五球目、横へ大きく曲げる。

 坂口の膝が、少しだけ動いた。

 ボール。

 フルカウント。


 六球目。

 直球と同じように来て、低めへ沈む。

 坂口は見送った。


「フォア!」


(振らない)


 二番の沢井。

 Kは、前の試合のようにセットで固まらなかった。

 二球目、詰まった三ゴロ。

 二塁は間に合わない。

 一塁へ。

 アウト。

 坂口は二塁へ進む。


 三番の藤崎は、二塁ゴロ。

 坂口が三塁へ進む。

 二死三塁。


 安打は、一本も打たれていない。

 それでも、走者は本塁のすぐそばにいた。


 四番、神崎。

 右打席に入ると、バットの先でベースの外側を一度指した。

 珍しいものを見る目では、なかった。

 投手を見る目だった。


 初球、直球。

 ストライク。


 二球目、低めのスプリット。

 振らない。


 三球目、直球。

 ファウル。


 四球目。

 もう一度、低めへ落とす。

 神崎のバットは、出なかった。

 追い込まれても、来ない。


 五球目。

 一五二。

 神崎が踏み込む。

 一、二塁間。

 大島が飛ぶ。

 届かない。

 右前。

 坂口が還る。


 0対1。


 神崎は、一塁で手袋を緩めながら、一塁コーチに何かを伝えた。


 五番の長谷部には、ファウルで粘られた。

 最後はスプリット。

 空振り。


「ストライク! バッターアウト!」


 この日、初めての三振だった。

 長谷部は、打席を出るときにバットの先を見た。


 一回、二十一球。


    *


「最後の奴は、振ったな」


 ベンチで、竹田がKの隣に座った。


「全員が全部見えてるわけじゃねえよ。ただ、坂口と神崎は、低いのに手出さないって決めてる感じだった」


 竹田は、自分の膝のあたりに手を置いた。


「落ちた後じゃなくて、この辺に来たら、もう見送る。そういう待ち方だ」


 Kがうなずく。


「でも、長谷部は振った。打者ごとに見ろよ。全員同じだと思うな」


 竹田はバイソンズベンチに目をやる。


 バイソンズのベンチでは、長谷部が低い位置で手を動かしていた。

 神崎が、そこになにやら一言加えている。


「こっちも変えるから」


 竹田は立ち上がった。


    *


 二回。


 六番の村井は三ゴロ。

 七番の高瀬に、中前へ運ばれる。

 一死一塁。


 竹田が立ち上がり、内野へ手で合図を送った。

 大島が、二塁ベース寄りへ二歩動く。


 八番、瀬戸。

 三球目を打った。

 遊撃手、日下部の正面。

 二塁へ。

 ベースを踏んだ大島が、そのまま一塁へ。

 併殺。

 十球。


「こういう回があると、楽だろ」


 ベンチで、真壁が言った。


「毎回、三振取らなくていいからな」


 Kは、さっき大島が動いた場所を見ていた。


    *


 三回。


 九番の稲葉を三振に取り、一番の坂口に戻る。

 竹田は、先に直球でストライクを取りにいった。

 坂口は見送る。

 次の球にも、すぐには手を出さない。

 五球目。

 直球。

 坂口が振った。

 中前。

 一死一塁。


(低くなければ)


 二番の沢井は右飛。

 三番の藤崎には、低めと、横へ逃げる球を見送られた。

 直球でカウントを戻し、二ボール二ストライク。

 低めへ落とす。

 藤崎の前足は着いた。

 手は、出なかった。

 六球目の直球が外れる。


「フォア!」


 二死一、二塁。

 竹田は、タイムを取ってマウンドへ行った。


「見えてるな」


 Kは、一塁で手袋を外している藤崎を見た。


「低いの振らねえから、最後は真っすぐ。その順番まで待たれてる。球が悪いんじゃない。投げるところが狭くなってる」


 竹田は、ミットを胸の前で開いた。


「落とすなら、ストライクになるのも要る」


 少し間があって、Kがうなずいた。


「ただし、甘くすんなよ」


 言ってから、竹田は自分で眉を寄せた。


「簡単に言ってんのは分かってる」


 Kは何も返さない。


「分かってるから、その顔やめろ」


 紅い防具は、何も変わっていなかった。


 四番、神崎は、四球目を打ち上げた。

 中堅の早川が、少し下がって捕る。


 三回、五十四球。

 失点は一つのままだった。


    *


 その裏、フェニックスが追いついた。

 三好の安打。

 竹田の送りバント。

 岩瀬の適時打。


 1対1。


 ベンチで、Kはグラウンドを見ていた。

 大島が、バットを取りに通りかかった。


「振ってくれねえな、下」


 Kが顔を上げる。


「俺でも捨てる。ストライク取られるまではな」


 大島は、グリップのテープを確かめた。


「見逃してボールなら、打つ方は何も困らねえ」


 Kは、手の中のボールを一度だけ転がした。


    *


 四回。

 一回に三振した長谷部が、三球目の直球を左前へ運んだ。

 無死一塁。

 長谷部は、一塁コーチと拳を合わせた。


 六番の村井が、バントの構えに変える。

 二球目。

 三塁側へ転がる。

 Kがマウンドから飛び出す。

 追いつく。

 拾う。


 二塁を見る。


 長谷部は、もう二塁の手前だった。


「一つ!」


 竹田の声。

 Kが向きを変え、一塁へ投げた。

 アウト。

 一死二塁。


「二塁、見ましたね」


 ベンチで真壁が言った。


「捕るまでは速いんだけどな」


 伊丹は、腕を組んだまま答えた。


 七番の高瀬には、二ボール二ストライクまで粘られた。

 Kが一度、首を振る。

 五球目の直球。

 二遊間を抜けた。

 長谷部が三塁を回る。

 早川の返球。

 滑り込む。


「セーフ!」


 1対2。


 八番の瀬戸を三振、九番の稲葉を遊ゴロ。

 四回で、七十二球。


    *


「さっきのバントな」


 ベンチに戻ると、竹田が座る前に言った。


「長谷部はスタートがよかった。捕る前から、二塁は厳しかった」


 Kが竹田を見る。


「お前の足なら追いつく。肩もある。でも、それで毎回二つ取れるわけじゃない。一塁でいいときは、一塁でいい」


 竹田は、ミットを持ったまま人差し指を一本立てた。

 Kはその指を見て、うなずいた。

 真壁が近づいてきた。


「七十二球。次は上からだ」


 坂口、沢井、藤崎。


「落ちる球、全部ボールにしなくていい」

「次、それやるぞ」


 竹田が続けた。

 Kがうなずく。

 竹田は、少しだけ黙った。


「……どこまで分かってんのか、ほんと分かんねえ」


    *


 記者席で、榊原は四回のバント処理に印をつけた。

 捕るまでは速い。

 二塁を見る。

 一塁へ投げる。

 アウトは取った。

 失策でもない。

 それでも、竹田は大きな声を出していた。


「広瀬なら、今のどうしたかな」


 隣の記者が言った。


「一塁じゃない?」

「だよな。二塁見ないよな」


 榊原は、すぐには答えなかった。

 昨日まで見ていた広瀬は、ああいう場面で迷っているようには見えなかった。

 だが、迷わずに一塁へ投げる投手なら、広瀬でなくてもいくらでもいる。

 Kだけが、なぜそこで一度止まるのか。

 榊原は、起きたことだけを書いた。

 捕球後に二塁を確認。

 竹田の声で一塁へ。


    *


 五回。

 坂口、三度目の打席。

 初球。

 スプリット。

 坂口は見送った。


「ストライク!」


 坂口が、一度だけ竹田のミットを見た。

 落としすぎていない。

 見送れば、ストライクになる高さだった。

 三球目の直球を、坂口が打った。

 二ゴロ。

 一死。

 沢井は左飛。

 二死。


 三番、藤崎。

 一ボール二ストライクから、低めへ落とす。

 藤崎は見送った。

 ボール。

 前の打席と同じ形だった。

 藤崎が、バットを肩から少し離す。

 竹田がサインを出す。

 Kがうなずく。

 五球目。

 スプリット。

 低く、落とし切らない。

 藤崎のバットが、少し動く。

 止まる。

 竹田のミットに収まった。


「ストライク! バッターアウト!」


 藤崎が振り向いた。

 球審の右腕が上がっている。

 何か言いかけて、やめた。


 五回、三者凡退。

 十一球。


    *


「今のだよ」


 ベンチへ戻る途中、竹田が並んで歩いた。


「見送ってストライクなら、向こうも考えないといけない」


 バイソンズのベンチでは、坂口が、自分の膝の少し上に手を出していた。

 藤崎がうなずく。


「もう話してるな」


 竹田が言った。


「そりゃ話すよ。こっちが変えたら、向こうも変える」


 その裏、成瀬の二塁打と三好の送りバント、竹田の二ゴロの間に一点を返した。


 2対2。


 派手な当たりは、一本もなかった。

 それでも、一点だった。


「行くぞ」


 竹田が防具を整えて立ち上がる。

 Kも立った。


    *


 六回。


 四番、神崎。

 打席に入る前に、神崎は一度だけバイソンズのベンチを見た。

 誰かが短く声をかけ、神崎がうなずく。


 初球。

 スプリット。

 見送る。

 ストライク。

 五回と同じように、先に一つ取った。


 二球目、直球。

 ファウル。


 三球目、外へ逃がす。

 ボール。

 一ボール二ストライク。


 竹田のサイン。

 Kがうなずく。

 四球目。

 スプリット。

 神崎が踏み込んだ。

 乾いた音。

 右中間。

 早川が走る。

 三好も走る。

 二人の間に落ちる。

 フェンスへ転がる。

 神崎は、二塁に立ったまま止まった。

 無死二塁。


 本塁側の歓声が消えた。

 さっきは、見送られてストライクだった球だった。

 神崎は二塁の上で、手袋を外していた。

 その顔に、驚きはなかった。


 五回に通じた球は、六回には、もう待たれていた。


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