第5話 似ている男
同じところで止めたはずだった。
左の画面に、足を上げた投手。
右の画面に、紅い覆面のK。
榊原遼介は、左を一つ戻した。
戻しすぎた。
また進める。
今度は、左の足が先に下りていた。
「……合わんな」
候補に挙がっていたのは、数年前まで国内で投げていた右腕だった。
右投左打。
身長一八四センチ。
静止画にすれば、似ていなくもない。
だが、続けて見ると違った。
この投手は、上げた足を一度止める。
Kは、そこを通り過ぎる。
榊原はメモに書いた。
体格は近い。
動作は違う。
その下に「フォームを変えた可能性」と書きかけて、やめた。
それを言い始めたら、誰も外せない。
何かが違うたびに理由を足せば、候補はいつまでも残る。
榊原は、その名前を一覧の下へ移した。
消すのではなく、順番を落とす。
昨夜から、その作業ばかりしていた。
*
Kが最初に投げた夜から、二度目の朝だった。
編集部のテレビで、竹田が『俺、あいつの声まだ聞いたことないです』と言っていた。
「おはよう。何か出た?」
デスクが机の横で足を止めた。
「一人、薄くなりました」
「フォーム変えてるんじゃないの」
「そう考えると、誰も消せないんですよ」
「じゃあ次だな。記録の方でも一人外れた。本人と連絡ついて、向こうで普通に仕事してたって」
昨日は、名前が増えていった。
今朝は、少しずつ減り始めている。
*
その名前を見たとき、榊原は指を止めた。
Kの七回の最後の一球を載せた投稿。
その下に並んだ返信の一つだった。
〈この落ち方、広瀬を思い出す〉
広瀬和巳。
知らないはずがない。
日米通算一九七勝。
日本を代表した先発投手。
そして、すでに亡くなっている。
候補の一覧へ入れる名前ではなかった。
〈広瀬ってあの広瀬?〉
〈亡くなってるよ〉
〈知ってる。似てるって話〉
榊原は、添えられた古い映像を開いた。
画質は粗い。
それでも、顔は分かった。
帽子の下の、日に焼けた頬。
口を少し開けて、捕手を見ている。
足が上がる。
投げる。
打者のバットが空を切った。
榊原は、Kの七回を並べて再生した。
滝川。
一四八キロ。
沈む。
再生画面は、閉じなかった。
*
短い映像の元になった、長い動画が見つかった。
説明欄の日付を、広瀬の登板記録と照らし合わせる。
一致した。
誰かが似ていると貼った一球が、広瀬が実際に投げた試合の一球になった。
七回。
3対2。
一死一塁。
四番の打者が、打席に入る。
広瀬がセットに入った。
長くは持たない。
すぐにも投げない。
一塁へ目をやり、打者へ戻す。
初球。
外の直球。
ボール。
二球目。
低め。
途中から落ちる。
バットは出ない。
ボール。
打者が、一度打席を外して手袋を締め直した。
中継が広瀬の顔を映す。
何かをつぶやいている。
帽子のつばに触れ、もう一度捕手を見る。
三球目。
外角の直球。
打者は動かない。
ストライク。
四球目。
直球。
打者が踏み込む。
ファウル。
球は一塁側の客席へ消えた。
追い込んだ。
広瀬が返球を受け、足元を決める。
サインに、首は振らなかった。
一塁を見る。
戻す。
足が上がる。
腕が出る。
打者が振った。
バットの下へ、球が抜ける。
三振。
打者は、バットを片手に持ったままマウンドを見ていた。
広瀬は、もう次の打者を見ていた。
五番は初球を右飛。
チェンジ。
広瀬はベンチへ歩き出した。
拳を握ることも、叫ぶこともない。
その背中で、映像が切れた。
榊原は、いつの間にか止めていた手を動かした。
比較のために開いた動画を、最後まで見ていた。
*
すぐに、Kの映像へ戻った。
配球は違う。
打者も球場も、カメラの位置も違う。
直球の後にスプリットで終える投手なら、ほかにもいる。
榊原はメモした。
配球の一致を、根拠にしない。
広瀬の五球目と、Kの最後の一球を並べる。
足の高さは、少し違うように見える。
音を消して、交互に流す。
急いでいるようには見えない。
それなのに、球だけが速い。
さっきの候補の右腕を見ていたときは、合わせる場所を探していた。
広瀬のときは、流して見ている途中で目が止まった。
同じ位置に止める前から、似ていた。
それがかえって、書きにくかった。
感じが似ている。
それだけなら、最初の投稿と変わらない。
*
「飯、行かない?」
隣の席の記者に声をかけられて、昼を過ぎていることに気づいた。
「何か買ってくる」
「またそれ?」
記者が画面をのぞき込んだ。
「広瀬?」
「似てるって投稿があって」
画面の中で、広瀬が投げる。
打者が空振りする。
「懐かしいな」
その一言で、榊原も少しだけ映像から離れた。
懐かしい。
そうだった。
海の向こうの朝の試合。
スポーツニュース。
日本に帰ってきたときの取材映像。
何度も見ている投手だった。
そのころは、フォームを一つずつ止めて見ることはなかった。
「二百は、行かなかったんだっけ」
「一九七」
「そうか。あと少しだったんだよな」
記者は、それだけ言って出ていった。
画面の端の成績に、一九七がある。
その数字は、何年たっても変わっていなかった。
*
広瀬の記録には、空白がなかった。
高校。
入団。
移籍。
渡米。
故障。
何年にどこで投げ、何人から三振を取ったか。
Kの五行を見続けた後では、多すぎるくらいだった。
勝てなかった年もある。
負けが込んだ時期もある。
それでも翌年には、また長いイニングを投げている。
一九七の前には、失敗した登板も含めた長い時間があった。
右肘。
検査。
手術。
復帰へ。
見出しが変わっていく。
その先に、球速が戻らないという記事があった。
試合の映像では、何万人もの観客がいた。
だが、添えられた写真は、ブルペンだった。
後ろには、ネットと折り畳み椅子しかない。
復帰を目指す映像も残っていた。
広瀬が何球か続けて投げ、腰に手を当てる。
誰かと話して、笑う。
笑ったまま、右腕をゆっくり回した。
榊原は、その顔を少し長く見た。
次に、引退会見を開いた。
三十三歳の広瀬は、スーツを着ていた。
『投げられるんです。ただ、僕が試合で投げたい球には、戻らなかった』
記者の一人が、二百勝という数字を口にした。
広瀬は、マイクの方へ顔を寄せた。
『行きたかったですよ。あと三つですから』
『でも、その三つを取る球がないまま、投げさせてくれとは言えないので』
榊原は、そこで止めた。
この顔を、Kの覆面の下へ入れようとしている人間がいる。
まだ、大きな流れにはなっていない。
だが、名前が広がればそうなる。
昨日は、声を出さないというだけで候補の順位が変わった。
似ている映像があれば、なおさらだった。
*
死亡記事は、検索結果の上の方にあった。
引退から、数年後。
交通事故。
搬送先の病院で死亡。
別の新聞でも、同じ事故だった。
同じ名前。
同じ年齢。
榊原は、訃報を見た日のことを思い出した。
編集部のテレビが、急に切り替わる。
若すぎる、と誰かが言った。
その日は、正体を隠した投手を探していたわけではない。
ただ、一人の元選手が亡くなったという知らせだった。
榊原は、Kの映像へ戻った。
紅い防具。
七回のマウンド。
広瀬ではないだろう。
それは最初から思っていた。
死亡記事を読み直しても、変わらなかった。
では、なぜこんなに気になる。
榊原は、広瀬のスプリットをもう一度再生した。
*
デスクが来たのは、その直後だった。
「広瀬、見てる? 動画出たぞ」
差し出されたスマートフォンに、赤い文字があった。
【徹底比較】覆面投手K、その正体は伝説の197勝右腕か。
広瀬の顔とKの覆面の間に、等号。
投稿は二十分前だった。
「いつから当たってた」
「午前中からです」
「何かあるなら先に言ってって、昨日も言っただろ」
動画の中で、二人の身体が赤い線で重ねられていく。
『角度の違いはあります。ただ、この一致は偶然でしょうか』
「実際、どうなの」
「似てます。ほかの候補より、かなり」
「なら記事になるだろ」
「これは映像の大きさを変えて重ねてます。身体が一致するって比較には使えません」
「フォームの方は」
「そこは、似ています」
「じゃあ、それを出そう。広瀬に似てる、でいい」
「本人説としては出せません」
「分かってる。先に動画が回ってる。今から同じ『似てます』を出しても、うちが後から乗っただけだ」
デスクは、机の端を軽く叩いた。
「お前が見た分、何を足せる?」
榊原はメモを見た。
似ているところ。
違うところ。
比べられないところ。
「この動画が一緒にしている部分を、分けられます」
「じゃあ、それだ」
デスクが戻っていく。
動画の後半では、当然のように死亡記事が出てきた。
『本人だと断定するつもりはありません。ただ、仮にですよ』
音楽が変わる。
広瀬の事故。
東条グループ。
非公開の選手登録。
覆面。
具体的な接点は、一つも出てこない。
並んでいるだけで、話ができていた。
死亡偽装。
〈そこまでできるのが東条〉
〈いや普通に失礼だろ〉
〈本人だったら喜ぶべきなんじゃない?〉
喜ぶべき。
誰が。
返信が次々について、その言葉は上へ流れていった。
別の投稿では、広瀬の顔だけが切り抜かれていた。
〈KはKazumiのK〉
榊原は、額に手を当てた。
名前にKがある人間を探していたわけではない。
似た球を見つけて、その人の名前にKがあっただけだ。
それでも。
並べると、根拠が一つ増えたように見えた。
*
榊原は、比べる映像を絞った。
再生速度を変えたものは外す。
落ちる場面だけ集めたものも外す。
フォームは、最後が似ていなかった。
投げ終わると、広瀬は早く捕手へ向き直る。
Kは、打者を見たまま身体が流れることがある。
走者がいると、広瀬は投げるまでの間が変わる。
Kは最初の二回、それがぎこちなかった。
Kの横に動くスイーパーは、広瀬の映像に見つからなかった。
スプリットへ戻る。
こちらは、何度見ても目が止まった。
握りは見えない。
回転数も変化量も、今の資料ではそろわない。
それでも、球を放すまでの身体の使い方には同じものが見えた。
榊原はメモの一番上に書いた。
スプリットの投球動作に、強い類似。
少し見て、「強い」を消した。
*
書き始める前に、一つだけ考えた。
広瀬和巳は、もう何も言えない。
名前を出されても、否定も訂正もできない。
その名前を、正体探しの記事に載せる。
それでも書くなら、せめて、似ているところと違うところを分けて書く。
原稿の最初に、広瀬が亡くなっていることを書いた。
隠さない。
最後まで引っ張らない。
似ている理由と違う点を、同じ重さで並べる。
送ってすぐ、仮の見出しが戻ってきた。
『Kは広瀬か 197勝右腕と酷似する投球』
榊原は電話をかけた。
「『広瀬か』は外してください」
「疑問形だぞ」
「本文で、その可能性を示してません」
「じゃあどうする」
「『Kと広瀬、似ている動きと異なる点』」
「研究発表みたいだ」
候補がないときは、名前を求められた。
名前が出たら、今度はその出し方で止まっている。
「広瀬の名前は入れていいです。ただ、本人かどうかを問う見出しにはできません」
「そこまで言うなら、頭をもっと読みやすくしてくれ。今のままだと、注意書きから始まってる」
榊原は、冒頭を読み直した。
確かに、そうだった。
「直します」
見出しは、もう一度変わった。
『覆面投手Kに広瀬和巳の面影 映像で見る共通点と違い』
*
記事への反応は、二つに分かれなかった。
もっと細かく、ばらばらだった。
〈違う点まで載せてくれるの助かる〉
〈亡くなってる人を候補にするな〉
〈昔の広瀬より球速くない?〉
少しして、動画の新着が出た。
【スポーツ紙も報道】K=広瀬説、いよいよ現実味。
サムネイルに、自分の記事の見出しが使われていた。
「共通点と違い」の後半は、画像の外へ切れている。
何時間もかけて分けたものが、数秒で一つに戻っていた。
それでも、画面の下には別の投稿もあった。
〈この記事読んで、久しぶりに広瀬の試合見た〉
〈やっぱいい投手だったな〉
古い試合のリンクが、添えられていた。
榊原は、それを開いた。
まだ若い広瀬が、マウンドへ歩いていく。
顔が細い。
何球も見たスプリットだった。
それでも、目が止まった。
別の日。
別の相手。
何年も前の広瀬。
やはり、同じところでKを思い出した。
*
編集部の人数が減っていた。
机の上に、昼に買ったパンの袋がある。
空だった。
いつ食べたのか、覚えていない。
画面には、二人の投手。
一方には、顔と名前と、積み重ねた記録がある。
もう一方には、五行のプロフィールと、一試合の映像しかない。
帰り支度のデスクが、画面を一度だけ見た。
「似てるな」
榊原は答えなかった。
その一言で片づくことは、今日は一つもなかった。
人がいなくなってから、榊原はもう一度再生した。
広瀬。
止める。
K。
止める。
今度は、逆の順番にする。
K。
広瀬。
それでも、似ていた。




