第4話 声
Kの声を、チームの誰も聞いたことがない。
デスクは、二回目の呼び出しで出た。
「名前、出たか」
「まだです。ただ、竹田はKの声を一度も聞いたことがないそうです」
「会見で喋らないって話じゃなくて?」
「ロッカーでも、マウンドでも。竹田がそう言っています」
電話の向こうの物音が止まった。
「昨日、ベンチで話してたろ」
「竹田が一方的に話していたそうです。Kはうなずくか、首を振るか。大島も、素顔は見ていないと」
「それ、お前だけに言った?」
榊原は、取材エリアを振り返った。
さっき隣にいた記者が、電話を耳に当てて歩いている。
「囲みです。他社も聞いてます」
「じゃあ先にそれ送れ。誰が何を言ったか、そのまま。短いのを出す」
「十分ください」
通話が切れた。
空いている机で、録音を再生する。
『俺、あいつの声まだ聞いたことないです』
戻す。
もう一度聞く。
竹田の言葉を、そのまま打つ。
ロッカーでも声を聞いていないこと。
マウンドではサインと身振りだけだったこと。
大島も、素顔を見ていないこと。
一つずつ、誰の証言かを分けて書く。
送信。
〈出す。続き頼む〉
録音を先へ進める。
『でも、こっちの話は聞いてますよ』
そこで止めた。
昨夜の三回の後。
ベンチの映像では、竹田の口だけが動いていた。
Kがそちらを向き、うなずく。
四回、一四九キロ。
声を返さない相手に、竹田が注文をつけた。
その後に、投球が変わった。
榊原は、続きの原稿を打ち始めた。
*
最初の記事が出たのは、続きを半分ほど書いたときだった。
『覆面投手K、捕手も「声まだ聞いたことない」 大島は素顔見ず』
発言も名前も、間違っていなかった。
返信が来る。
〈これ欲しかった。投球の方も頼む〉
榊原は机の下で、少しだけ足を伸ばした。
朝から初めて、取材した分だけ前に進んだ気がした。
続きを送るころには、他社の記事も並んでいた。
『Kはロッカーでも無言 女房役が証言』
『謎深まる89番 同僚も声聞かず』
同じ取材場所。
同じ竹田の言葉。
ある記事では、それが「Kの声を誰も聞いたことがない」になっていた。
引用は、竹田一人だけだった。
ネットの反応は、もっと早かった。
〈味方にも声出さないのは徹底しすぎ〉
〈声聞いたら一発で分かる人なんだろ〉
〈元代表説、これで逆に強くなった〉
〈英語でもバレるくらい有名なんだよ〉
知名度の低い選手だから、誰も知らない。
有名な選手だから、声を出せない。
朝には逆だった説明が、同じ候補を支えていた。
別の投稿には、昨夜のベンチの映像。
〈捕手だけ喋ってる。これ指示を入力してるんじゃないの〉
〈やっぱ東条の実験だ〉
〈だから四回から性能変わったのか〉
榊原は眉間を押さえた。
記事には、そこまで書いていない。
それでも、どの投稿にも記事へのリンクがついていた。
*
夕方。
朝と同じ野球帽の男が、新しい動画を上げた。
【捕手が衝撃証言】Kが絶対に声を出せない理由。
サムネイルでは、Kの口元が赤い円で囲まれていた。
その横に、竹田の写真。
『これで、ちょっと状況変わりましたね。仲間にも喋らない。素顔も見せない。ここまでやる必要があるってことです』
画面の端に、東西スポーツの記事が映る。
その脇に候補者リスト。
一人の横に、上向きの矢印。
別の一人に、疑問符。
この数時間で、候補について分かったことは一つもない。
Kが喋っていないという証言で、リストの順位だけが変わっていた。
コメント欄には、ドキュメンタリー企画説まで出ていた。
〈選手にも知らせてないのは、正体明かしたときの反応を撮るためだろ〉
デスクから電話が来た。
「反応いいぞ。うちの名前も動画に出てる」
声は、朝より少し軽かった。
「取材で、一つ増えたな」
「名前には届いてませんけど」
「それはこれからだ。今日の記事で、昔一緒にやった奴が気づくかもしれない。映像も当たってくれ」
通話が終わる。
朝から作っていた候補の一覧を開く。
隣に、新しい欄を作る。
声で分かるはず。
顔を隠す理由があるはず。
有名な過去があるはず。
根拠の欄に、「はず」ばかりが並んだ。
一人目の候補の、古い投球映像を開いた。
足を上げる。
踏み出す。
腕が出る。
Kの映像と、同じところで止めた。
*
フェニックスのロッカーでは、候補が一人消えていた。
「この人、昨日も試合出てるわ。海外で」
「同じ時間?」
「時差あるから……いや、無理。移動できない」
「じゃあ違うな」
大島はバッグを閉じた。
「一人減ったか」
「別の動画だと、増えてます」
「終わらんな」
Kは椅子に座り、タオルを畳んでいた。
若手のスマートフォンから、聞き覚えのある声。
『俺、あいつの声まだ聞いたことないです』
通りかかった竹田が、足を止めた。
「もう出てんのかよ」
「竹田さん、動画になってます。喋らないの、企画だからだって」
「何の」
「最後に正体を明かすドキュメンタリー。選手も知らされてない方が面白いからって」
若手が、カメラを探すように天井を見回した。
「お前、正体分かったときも、そういう顔しろよ」
大島が言った。
「どういう顔ですか」
「今の顔」
笑いが起きた。
竹田は、笑いの輪から抜けた。
Kの隣の椅子を引き、腰を下ろす。
Kはタオルを畳む手を止めなかった。
「悪かったな」
Kが顔を上げる。
「俺が囲みで言ったやつ。変なふうに広がってる」
「企画だとか、声出せねえとか。俺、そんなこと一言も言ってねえのに」
Kは首を横に振った。
「……気にしてねえってこと?」
うなずく。
「そうか」
竹田は、膝の上で手を組んだ。
「でも、嘘は言ってねえからな」
Kが竹田を見る。
「お前の声を聞いたことねえのは本当だし。こっちの話を聞いてんのも、本当だろ」
少し間があった。
Kは、うなずいた。
「なら、いい」
竹田は立ち上がった。
「次からは、もうちょっと考えて喋るわ」
一歩行きかけて、振り返る。
「あと、セット。次も短くな」
Kはタオルの角を揃えた。
竹田は自分のロッカーへ戻った。
若手が動画を閉じた。
短い投稿の並ぶ画面へ戻る。
指を滑らせる。
一度通り過ぎたものを、少し戻した。
「広瀬っぽいって」
「広瀬?」
「広瀬和巳。最後の落ちる球。ほら、このコメント」
〈最後のスプリット、ちょっと広瀬っぽい〉
長い説明は、なかった。
「広瀬って、亡くなっただろ」
「だから、似てるって話じゃないですか。俺、ちゃんと見たことないんですよね。そんなすごかったんですかね」
大島は顔を上げた。
「すごかったよ」
「対戦しました?」
「した」
「どうでした?」
大島は、少し考えた。
「嫌だった」
若手が笑う。
「それだけですか」
「それで十分だろ」
廊下から声がした。
選手が二人、呼ばれて立つ。
スマートフォンがロッカーへ放り込まれる。
Kの手は、止まっていた。
畳みかけのタオル。
その端を、指がつまんでいる。
「K、こっちお願いします」
入口から、スタッフが呼んだ。
紅い頭部が上がる。
Kはタオルを置いた。
立ち上がり、椅子を戻す。
誰も、その手を見ていなかった。
ロッカーを出ると、廊下のテレビにも自分が映っていた。
百六十キロ。
歓声。
大きな疑問符。
Kは立ち止まらなかった。




